プロローグ①
ひどく体が重い、海の底に溺れたように息苦しい。
まるで時間が止まったような感覚。灼けつくような空気に肺が締め上げられる。
鈍色の空から降り注いだ雫が、べとりと頬を濡らしていく。
赤く、朱く、紅く――とても鮮やかな血の雨だった。
血色に染め上げられた街並みは、吐き気を催すほどに美しく、地獄と言うほかにない。
いくつもの生命だったモノが辺り一面に転がっている。彼らはなにも罪深い罪人だったわけではない。ただこの場所にいたというだけの不運に見舞われ、あるはずだった未来を奪われてしまった者たち。
世界が終わったような静寂。
己の心臓が奏でる弱々しい鼓動だけが、うるさく騒いでいる。
そう遠くないうちに征太郎も周囲の残骸の一つになるのだろう。
けれど、自分より後に続く誰かがいてはいけないと、その決意が彼を生かしていた。
「……にい、さん……?」
地獄の中心でゆらりと小さな影が動いた。
その小さな影は、征太郎に助けを求めるように、いまにも泣き出しそうな瞳を向けてくる。
「っ……!?」
灼けるような痛みが走り、征太郎は苦悶の息を漏らした。
小さな影を護るように蠢いた血液の塊が、鋭い刃となって襲い掛かってきたのだ。
だが、腕を貫かれようが、太腿を裂かれようが、征太郎は歩みを止めず前に進んでいく。
痺れる指先に最後の力を込める。気力だけで手にぶら下げた一振りの刀を握りしめる。
「大丈夫だよ、凪穂」
征太郎は、絞り出すような掠れた声で、精一杯の穏やかさで妹の名を呼んだ。
「俺がこんな悪夢は終わらせてやる。さあ、目を瞑って――」
「にいさん……わたし、は……」
凪穂のいまにも消えてしまいそうな体を抱きしめる。
鮮血の刃が四方八方から振り下ろされ、征太郎を追い払おうと躍起になるが、構わない。
どれだけこの体が穿たれようと、少しでも凪穂が安心してくれるなら、それで十分だ。
それが兄として妹にしてやれる最後の優しさだった。
「……怖がらなくていい。俺も一緒にいるから、怖がらなくていいんだ」
語りかけるように呟くと、凪穂の強張っていた体から力が抜けていく。
次の瞬間、征太郎は抱きしめていた華奢な体を、自分ごと刀で貫いた。
大切な妹を一人きりにはしない。彼女を奈落に送るのであれば、その道行きに寄り添うのが征太郎の役目だろう。
この結末に悔いはない。
二つの影が折り重なって、やがて一つになる。
零れ、流れ、溢れた血が触れ合って、交わって、繋がって、そして融けていった。
◇
ハッ、として目が覚めた。
プレハブ小屋の狭い天井が視界に落ちてくる。
早鐘を打って騒がしい心音が、ひどくうなされていた事実を伝えてきて、頭が痛くなる。
「……ったく、もう二年は経つってのに、感触一つとして忘れられないってか」
笑えてくるぜ、と征太郎は自嘲気味に鼻を鳴らした。
ブラッドレイン事変。大勢の犠牲者を生んだ災厄であっても、時間が経つにつれて風化して、少しずつ世間からは忘れられていく。思い出したように話題に上がることはあるが、いまだにあの日の悪夢に囚われているような人間は、いまとなっては少ないだろう。
その少ない人間の一人である御影征太郎は、気持ちを切り替えるように寝起きの頬を叩く。
ぐっしょりと脂汗に濡れた体が気持ち悪い。
枯れたように乾いた喉に潤いを取り戻すべく、乱雑に床に転がっていたペットボトルに手を伸ばし、ぬるくなって不味い水を飲み干した。
そのときだった。
コンコン、と何者かにドアを叩かれる。
きっと借金取りかなにかだろう。寝起きで鈍った頭に面倒ごとは荷が重い。
あっさり居留守を決め込んで、「朝飯、なに作っかなあ」なんて呑気に考えていると、
「ちょっと! 無視したっているのはわかってんだから! ……お邪魔するわよ!」
高らかな声が聞こえた。
さらに続けて、爆発じみた凄まじい破砕音が、耳朶をぶっ叩いた。
「な、なんだなんだ、おい!?」
反射的に怒られた子供みたいに体が跳ねる。
おそるおそる振り返ってみれば、住処であるプレハブのドアが蹴破られ、そこに一人の女が澄ました顔をして仁王立ちしていた。いまどき借金取りでもここまでの暴挙には出ないだろう。空気のとおりが随分とよくなってしまった出入口を呆然と眺めていると、
「久しぶりじゃない、征太郎。相変わらず自堕落な生活を送っているようで、なによりだわ」
「おい、なに気さくに人んちに上がってんだ。まずはドアの修繕費よこせ、こら」
「それにしても前に住んでたアパートから姿消したと思ったら、こんな山奥にプレハブ建てて暮らしてたとはねえ。あたしだってそれなりに心配してやってたんだから、連絡くらい繋がるようにしときなさいっての!」
女は床に散乱したゴミを払い除けながら、ずかずかと征太郎のもとまで歩みを進めてきた。
ムッとした表情を浮かべたかと思えばデコピンが炸裂し、じんわりとした痛みが征太郎の額に広がっていく。懐かしさを覚える痛みにため息を吐き出しながら、征太郎は諦めたように女のほうに向き直った。
「それで? 術式管理局のエリート様が俺になんの用なんですかね?」
「べつに術式管理局の仕事できたわけじゃないわよ」
「なんだよ? じゃあNALのプロ選手・宍道舞として、ってわけでもないだろ」
「違うわよ。今日はちょっとしたお使いってところ。あんたに頼みたいことがあってね」
「頼みごと……?」
なんとも嫌な予感しかしない。
気が滅入っていく征太郎の心など知る由もなく、女――宍道舞は一つ頷いた。
「簡単に言ってしまえばお仕事を持ってきてあげたのよ。どうせお金に困ってるんでしょ?」
「…………まあ、それは……否定はしないが……」
なにせこちらは無職を満喫中だ。それなりにあった貯金はとうの昔に使い果たし、この身に背負っている財産は山ほどの借金だけなのだから。
舞は慈愛の女神のような眼差しを向けてくる。
救いの手を差し伸べるような振りをして、こちらがエサに食らいつくのを待っているような顔だ。
正直、古い友人にして、かつての同僚の手のひらで踊らされるのは癪だが、背に腹は代えられない。
地獄の沙汰も金次第。征太郎は渋々と舞の視線を受け止めた。
「……給料、いくらだ?」