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RIVER-SIDE-CAFE   作者: 麗 未生(うるう みお)
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第17話 止まったままの時間

会いたいと思う心――(綾乃の場合)

「本当に美味しいわね、ここのコーヒー」

「ありがとうございます」

「私、コーヒーはどちらかといえば苦手だったのよ」

「そうなんですか」

「うちの息子もコーヒーは苦手だったわ。大人になったら美味しくなるよって、主人がよく言っていたのだけど……」


私の頭に息子の笑顔が浮かぶ。あの日の朝もそうだった。


「行ってきます」


笑顔で息子は家を出た。まさか、それが息子の生きている最後の姿になるとは、夢にも思わなかった。

あの電話がかかってきたのは、息子が家を出てまだ1時間も経っていなかった。


「息子さんが……」


その瞬間から私の時間は止まった。何が何だか訳が分からなかった。息子はいつものように、夕方には学校から帰ってくるはずだと、ただそう思った。


 私はそのまま、ぼーっと玄関に座っていた。時間の経過も分からなくなり、気がついたら夫が私の目の前にいて、何かを言っていた。最初は、悲壮な顔をした夫がただ口をパクパクと動かしているだけに見えた。夫の声が私の耳に届くまで、少しラグがあるような感覚だった。


「おまえ、何してるんだ? 電話も出ないし……」

「あの子を……悠馬を待ってるの……帰ってくるはずだから……」

「だから、あの子は……っ」


そこから動こうとしない私を、夫は無理やり引っ張っていった。連れていかれたのは病院ではなく、警察の遺体安置室だった。


 私はそこに入りたくなかった。そこには見たくない現実がある。見なければ、それは現実ではなくなる。そんなふうに思った。でも、そこにあの子がいると言われた。

 そして、とても無機質で冷たいその部屋の中で、とても冷たい体の、物言わぬ息子が横たわっていた。

足が動かなかった。――これは現実じゃない。こんなことあるはずがない。これは、あの子じゃない――


 私はそれから毎日、夕方になると玄関で息子が帰ってくるのを待った。夫は何も言わなかった。不思議なことに、私は息子が毎日帰ってきているような気がしていた。ふわっと何かが私の横を通るのを感じていたのだ。


 現実を受け入れるまでには、随分と時間がかかった――。


 息子は、ビルの上から転落した人の下敷きになって死んだ。朝、普通に学校へ行った子が、そのまま2度と帰ってこないなんて、どうして受け入れることができるだろう。それも、息子には何の落ち度もないのに。


 上から人が落ちてくるなんて、誰も考えたりしない。


落ちてきたのは若い女性だった。後から、自殺だったのかもしれないと言われた。

納得できなかった。どうして、そんな時間に? なぜ、朝の、人が必ず下を歩いている時間と場所を選んだのだ? 誰かへの当てつけ? 人に見せたかった? 一人で死にたくなかった?


――そんな、死にたい人の巻き添えで、どうして私の息子が死ななければいけないのか。


 死にたい人は勝手に死ねばいい。でも、どうしてその犠牲に私の息子が?


理解が追いつかなかった。私の息子でなくてもよかったのでは? 他の誰かの上に落ちれば良かったじゃない。酷いと思われるかもしれないが、そんなふうに思った。


 私は息子がいなくなってからも、家で息子に話しかけてしまう。姿は見えなくても、そこにいるような感じがしていた。生きていたら、もう24歳になっているはずの息子の姿は、いつまで経っても14歳の中学生のままだ。時間が止まってしまった私の目には、成長した息子の姿は見えない。


 大人になった息子の姿を何度も思い浮かべようとしたけれど、やはり私の瞼に浮かぶのは、中学生のままの息子た。あの朝、学校へ行った時の姿ばかりが、映像のように私の頭に繰り返し映し出される。

あの子の成長も、私の時間も、もうずっと止まったままだ。


 だけど最近は、家の中で息子の気配を感じることが少なくなった。時の流れと共に、私の中からあの子の記憶が薄れていっているのだろうか。


 何年もかかって、私はようやく、こうして外に出ることができるようになった。夫のおかげだ。長い間、無気力で何もできなかった私を、ずっと黙って見守っていてくれた。あの人がいなければ、私はきっと、もうこの世にいなかっただろう。


 ここのコーヒーを美味しいと思って飲むことも、なかったはずだ。


 寄り添ってくれる人の温もりを、やっと感じられるようになった。

息子が生きていたら、あの子もここのコーヒーを「美味しい」と言っただろうか。


ふっと横を見ると、コーヒーを口に運ぶ息子の姿が見えたような気がした。いるはずもないのに――。


「お母さん、苦いよ」


そんな声が聞こえてきそうだ。このカフェに初めて入ったときも、ここに入っていく息子の姿が見えたような気がしたのだ。当然、中に息子がいるはずもなかったが。

 でも、ここにいるとたまに感じるのだ。近くで私を見ている息子の気配を。きっと気のせいだ。でも、私はその温もりを感じたくて、ここに来てしまう。


「お母さん――?」

「え?」


ほら、また……。



                             終

お読みいただきありがとうございます。

こちらの話は第2話「曖昧な記憶」と繋がっています。

また第6話「離れられない」と関連があります。


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今後ともよろしくお願いします。

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