第1話 君の面影
ある夫の嘆きーー(和哉の場合)
〈リンードアベルの音が静かに店内にひびく〉
昼下がりのカフェ。旨いコーヒーに舌鼓。ゆっくりと暮れていく外の景色を眺めながら、のんびりと過ごす。
そう広くはない店内には、私のように一人でいる者とそうでない者がまばらにいる。若い者とそう若くもなさそうな者。私と同じくらいだろうか。各々が過ごす時間。コーヒーカップはとっくに乾いているが店の主は特に追い立てる風もない。
ぼんやりと前を見る。二人掛けのこのテーブルの前の椅子は空席だ。もしここに君がいれば…と想いを馳せる。しかしそれもせん無い事だ。私は仕事に明け暮れ全く持って家庭を疎かにしていた。
出張先に掛かってきた電話は妻の事故死を知らせる電話。受話器の向こうで娘の嘆く声が響いていた。それは私にはどこか現実離れした出来事のように思えた。自分の身にある日突然不幸が訪れるとは全く考えていなかった。前日の朝、私を見送った妻はいつもと変わらぬ笑顔だった。忙しい私にどれほど不満を抱いていたのかも今となっては何も分からない。物言わぬ、冷たくなった妻の姿を目の前にしても私はまだこれが現実の事だとは思えなかった。
妻とは近く迎える定年の後、その余生を共に生きて行くものだと勝手に思っていた。果たして妻もそう思っていたのか。もっと優しい言葉をかけていればと、もっと「ありがとう」を言っていればと後悔は尽きない。
妻のいない家があんなに広いとは思わなかった。一人で過ごすあの家での時間はとてつもなく長く孤独だ。妻は私がいない時間をずっとそうやって過ごしていたのだろうか。妻が何を思い、何を望んでいたのか。私はその何一つを知らなかった。
茶棚の引き出しを引くと家計簿が何冊も出てきた。妻が家計簿をつけていたのも私は知らなかった。家の事は全て任せっきりだった。何気なくその家計簿を開く。そこには妻の言葉が数字と共に記されていた。
今日もあの人が無事に過ごせますように。
今日は顔色が悪かった、大丈夫かしら。
もっとあの人との時間が増えますように。
そんな何気ない小さな言葉がそこここに溢れていた。胸が痛くなった。家計簿の中に私の知らない店のレシートが週に一度の割合で挟まれていた。私は興味を持ちそのレシートの店を訪れた。それが今、私がいるこのカフェだ。男とでも来ていたのだろうか、ふと、そんな疑念が湧く。
私は何度かここを訪れ妻の事を店主に尋ねた。写真を見せると店主は妻の事を覚えていた。妻はいつも一人でここに来ていたらしい。昼過ぎに来てキリマンジャロを頼み、ゆっくりと飲み干し二時間ほどただぼうっとこの席に座って時間を過ごしていたそうだ。妻が特にコーヒーを好きだったという話は聞いた事がない。
「妻は何か言っていませんでしたか?」
私の問いに店主は少し考える風な顔をする。
「あまりお話にはならなかったのですが一度だけ…
『いつかこういう店をあの人とやれたら良いな、なんて。ただの夢ですけど』
私がご主人とですか?と尋ねると少し首を傾げて
『フフッ。どうかしらね』
と、少し寂し気に、でもどこか楽し気にも見える笑みを浮かべてられましたよ」
と店主は応えた。妻にそんな夢があったなんて、私は何も聞かされていなかった。妻はどうして私に何も言わなかったのか。答えは一つだ。私が忙しさに追われて妻の話を聞かなくなったからだ。妻は会社に行く私の背中をどう思いながら見送っていたのだろう。あの笑顔の裏に隠された寂しさを一度も汲んでやる事もなく、それでも老後は二人で共に、などと優しい言葉を掛ける事もなかったのに、そんな事を思っていた私は何と愚かだったのだろう。
家計簿に散りばめられた妻の言葉に今更涙したとて妻が救われる筈もないのに。
ただ、私は今もこうしてこの店にやってくる。妻が座っていたという席の向かいに座り、妻が飲んでいたというキリマンジャロをゆっくりと飲む。そうして時々、妻の幻を見る。居る筈のない妻の姿がぼんやりと見える。
やっと二人で来れたね。私はそっと話し掛ける。妻は小さく頷く。そんな幻の時間を求めて私はまたここへやってくる。
君に逢うために―――。
「また来るよ、マスター」
終
お読みいただきありがとうございます。
こちらは以前YouTubeにあげていた作品です。
ただ不慣れなため画像も音声もあまり良い出来ではありません。
今はYouTubeは中断しています。(向いてないようです)
以前の物に修正加筆をしてみました。
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