第11話 私の席
勘違いなのに…(美由紀の場合2)
私は、ある日突然、真っ暗な世界に落ちた。そして気がつくと、泣いている娘とあの人の姿が見えた。
何が起こったのかよく分からなかったが、どうやらそこが霊安室であることは理解できた。私は、その2人を後ろから見ていた。そして、その向こうの台の上には、私が横たわっていた。
(どういうこと……?)
私は自分の記憶をたどる。ヘッドライトの眩しさと車のブレーキ音が頭の中に広がる。そこで、私の記憶は途切れていた。
(もしかして)
私は死んだのだろうか。でも、特に何も感じなかった。それが不思議だった。死んだらもっと後悔するとか、やり残したことがあったと強く思うのではないかと考えていたが、いざ死んでみると、特に何もないことに驚いた。もしかして、死を目前にした時こそ、生きているうちにあれこれ思うものなのかもしれない。死んでしまった今となって今さらできることなどない。やりたかったことも思い当たらない。
私は本当に何も思い残すことがないのか、考えてみた。
(うーん……)
娘はもう結婚していて、夫婦仲も良好。子どもはまだいないが、特に心配することもなさそうだ。夫とは……あまり会話もなかった。一緒に何かしたかったというほどの思いもない。誰か好きな人でもいれば、と思い浮かべてみると、頭をかすめる人物はいた。しかし、特に付き合っていたわけでもないので、それほど思いを残している、ということも無い。
それにしても、娘があんなに泣くとは予想外だった。どちらかというと冷めた性格で、親子仲も良くも悪くもないという関係だったのに。
(へぇ……泣くんだ)
そんなふうに思った。
私は、そのあとも自分の葬儀の様子をずっと見ていた。案外、いろいろな人が来ていた。娘は泣き、夫は神妙な顔でうつむいている。何を考えているのだろう。ずっと、何を考えているのか分からない人だった。死んだ今も、それは変わらない。斎場では娘は震える手で、夫は何も語らず、ただ黙々と私の骨を箸でつまみ、骨壺に入れていた。
私はそのまま夫と一緒に家へ戻った。特に帰りたかったわけではない。ただ、他に行くあてがなかったのだ。私は成仏しないのだろうか。そういえば、人の魂は四十九日までは現世をさまようと聞いたことがある。では、私はそれまでここにいればいいということなのだろうか。
ある日、夫は私が残した家計簿を見つけた。
(あ、だめ!)
なぜか、咄嗟にそう思った。何か、見られてはまずいものがあったような気がする。何だったかな。そう考えていると、夫の手が止まり、何かを見つめていた。そして、数枚のページをめくりながら、少し涙ぐんでいる。
泣かれるようなことを書いた覚えはない。何を書いたのだったろう。私は夫の後ろに回って覗き込んだ。
(ああ、これか……!)
しかし、なぜ夫が涙ぐんでいるのか。もしかして、何か誤解したのかもしれない。そう考えに行き着いた。
(違う違う! それはあなたのことじゃないし!)
そう叫んでみたが、まるで聞こえていないようだった。こんなにも会話のなかった夫婦なのに、そんなふうに思うはずがないじゃないですか! どうやら、人間というものは何でも都合よく美化して変換するらしい。まさに「死人に口なし」とはこのことだ、と私は思った。
それから暫くして、夫は一軒のカフェを訪れた。
(ああ、ここだ!)
私はすぐに分かった。私が生前、唯一の憩いの場として通っていたカフェだ。週に1度訪れて、窓際の隅の席に座り、コーヒーを飲む。それが私の習慣だった。そうだ、私がいつも頼んでいたのはキリマンジャロ。ここのキリマンジャロが美味しいと教えてくれた人がいたから。
その人はたまに現れて、カウンターでコーヒーを飲んでいた。彼は、私がずいぶん昔に付き合っていた男性と少し面影が似ていた。だから、私は彼に会えるのを楽しみにして、ここへ来ていたのだ。
夫はマスターと少し話をすると、私がいつも座っていた席の向かい側に腰を下ろした。
(いやいや、そこはダメでしょう! 邪魔だってば! そのテーブルは私の席なんです!)
私は夫に必死に訴えたが、当然のように気づいてもらえない。そうして彼は、ゆっくりとコーヒーを飲みながら、まるで私に語りかけるように言った。
「やっと、二人で来れたね」
一瞬、前にいる私のことが見えているのかと思った。でも、何を言っているの? ここは私が1人で来て、一人で過ごす大事な場所だったのよ。二人でなんて、来たくなかったの! ああ、なんて不愉快なんでしょう。あなたがそこに座ったら、彼が来ても見えないじゃないの……。
でも、夫には何も聞こえない――。
終
お読みいただきありがとうございます。
こちらのお話しは第1話「君の面影」、第4話「淡い想い」と繋がっています。
また、第8話「睨む女」とも関連があります。
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