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横浜似の川崎さん

駅の改札を出たとき、雪が混じった雨が静かに降っていた。夜の道は濡れて黒く光り、遠くの街灯がぼんやりと光を投げかけていた。右手には古い傘、左手にはスマホを握り、僕は特に急ぐでもなく歩き出した。風が冷たくて、耳元で小さく唸るような音を立てていた。どこかで何か悪いことが起こりそうな気がしたけど、なぜだか分からない。


「明日には雪が積もるかもね」

誰に言うでもなく呟いて、空を見上げた。その瞬間だった。


キキーッ!

ドン!


鋭いブレーキ音が夜を切り裂き、鈍い衝撃が空気を震わせた。目の端で、スリップした車が僕の方へ滑ってくるのが見えた。心臓がドキッと跳ねて、身体が勝手に動いた。一瞬早く飛びのいたから、冷たい金属が僕をかすめて地面にぶつかっただけですんだ。でも、もし動けなかったら、僕はその下で潰れていたかもしれない。


だけど、そこで何か変だと気づいた。車から降りてきた運転手が、顔を真っ青にして車の下を覗き込んでいた。震える手で口を押さえている。僕も下を見た。雨と雪で濡れた横断歩道が、赤く染まっていた。まるで子供が食べ残したイチゴのかき氷みたいに、鮮やかでちょっと怖い色が広がっていた。


「誰か、轢かれたのか」

そう思った瞬間、空が急に眩しく光って、僕の頭の中は真っ暗になった。


---


「伊藤さん、伊藤さん、聞こえますか?」

耳に声が届いて、僕は小さくうめいた。

「うぅ、眩しい、はい、聞こえます」


ゆっくり目を開けたけど、光が強すぎて何も見えなかった。少し時間が経つと、目の前に男の人が立っているのが分かった。白いスーツに黒いネクタイ、顔はテレビに出てくる俳優みたいで、かっこよすぎて現実っぽくなかった。男の僕でも、ちょっとドキッとするくらいだった。


「あの、あなたはどなたですか?」

僕が聞くと、彼は静かに名刺を差し出した。

「私はこういう者です」


反射的に自分の名刺を探そうとしたけど、カバンがないことに気づいて、「名刺を切らしてまして」と呟きながら、両手でその紙を受け取った。


**Ghoogle 幽tuber対策室 室長 川崎流星**


「幽tuber対策」

名刺を見ながら彼を見上げると、確かにあの有名な俳優に似ていた。でも、どこか少しズレた感じがあって、それが「川崎流星」という名前に妙に合っていた。思わず笑っちゃった。彼は眉を少し寄せて、鋭い目で僕を見た。


「あ、いや、失礼しました、ここは一体どこなんですか?」

僕が慌てて聞くと、彼は落ち着いた声で答えた。

「ここはGhoogleの日本支部です」


「Googleじゃなくて」

首をかしげると、彼は少し声を低くした。

「これからお話しすることで混乱するかもしれませんが、どうか落ち着いて聞いてください、と言っても難しいかもしれませんね」


「え」

驚いて声が漏れると、彼は淡々と続けた。

「あなたは死にました、今、あの世にいらっしゃいます」


「え」

頭が真っ白になりかけると、彼はさらに言った。

「車に轢かれて死にました」


「え」

何も考えられなくなると、彼は静かに締めくくった。

「ですから、今、あなたは死んで、あの世にいるんです」


「え」

同じ言葉しか出てこない僕を見て、彼は小さくため息をついた。

「ああ、ダメだ思考止まるタイプか……」


川崎さんはメガネを外して、レンズを拭き始めた。まるで気持ちを整えるみたいに、彼は独り言をつぶやきだした。

「100から7を引くと93、93から7を引くと86、86から7を引くと69、69から7を引くと」

その声を聞きながら、僕はぼんやりと彼を見つめていた。現実が遠く感じられて、頭の中が静かだった。


「20から7を引くと13、13から7を引くと6」

彼の呟きの中で、僕がやっと口を開いた。

「あの、僕、本当に死んだんですか?」


「お、戻りましたね、はい、死んでますよ」

彼がそう言うと、僕は自分の腕を触ってみた。

「でも、身体だってちゃんとあるし、触った感じも」


でも、そこには何もなかった。触れる感覚も、触れられる感覚もなくて、ただ風が通り抜けるような空っぽさだけが残った。


「今、あなたは幽体ですよ、意識だけの存在なんです」

その言葉に、僕は思わず声を出した。

「うわぁ」


また頭が混乱してきて、川崎さんは静かに僕を見て、またメガネを磨き始めた。


呟いたまま、声が宙に浮いて消えた。頭の中では何か言わなきゃ、何か考えなきゃと思ったけど、言葉も思考もぐるぐる回るだけだった。川崎さんは僕をじっと見て、メガネをかけ直すと口を開いた。


「混乱するのは分かります、誰でも最初はそうです、でも、早く慣れてくださいね」

その言葉に、僕は掠れた声で聞いた。

「慣れるって、何に?」


喉が乾いてるわけじゃないのに、喉がカラカラだった。


「死んだことに、幽体であることに、そして、この場所に」

彼はそう言って、部屋の隅を指差した。白い壁と黒い机、パソコンがあるだけのシンプルな場所だ。


「ここって、本当にあの世なんですか?」

僕が聞くと、彼は少し考えて答えた。

「そうですね、あの世と呼ぶのが一番近いかな、ただ、あなたが想像してるような場所とは少し違うかもしれません、僕らがいるのはGhoogleの日本支部で、幽tuber対策室っていうのは、ある種の管理部署なんですよ」


「管理」

僕が呟くと、彼は静かに説明した。

「ええ、幽霊になったばかりの人たちが、地上の動画に映り込まないように管理するのが僕らの仕事です」


川崎さんは机の上のコーヒーカップを手に取った。黒い液体がゆらゆら揺れている。僕はそのカップを見て、胸がぎゅっとした。コーヒーだ。生きていた頃、毎朝必ず飲んでいたあの味と香り。駅前の小さな喫茶店で、マスターが黙って淹れてくれる濃いブラックが僕の毎日の始まりだった。


「それ、飲めるんですか、僕たち、幽体ですよね」

声にちょっと期待が混じっていた。


彼は小さく笑った。その笑顔は少年みたいで、さっきまでの硬い感じが少しやわらいだ。

「飲めますよ、味も感じられます、幽体でも感覚は残ってるんです、ただ、それはあなたの意識が作り出してるだけかもしれませんけど、コーヒーがお好きだったんですか」


「好きっていうより、生きがいみたいなものでした、毎日飲まないと一日が始まらないくらいで」

僕がそう言うと、彼は頷いてカップを差し出した。

「じゃあ、飲んでみてください、意識が覚えてる味がするはずですよ」


どこからともなくもう一杯のコーヒーを取り出し、彼はそれを僕に渡した。白いカップに注がれた黒い液体から、細い湯気が立ち上る。手に持つと温かくて、指先にその熱が生きていた頃の記憶を呼び戻した。


一口飲んでみる。苦味と酸味が舌に広がった。確かにコーヒーの味だ。駅前の喫茶店で飲んでいた濃いブラックに似ている。でも、どこか薄い。現実のものより軽くて、透明な感じがした。それでも懐かしさが胸に広がって、僕は目を閉じた。


「どうですか」

川崎さんが僕を見ながら聞いた。

「コーヒーですね、僕が好きだった味に近い、でも、少し軽いっていうか、現実のあの重さがなくて」


「でしょうね、幽体の感覚ってそういうものです、現実の重さが抜けてるんです、でも、慣れますよ、ほとんどの人は慣れます」

彼の言葉に、僕はさらに聞いた。

「ほとんどの人って、僕以外にもいるんですか、ここに」


「いますよ、あなたが最初でも最後でもありません、この部屋を出れば、他の幽体たちに会えます、ただ、その前に一つお仕事を終わらせないといけませんね」

彼がそう言うと、僕は少し緊張した。

「仕事って何ですか」


彼は目を細めて、少し考えてから答えた。

「じゃあ、本題に入りますか」


「はい」

僕はごくりと唾を飲み込んだ。

「あなたのお仕事は、ネット上に映り込んだ幽霊画像や動画の削除です」


「え、幽霊動画」

僕が驚くと、彼は落ち着いた声で続けた。

「ええ、そんなもの本当に存在するのかって思うでしょう、ありますよ、考えてみてください、裸の女性は存在しますよね」


「はい、もちろん」

僕が頷くと、彼はさらに話を進めた。

「でも、YouTubeで裸の女性は観られませんよね」


「確かに」

その通りだと思って頷くと、彼は質問を重ねた。

「誰も裸の女性の動画をアップロードしてないってことですか」


「いえ、Googleが消してるんです、ああ、なるほど」

気づきを口にすると、彼は満足そうに頷いた。

「気づきましたね、そうなんです、この世にもあの世にも幽霊はいて、うっかり映像に映り込むことがあるんです」


「その幽霊動画をアップロードする人たちがいる」

僕が呟くと、彼は静かに締めくくった。

「ええ、撮影されることやアップロードは止められませんが、画像や動画を削除することはできます、それが僕ら幽tuber対策室の仕事なんです」


「おお、なるほど」

感嘆の声が漏れると、川崎さんの言葉が頭の中で響き合った。


不思議な現実が僕を包んだ。死んだ後の世界でコーヒーを飲んで、幽霊動画を消す仕事をするなんて、生きていた頃には考えもしなかった。だけど、この人の静かな声と鋭い目つきは、なぜか安心感をくれた。そして、どこかで新しい物語が始まりそうな気がした。


つづく

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