第2話 曖昧な記憶
衝撃のあの日――(悠馬の場合)
グシャッ!
あの時、僕にはそう聞こえた。それは壊れた人形のように見えた。人間とは、いとも簡単に壊れるものなのだと、その時思った。
中学の時、僕は飛び降り自殺を目撃した。飛び降りたその人を僕は見知っていた。その人は毎朝、僕が通る駅から降りてきていた。後から聞いた話だが、彼女は飛び降りたビルの中にあるオフィスに勤めていたらしい。 でも、彼女がなぜ飛び降りたのかは知らない。聞いたのかもしれないが、覚えていない。
中学生の僕はその人に仄かな恋心を抱いていた。とは言っても毎日、ただすれ違うだけで、ただの一言も口を利いたことさえなかったが、その人はとても綺麗だった。でも、地面に転がっていたその人は、歪な形に変形して元の面影は少しも残っていなかった。
その時、僕は思った。美しい顔も醜い顔も、一皮剥けばみんな同じなんだと。
それから僕は、おかしなものを見るようになった。そこかしこをうろつく変な輩。それは人の背に乗っかっていたり、一人で歩いていたりする。でも誰もそれを気に留める様子はない。というより、気付いていない。日が経つにつれて、それが何なのか段々と分かるようになってきた。最初は気味が悪かったが、今ではもうすっかり慣れた。それらは別に何をするでもなく、ただそこいらにぼんやりといるだけなのだから。彼らは何もしない。でも、時折、とても怖い表情で誰かを見ていることがある。
今もそうだ。あの窓際の男の前に座っている女は、頭から血を流して目の前の男を睨みつけるようにして座っている。あの男に何か恨みでもあるのだろうか。でも、きっとあの男にはその姿は見えていないのだ。それでもその男は、寂しげな笑みを浮かべて前の席を見ている。テーブルの上に置かれたコーヒーカップはとっくに空になっているのに、急ぐ風もなく、ただぼんやりとそこに座っている。僕はその姿を何度も見ている。
僕がこのカフェに出入りするようになったのは、もうずっと前だ。あれはいつだっただろう、はっきりしない。ここは落ち着く。何気なく入ったこの店は、僕にはとても居心地が良かった。それから時間があるとこの店に来ている。でも、僕はここのコーヒーを一度も飲んだことがない。僕は昔からコーヒーが苦手だ。初めて飲んだのは確か小学生の時だった。僕にはただただ苦いだけの飲み物にしか思えなかった。
大人になれば美味しくなると父は言ったが、未だに好きにはなれない。あれから何年経ったのか。何年……とにかく、何年も経っているはずだ。
あの飛び降りを見て以来、僕の周りに変化が起きた。それとも僕が変わっただけなのか。何しろまだ中学生の僕には衝撃的な場面だったのだから。もしかしたら精神的に病んでしまったのかもしれない。母はあの日から僕を見て話さなくなった。父もどこかよそよそしい。あの変な輩を見るようになったことと関係があるのかもしれない。
だって、僕の肩にはいつもあの飛び降りた女がへばりつくように乗っているのだ。
両親は何も言わないが、きっと彼らにも視えているのだろう。だから僕の方を見ないようにしているのだ。でも僕にはどうしようもない。何度も振り落とそうとしたけれど、彼女は僕の肩から離れない。あれ以来、僕はずっと彼女と一緒だ。なんで僕から離れてくれないんだ。もう仄かな恋心など微塵も残っていないというのに。寺や神社にも行ったが、誰も相手にしてくれなかった。みんな見て見ぬ振りだ。僕が一生懸命話し掛けても、叫んでも素知らぬ顔をしている。
「なんでだよ?!助けてよ!」
僕の人生設計は、この荷物のせいですっかり変わってしまった……と言いたいところだが、僕は自分がどんな風に生きていくのかなどと正直真剣に考えたことがなかった。今もどうしてここにいるのか、よく分からないのだ。自分が何をしているのか、時々分からなくなる時がある。ふっと、記憶が飛んでしまうのだ。
そうだ、あの飛び降りには確か巻き添えになった中学生がいた。偶然下を通っていた中学生の上に彼女は落ちたのだ。僕は地面に転がっていたその中学生の姿も見た。僕と同じ制服を着たあの中学生。あれは誰だったのだろう。
僕はその中学生をとてもよく知っているような気がした。でも思い出せない。いつももう少しで思い出しそうになるのに、なぜか出てこない。あの中学生はどうなったのだろう。確か……ダメだ、思い出せない。何なのだろう、この感覚は。まるで喉にいつまでも引っかかって取れない魚の小骨のようだ。
あの時から、記憶はとても曖昧なままだ。
終
お読みいただきありがとうございます。
こちらのお話しの中には第一話の「君の面影」の描写がチラッとだけ入っております。
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