044 脱出
暗い牢の中、キャロルは膝を抱えて座り混んでいた。キャロルをここに長居させるつもりがないのか、食事も何も運んでこない。朝から何も食べていない空腹と、これからどうなってしまうのかわからない不安がつのり眠れない。今は、一体何時くらいなのだろう。月明りが差し込む小さな窓を見上げて途方に暮れる。
フィリップス侯爵が牢屋から出て行ってから、ずっと彼のことを考えていた。彼は、高い地位にいるがずっと二番手の男だった。二大勢力と言われる、ジョンソン侯爵の方が一枚上手で常にフィリップス侯爵の前には彼がいた。きっとフィリップス侯爵にとって、一番目障りな存在だったはずだ。自分の婚約者を取られた時からずっと、ジョンソン侯爵を出し抜くことを考えていたのだろう。
だからようやく、チャンスが巡って来たところに邪魔なカロリーナが現れて疎ましく思うのも仕方がない……。しかし、今回この状況を作ったのはキャロルなのだ。逆に感謝してもらいたいくらいだ。
ジョンソン侯爵家が、自滅してくれたことに満足していれば良かったのに。キャロルにまで手を出すなんて絶対に許さない。牢を出て、王妃に返り咲いたらフィリップス侯爵にも消えてもらおう。何か策を考えなければと暗い牢の中で考える。
こんな状況にいる怖さはあるのだが、不思議と悲観的にはならない。この一年間、自分の力で生きてきた自信がしっかりとある。周りにいた人に助けてもらうことも多かったけれど、だからこそきっと助けにきてくれるはずだとアルベルトを信じたい。
やがて、どこからともなくピチョンッピチョンッと水が滴る音がする。窓の外を見ると、どうやら雨が降り出したみたいだった。何も音がなかった室内に、雨音と水の落ちる音が響く。ワンピース一枚しか来ていないキャロルは、段々と肌寒さも感じていた。
(はぁ―。最悪だ……)
膝を抱え、うつらうつらしている時だった。突然、牢の外側にある鉄の扉付近で、ガンッバタッと物音がした。その後、ガチャリと扉が開き誰かが牢屋に入ってくる気配がする。キャロルは顔を上げて、扉の方を見た。暗くてよくわからないけれど、男性のようなシルエットだけがぼんやりと確認できた。
「おい。大丈夫か?」
声を聞いた瞬間、ヒューだと確信する。
「ヒュー?」
キャロルは、小さな声で名前を呼んだ。
「良かった。こっちに来い。すぐに出るぞ」
ヒューは、どこから持って来たのか牢のカギを鍵穴に差し扉を開けた。キャロルは、立ち上がってヒューの元に走って行く。すると、ヒューに顔を両手で掴まれて目と目があった。
「何もされてないか? こんなことになってすまない」
暗闇でも表情がわかるくらいの距離の近さにヒューの顔がある。久しぶりに見る力強い黒い瞳だ。ヒューの顔を見て、安堵から不意に涙がにじむ。だけど、今はそんな場合ではないと咄嗟に手で拭って強がってみせた。
「もう、ずっと待ってたんだから!」
「この埋め合わせはきっとする。行くぞ」
そう言うと、手をぎゅっと掴まれて牢の外に出た。出た途端、ランプのような灯りに照らされる。しかもキャロルの足元には、誰かが倒れていた。
「おい、何をしている!」
「っち。逃げるぞ!」
外は、雨がザーザー降っていて視界が悪い。しかも暗闇でどこに向かうのか全くわからずに、手を引かれるがまま走り出す。
「逃げた! 逃げたぞー。応援を呼んでくれー」
牢屋の見張りなのか、キャロルたちを見つけた男が大きな声で叫ぶ。するとあちらこちらから灯りがともる。キャロルはもう全身がビショビショだし、足元の水たまりで靴の中にも水が入っている。手で雨を避けるも、顔にも水滴がたたきつける。一生懸命走るキャロルだけれど、周りを屋敷の者に囲まれているのがわかった。
「ヒュー、もうみんなに囲まれているわ」
「俺がなんとかする。外に迎えがいるんだ、そこまでいけば逃げられる」
正面に誰かがいるのがわかる。
「いたぞ! こっちだ!」
キャロルたちを待ち受ける男が大声で叫んだ。手には、剣を手にしている。ヒューは、自分の背にキャロルを庇い正面で剣を構える男と相対する。キャロルは、恐ろしくてヒューの背に縮こまる。男が間合いを詰めているのか、ヒューがじりじりと後ろに下がってくる。
「諦めて女を寄越せ!」
男が、剣を振りかぶりヒューを斬ろうと突進してきた。ヒューはキャロルを庇いながら避け、男の背後に回り込むと背にけりをいれる。男は「うっ」とうめき声を上げ地面に倒れた。
キャロルには何が起こっているのか全く理解が追い付かず、すぐにまた手を引かれて屋敷の庭の中に入る。侯爵家の庭だけあってかなり広い。草木に紛れて進むと、雨で悪い視界のお陰でどんどん先に進んでいく。
キャロルは、ヒューについて行くのがやっとで息を切らせ、全身が雨に打たれ体が冷えている。だけど、ヒューの大きな手にしっかりと繋がれ、そこだけがやけに熱い。キャロルは、こんな時だけれどヒューに会えたことに嬉しさを感じていた。
「おい、さっさと見つけろ! 侯爵様にバレたら大変だぞ!」
キャロルたちのすぐ近くで声がする。ヒューは、ランプの灯りがない場所を縫って進んでいるみたいだ。かなり庭の奥まったところにたどり着いたと思ったら、ヒューが立ち止まる。
「あの先に、裏門があって見張りは眠らせてある。俺が走れって言ったら真っ直ぐ進め。ビルが門の外に待機しているから」
ヒューが、キャロルを自分に引き寄せて耳元で告げる。彼が指し示す場所には、二つの灯りが見える。どうやら、目の前にいる追手を何とかしないといけないみたいだ。
キャロルが返事をするまでもなく、ヒューは手を引きゆっくりと歩き出す。このまま、見つからずに通り抜けたいところだけれど……。サイドを生け垣に囲まれていて、直進するしか前に進むことができない。
ヒューが、キャロルを背に隠す。そして、ゆっくりと追手に近づいていく。追手はまだ気づいていない。ヒューが、追手の手元に向かって蹴りを入れる。ガシャンっと剣が地面に叩きつけられ、追手がこちらを見た。
「この野郎! こっちだ、逃がすな!」
手の負傷を庇いながら剣を拾う男。その近くにいたもう一人の追手が、二人に向かってくる。ヒューがキャロルの手を放し、自らも男に相対する。
「今だ、走れ!!」
キャロルは、さっき言われた通り真っ直ぐに走る。
だがしかし!!! 突然、横から出て来た腕につかまってしまう。植木の陰に、もう一人男が隠れていたのだ。
ヒューの方は、男が斬りかかってきたところを躱し今度は拳で男の頬に一撃をくらわす。相当な衝撃だったようで、男が地面に倒れこむ。ヒューが、すぐにキャロルに視線を戻したので別の男につかまっているのに気づく。
「キャロル!!」
「ヒュー、うしろー!!」
ヒューがキャロルに気を向けた一瞬の隙をついて、最初に蹴りを入れた男の剣がヒューを襲う。
「うっ」
ヒューが、脇腹を押さえながらも瞬時に男の顎に一撃をくらわせた。すぐに反撃がくると思っていなかった男は、もろに食らってしまう。ヒューは、脇腹を抑えながら、キャロルを捕まえている男のところに向かった。
男は、キャロルの首元にナイフを押し当てている。
「この女を傷つけたくなければ去れ!」
男は必至の形相でヒューを見ている。ヒューが間合いを狭めようと、じりじりと前進すると男の手に力が入ったのか、キャロルの首元に赤い鮮血が滲む。これ以上は無理だと悟ったヒューは、降参だと両手を上げた。
「わかった。何もしないと約束する。だからお前もナイフを下ろせ」
「信用できる訳ないだろう! いいからさっさとここから去れ!」
「わかった。5秒数える。諦めて立ち去るから、立ち去ったらナイフを降ろしてくれ」
「っさっさとしろ」
キャロルは、恐ろしくて動けない。
「5、4、3、2、1」
――――ドゴッ!!!
ナイフが男の手から落ち、キャロルを掴む腕の力が弱まったと思ったら男の体が崩れ落ちた。
「いやー危なかったねー」
気の抜けた声が後ろから聞こえる。驚いてキャロルが振り返ると、そこにいたのはビルだった。
「急いでいくぞ」
ヒューが、キャロルの手を掴み裏門へと走る。植木の先には小さな門があり、その前には門番がしゃがみ込んでいて眠っているようだった。門を開けて外に出ると、馬車が横付けされている。扉をビルが開けてくれて「早く乗れ」と二人をせかす。二人が馬車に乗ると、すぐに扉が閉められてガタンッと動き出す。
キャロルの横に座ったヒューは、脚を投げ出していて天井を仰いでいる。
「雨が降ったせいで、見張りの交代の時間がずれたんだ。怖い思いをさせてすまない……」
「何言っているの。助けに来てくれてケガしたのはヒューじゃない! 私のせいでごめんなさい」
今日のヒューは、自警団の制服でも騎士団の制服でもなく黒くて地味な普段着を着ている。黒いシャツの脇腹部分が、赤黒く変色している。お互い全身びしょ濡れで体力の消耗もはげしく、息が上がっている。
「無事で良かった」
ヒューが、キャロルの手を握って嬉しそうに顔をほころばせる。今まで見たことがない表情で、キャロルの胸の鼓動が煩い。
(そんな表情で微笑みかけられたら、どうしていいかわからないじゃない……)
王宮に着くまでの間、馬車の中は雨の音だけが聞こえていた。





