021 訳ありの女
居酒屋レストは、カウンター席が十席。テーブル席が二つあり、全部で十八席。そこまで大きなお店ではない。珍しいのはピアノがあることだ。
今のところ、店主のヘルマンと自分しかいないので、もしかしたらイライザが弾いていたのかもしれない。カロリーナも実はピアノが弾ける。
王太子の婚約者たるもの、楽器の一つや二つできなければいけない。そんなカロリーナは、楽器の中でも好んでピアノを弾いていた。特に激しくて強い曲が好きだった。
今の自分が弾けるのは謎だが、指が覚えていたら弾けるかも……。キャロルは、自分の手をまじまじと見た。
「どうした? 嬢ちゃん」
ヘルマンが、キャロルが掃除の手を止めて自分の手をまじまじと見出したので気になったらしい。
「いえ、何でもありません」
キャロルは、いけないと掃除の続きをする。箒で店内を掃いた後は、ヘルマンから布巾を借りてテーブルを拭いた。最後だなと思って二つ目のテーブルを拭いていると、バタンと店の扉が勢いよく開いた。
「お疲れー。今日も来てやったぜ」
力仕事が得意そうな、大柄の男性がお店に入って来た。
「また、うるせーのが来たな……」
ヘルマンは、若干嫌そうな顔をしている。
「客に対して、相変わらずだな……。あっ? おいおい、遂にイライザに愛想つかされたのかよ?」
男性客は、キャロルに気づくと面白そうに言った。
「うるせー。イライザは、今日から産休だ。その子は、イライザの代わりなんだよ。今日が初日だから、悪さするんじゃねーぞ」
ヘルマンは、その男性客をギロリと睨む。
「へー。また偉く美人な、ねーちゃん見つけたな」
男性客は、いつも自分が座る定位置なのかヘルマンに何も言われていないのにカウンター席の真ん中に座わる。椅子に座った後も、後ろを向いてキャロルを見ていた。
ヘルマンとの一連のやり取りを見ていて、やんちゃな客層なのかと不安になる。飲み屋なので、品行方正な客ではないことくらいわかってはいたが……。思っていたよりも、大変かもしれない。
キャロルは、条件だけで決めてしまったがこの店がどんな飲み屋なのか全く知らない。早まったか? と内心焦っていた。
「おい、じろじろ見るんじゃない。さっさと注文しろ」
ヘルマンが、男性客に圧をかける。
「わりいわりい。いつもので」
そう言うと、カウンターの方に体勢を戻して注文をした。キャロルは、ホッとして最後のテーブルを拭いて掃除を終わりにした。その最初のお客さんを皮切りに、ポツポツとお客さんが入りだす。大体が、一人客で一杯か二杯自分の好きなお酒を飲むと帰って行く。
仕事終わりに、ちょっと一杯というお客さんが多いみたいだった。
飲み終わったグラスを片づけていると、横にいる客に声をかけられた。
「ねえねえ君、どっから来たの?」
二十代前半と思われる、茶髪の男性だった。お酒が入っているからか、陽気で明るい。キャロルは、ここでは訳ありの女性だと前面に押し出すことに決めている。なるだけ自然に目を伏せて悲しそうに肩を落とした。
「あの……、色々ありまして……」
キャロルは、わざと頬の傷に手を添えて悲しそうな顔をする。
「ごめん。ごめん。みんな色々あるよね。じゃあ、名前は?」
男性は、聞いてはいけないことだと察して話を変えてくれた。
「キャロルです。今日から、ここで働くことになったのでよろしくお願いします」
キャロルは、さっきとは変わり穏やかな笑顔を向ける。男性客も、それにホッとしたのが見て取れる。
この調子で少しずつ自分の不幸な生い立ちを客に植え付けていくつもりだ。その同情を使って、ララやディルクの悪評を流す気でいる。
この国では、ディルク王子の婚約者が、カロリーナ・ヴィンチェスターだということは広く知られていた。その令嬢が、国始まって以来の悪女だということも。
しかしながら、それを上回る才女で国を盛り立てることができるというカリスマ性があり、国民からの不満は特になかった。民意と言うものが国政にどれほどの影響力があるのか知っていたカロリーナだったので、平民たちの評判を悪くするようなことはしていなかった。
それが、一カ月前ほどだっただろうか? 王太子の婚約者が変更になったことが平民のところまで回ってきた。カロリーナが婚約破棄されてから、かなりのタイムラグがある。
あの後、王宮で何が起こったのかキャロルは把握していない。だけど、ララが婚約者に収まったことは確定した。ララを今の地位から引きずり降ろすのは、何も貴族である必要なんてない。国を支えているのは平民だ。民意を蔑ろにすることはできない。だからこそ、キャロルはこの下町でララの悪評を流してやると決めたのだ。今日は、その第一歩。最初から飛ばす必要なんてない。まずは、この店でキャロルの存在を受け入れてもらうことからだ。
初日は、緊張していたこともありあっという間に二時間が経つ。お店の方は、深夜一時まで営業しているらしいのだが、十一時を過ぎるとガクッと客足が途切れるのでヘルマン一人で営業しているのだそう。時計を見たヘルマンが、キャロルに声をかける。
「おい、キャロル。上がっていいぞ」
洗い物をしていたキャロルは、手を止めて返事をする。
「はい。では、これだけやったら上がらせて貰います」
キャロルは、洗っていたグラスを布巾で拭いて棚にしまう。店内を見ると、テーブルに開いたグラスがいくつか置かれていた。あれだけ下げようかとホールに戻ろうとすると、ヘルマンが目ざとく気づく。
「ああ、いいよ。きりがないから。それよりも気を付けて帰れよ? 一人で大丈夫なのか?」
ヘルマンが、心配そうな顔をしている。たったの二時間しか働いていないが、一見怖そうに見えるヘルマンだが実は凄く良い人だった。キャロルをしっかり見てくれて、変な客に絡まれそうだとすぐに間に入ってくれた。
「大丈夫です。何かあったら大声だしますので」
キャロルは、自信満々に答える。それでもヘルマンは、本当に大丈夫なのかと心配していたが……。キャロルも、遅くなるのはあまりいいことではないので急いで帰り支度をする。イライザに買ってきてもらったエプロンを脱ぐと、どこに仕舞おうかと考えていた。
「エプロンは、そのカウンターの下にでも置いとけばいいよ」
ヘルマンが、お酒をグラスに注ぎながらそう言ってくれた。キャロルは、カウンターの下を覗き見て丁度良さそうな籠があったのでその中に入れさせてもらった。
「では、お先に失礼しますね」
キャロルは、ヘルマンに挨拶をして店を出る。キャロルが店から出ると、ヘルマンに客がこぞって訊ねる。あの上品さ一体何だと。下町であんなに所作が綺麗なのはおかしくないか? どういう子なのだろう? とみんなでわいわい話し合っていた。
そんなことは知らないキャロルは、真っ暗な夜の街を一人で歩く。さっきと違って、もう殆ど人がいない。流石のキャロルでも、ちょっとだけ怖さを感じ自然と速足になる。
マントの裾をしっかり握って顔を俯き、サティオへの帰路を急ぐ。歩きながら、レストでの一日目を思い出す。とくに失敗することもなく一日を終えられた。初日と言うこともあって、緊張や不安ももちろんあった。だけど、思いのほか上手にお店に溶け込めた気がする。やり切った充足感が、胸に広がって若干興奮している。居酒屋レストは、お客さんが少ないしほとんどみんなお酒しか飲まないのでやることも多くない。これなら続けられそうだと気を良くする。
最初こそ客層にびっくりしたが、ヘルマンがしっかりしているからかそこまで質の悪い客もいなかった。
頭の中で初日の仕事内容を振り返っていたら、あっという間にいつものサティオの近くの大通りまで戻ってきた。あともう少しだと、時計台の曲がり角を曲がったところで人とぶつかった。誰かがいると思わなくて、キャロルは咄嗟に顔を上げてぶつかった相手を見た。
「「あっ」」
顔を上げた瞬間、ぶつかった相手も驚き一緒に声を上げた。
「ヒュー?」
「おまえ!!」
キャロルにぶつかったのは、自警団のヒューだった――。





