ひつじな羊ちゃん
天原ひつじちゃんは、癖のある長髪と寝ぼけまなこが特徴的な可愛らしい女の子だ。
のっぽ女とか八尺様とか言われる私とは大違い。
そもそも私は八尺も身長は無いし……百八十センチを超えていた気がしなくもないようなあるような……って運動部の勧誘から逃げ回る私のことはどうでもいいのだ。
今日だって諦めきれないとバレー部とバスケ部の部員に追いかけられて、逃げるところを目撃された陸上部まで釣り上げてしまった私だけれど、中学生になった今年からは女の子らしくしようと決めたのだ。
でかくてものっぽでも男みたいだと言われても胸が無くても、女の子みたいな趣味をしていたっていいはず。
ガーリーな服は似合わなくて服に申し訳ないから着ないけれど――タンスの肥やしになってしまっていて本当に申し訳ない――それでも小物とかぬいぐるみとか、そういうのが好きでたくさん持っていてもいいはずなのだ。
だから私は今日もやっとのことで運動部の先輩たちから逃げ切り、北館二階、被服室に放課後三十分近く遅れながらもたどり着いた。
被服室は元手芸部――現在では部員数の減少によって格下げされた手芸同好会の活動場所。入部――入会?――してまだ一週間も経っていないけれど三年生の先輩たちは早くも引退してしまい、部員は私を含めて二人しかいない。
つまりは消滅寸前の部活に所属するもう一人こそが、今目の前でこくりこくりとうたたねしている天原ひつじちゃん。
ひつじちゃんを目にするなり鬼気迫る様子で針を進めた桜庭先輩が作り上げて残していた、呼称「羊なひつじちゃん」。ピンクのフェルトのまんまるな体がキュートなぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、なぜかぬいぐるみを枕にするでもなく、ひつじちゃんはこっくりこっくり舟をこぐ。
校舎の先端に位置する被服室は三方向に窓があり、普通の教室とは違って後方側から西日が差し込む。
春の日差しの中でまどろむ小さなひつじちゃんは、羊というか天使というか、とにかくすごく可愛らしい。
ああもう、私もひつじちゃんみたいな見た目だったら、全力でファッションを楽しむのに。
青すぎる他人の芝生を思いながら、後ろ手にそっと扉を閉める。
そろり、そろり。
起こさないように近づき、テーブルをはさんでひつじちゃんの斜め前、定位置に腰を下ろす。
長いまつげ、舟をこぐたびに揺れる癖のある毛。春光を浴びる髪の毛は光を透かして赤茶に見える。
羊なひつじちゃんと同じ色合い。
羨ましいなぁ可愛いなぁ羊なひつじちゃんもひつじちゃんも愛らしいなぁ。
うらやまうらめしくてじっと見つめていたのが悪かったのか、がくん、と大きく首を揺らし、はたとひつじちゃんが目を開く。
「……あれ、ユナ?」
「おはよ、ひつじちゃん」
「ん……おはよう?」
首をひねりながら時計を見て、まだ夕方だったと胸を撫でおろすひつじちゃん。そうだね、朝の四時だとまだまだ今の季節は外は真っ暗だもんね。
まさか本当に学校で一晩寝過ごしたことを心配していたなんてことは無いだろうけれど、少し恥ずかしそうに顔を羊なひつじちゃんで隠して上目遣いでこちらをうかがってくるひつじちゃんはもうとにかく可愛い抱きしめたい。
「遅れてごめんね。何かしてた?」
「ううん……寝てた」
そうだね、うつらうつらしてたね。だってまどろみを誘う季節だもんね。
「最近、夜に眠れなくて」
一瞬想像しかけた不埒な光景を、ぱたぱたと手を振って追い払う。
右へ左へ、手のひらが動くたびに瞬きをするひつじちゃんのきょとんとした顔が可愛い。
「寝不足なんだ……どうしてだろ?」
「んー……わかんないやぁ」
ぽやぽやした様子。とろんとした目。瞼はゆっくりと閉じていき、しぱしぱと、眠気をこらえるように瞬きが数度続く。
「なんだか、学校では眠れるんだけど」
「昼夜逆転してる、ってことは無いよね」
「ん……頑張ってるけど、授業で起きてるのもつらい」
くあ、と小さくあくびをした拍子に、意外にもとがった犬歯がちらっと見えて心拍数が上がった気がした。
羊だけと肉食獣みたいなひつじちゃん。あるいは子犬のようなひつじちゃん。
ぎゅむ、と羊なひつじちゃんの上に顎をのせて、どこかすがるように私を見てくる。
「どうしたら眠れるかな?」
眠る場所というイメージを頭に刻み込むためにベッドの上で本を読んだりスマホを見たりして過ごすことなく、眠れないならベッドに横にならない方がいい、とか。
適度な運動だとか、夕食やシャワーのタイミングとかお風呂の温度とか半身よくとか。あとは枕を変えてみるとか?
とにかくいろいろと考えながら、けれどどこかすがるようにつぶらな目を向けてくる潰れた羊なひつじちゃんを見ていると、一つのアイデアを残してすべてが羊姿に塗りつぶされてしまった。
「やっぱり、羊を数える、とか?」
そんなことで眠くなる気はしないけれど、素直なひつじちゃんはこくりとうなずく。
長いまつげが揺れ、まぶたがおりる。
すぅ、と桜色の唇が息を吸い、艶やかに形を歪める。
「羊がいっぴき」
ささやき声に心臓が痛む。ああもう本当に食べたいたいくらいに可愛くて羨ましくて妬ましくて愛らしい。
私の思いをよそに、ひつじちゃんは羊を数える。
「羊がにひき……羊がさんびき……わたしがいっぱい?」
「どんなナルシスト!?」
たくさんのひつじちゃんが牧場にあふれて素敵すぎてめまいに襲われる中、耳をつんざくようなキレッキレのツッコミが被服室に響き渡った。
「……先輩」
「後輩たちの健闘を見守りに来た先輩に向ける目じゃないよねソレ!?」
殺し屋の目をしてるよ、とやかましい桜庭先輩は、けれど頬を膨らませて不満をあらわにするひつじちゃん何それ可愛すぎる――ごほん、ひつじちゃんの愛らしさを前に敗北を認め、しゅんと肩を落とした。
「ごめん、起こしちゃったね」
「ううん、いい。……羊なひつじちゃんの生みの親。つまり、神様?」
「いやー、照れるなぁ」
「ひつじちゃん、後輩の様子を見に来るっていう名目で受験勉強から逃げてきた先輩は神様でも何でもないんだよ」
「ちょっとどうしてわたしはフルスイングされたのかな!?」
「だって先輩、明日から宿題考査ですよね?」
二、三年生だけが行う、春休みからどれだけ勉強していたかをはかるとともに気持ちを引き締めるべく行われる宿題考査。成績にも反映されて内申のためには大事であろうテストを前にしている以上、勉強から逃げてきたのは間違いない。
気分は探偵。あるいは犯人を断崖絶壁まで追い詰めた刑事。
桜庭先輩はぐうの音も出ないといった様子で、胸を押さえて「ぐぅ!?」とうめいて――ぐうの音が出てしまっていた。
「もう! せっかく残酷な現実を忘れてファンシーな世界に帰ってきたのに」
「ここは私とひつじちゃんの聖域ですからね」
「せいいき……?」
「通いなれたはずの被服室に百合の花が咲こうとしている!?」
もう、うるさいなぁ。
羊なひつじちゃんの生みの親だから許すものの、これ以上ひつじちゃんとの夢の時間の邪魔をしたら許しませんよ?
「わかった、わかったからその怖い笑顔をやめて? ただでさえユナちゃんは背が高いから威圧感があるんだよねぇ」
現実を直視するべく、先輩は無い決意を絞るように「よし!」なんてこぶしを握り、気合を入れて帰っていった。
「……どうする? もう少し時間もあるけど」
なんだかんだでもう下校時刻まであまりない。
ぼんやりとした目で時計を眺めていたひつじちゃんは、ふるふると首を振り、惜しむようにきゅっと羊なひつじちゃんを抱きしめてから立ち上がる。
そうして今日の部活も終わり、私はひつじちゃんと下校を――
「いたぞ、速水ユナだ!」
「追え! 取り囲め!」
下校前のミーティングのためか、職員室の方へと移動をしていた女子バレー部の集団とかち合ってしまった。
「ひつじちゃん、また明日!」
ああもう、ひつじちゃんとの下校が!
このままではひつじちゃんが運動部の精鋭にもみくちゃにされてしまう。それを防ぐべく全力疾走して勢い余って家まで走って帰った私は、疲れ果ててそのまま泥のように眠った。
なるほど、やっぱり良質な睡眠には十分な運動が大事らしい。
翌日。
今日はステルス作戦を決行することによって運動部の目を逃れ、私は早くに被服室にたどり着くことに成功した。
今日はひつじちゃんと長く一緒に居られる。
高揚感のままに勢いよく扉を開こうとして、けれどひつじちゃんがまたうたたねしていたらせっかくの神聖なうたたねの儀を邪魔してしまうことになりかねないから、深呼吸をしてそろりそろりと扉を開けて。
「ひつじちゃん!?」
目の前にひつじちゃんが――じゃない、羊のひつじちゃんがいた。
フェルトのもこもこした、両手で抱きかかえるくらいのサイズのぬいぐるみ。それがいくつも被服室後方、いつもひつじちゃんが座っているところに積みあがっていた。
ころり、と羊なひつじちゃんの一匹が山から転がり落ち、にゅっとぬいぐるみの山の中からひつじちゃんが顔を出す。
「桜庭せんぱいが、『やりきったぜ』って言ってた、よ?」
「……あの先輩、もしかして昨日気合を入れてたのはこれのため……?」
呆れはしない。だって、今日に限っては桜庭先輩はこの尊い光景を作り出した神の一柱なのだから。
宿題考査の結果が悲惨なことになっていそうな桜庭先輩に合掌してから、私はそっとひつじちゃんの方に向かう。
席に着く。
右を見れば先ほど山から転がり落ちた羊なひつじちゃん。
左を見れば羊なひつじちゃんと、愛らしいぬいぐるみの山に顔をうずめるひつじちゃん。
「……ユナも?」
「えっと?」
「ユナも、一緒に、寝る?」
「いいの?」
もちろん、とうなずく。
羊なひつじちゃんたちとひつじちゃんの尊い共演をこんなのっぽで女の子っぽくない私が汚すなんて――葛藤は、「いいの?」と小首をかしげるひつじちゃんを前に霧散した。
ひつじちゃんが許してくれた。ひつじちゃんが呼んでいる。
ならばためらう理由は無い。ためらってひつじちゃんが傷ついたら万死に値する。
そっと、羊なひつじちゃんの一匹を抱きしめ、顔を埋める。
側頭部に視線を感じて、そっと頭の向きを変える。
わたしをじっと見るひつじちゃんが、ゆっくりと口を開く。
「ねむれる、おまじない」
そうして、彼女はささやきだす。
「羊がいっぴき、羊が二匹――」
ひつじちゃんが一人、ひつじちゃんが目の前に、ひつじちゃんが私のために――脳内をひつじちゃんが埋め尽くして、当然わたしが眠れることは無かったと言うかリビドーを感じてそれどころじゃなかった。
目を閉じることもなくこの素晴らしい光景を永遠に脳と網膜に焼き付けるべく見つめていた私はきっと目が充血して怖かっただろう。
目を閉じて眠るふりすらしない私が不満だったのだろう。ひつじちゃんは手近なぬいぐるみをつかみ、ぎゅむ、と私の顔に押し当ててくる。
「羊が、二十四匹、羊が二十五匹……」
春の午後。
差し込む春光のぬくもりとひつじちゃんの眠たげなささやき声に包まれながら、たくさんのひつじちゃんの姿を頭の中に思い浮かべる私は気づいた。
ああ、ここは天国だったのだ――と。