020 居酒屋レスト
夕飯を終えたキャロルは、食器を片づける為に一人で店に残っていた。いつもはこれが終わると自分の部屋に戻って、寝るまで自由時間を過ごす。
女将さんや旦那さんがシャワー使った後に、キャロルはシャワーを借りて眠りにつく。食器を片づけたキャロルは、一度自分の部屋に戻った。時計を見るとまだ八時。着替えて店を出れば余裕で間に合う時間だ。初日だということもあるから、キャロルは早めに店を出ることにした。
茶色の地味なワンピースに着替え、上から黒いマントを羽織る。鏡の前で服装をチェックして問題ないことを確認した。夜は、できるだけ地味で大人しい女の子を演じるつもりだ。酒屋に飲みに来る客に、可哀想な女の子だと印象づけたい。そのため、普段ほとんどしない化粧をしてキツイ顔をできるだけ柔らかく見せる。
「んーいつもよりは、マシなはず……。後は、言葉遣いと表情でカバーしよう」
準備を整えたキャロルは、できるだけ音をさせないように自分の部屋を出て階段を下りた。静かに扉を閉めて店の裏口からこっそりと抜け出す。サティオに来てから、夜に外に出るのは初めて。裏口を出ると既に辺りは真っ暗だった。
裏口から店の前にある通りに出ると人気がない。店の軒先に下がるランプの光だけが明るく揺らめく。
キャロルは、マントのフードを深く被り俯き加減で歩き出す。誰かに会いませんようにと祈りながら、居酒屋レストに向かった。
夜道を一人で歩くこと二十分。大通りに出ると昼間ほどではないが、それなりに人通りがあり心配していたほど治安が悪くなくホッとする。
王宮から追放されてから、街で暮らすようになって半年ほど経つが夜に外に出るのは初めてだ。悪女だったころのカロリーナは、しょっちゅう豪華な馬車でパーティーや夜の集いに参加していた。しかも一人ではなく、カロリーナ好みの男性を引き連れて。
その頃の自分を思い出すと、居たたまれなくなる。顔が綺麗で自分に自信があったカロリーナは、本当にろくでもなかった。誰か一人を一途に愛するなんて考えこれっぽっちも持っていなかったし、その日会って気に入った男性と楽しく過ごせればそれで良かった。
男性の方は、我儘だけど綺麗で地位のあるカロリーナにブランド価値を見出し自分のものだと入れあげてトラブルが絶えなかった。
カロリーナに好意のある男性が、かち合うなんて日常茶飯事で修羅場ばかり。そんな光景を見ても、カロリーナを取り合うのは仕方がないと一蹴していた。
自分の中にあるカロリーナの過去を思い出すと、なぜだが胸が締め付けられる。頭の中に残る映像に、カロリーナが満ち足りた瞬間がないのだ。いつも何かを欲していて、欠乏感が埋まらない。今のキャロルなら、当時の自分は純粋な愛を探していたのだとわかる。
それは、誰かからもらう愛じゃなくて自分が誰かを愛すること。幼い頃、両親から子供に注がれる無条件の愛を得ることができなかった。侯爵家の令嬢として、王太子の婚約者という肩書にみな頭を垂れた。
カロリーナに向けられていた愛情は、全て計算から生まれた感情だった。だからカロリーナも、純粋に人を愛するという意味がわからなかったのだ。
わからなかったから彼女は、誰かを本気で愛してみたかった。どこまでもカロリーナは、自分本位の女性なのだ。ステータスを得ようと自分を愛する男じゃなくて、我儘で傲慢で自分勝手なカロリーナそのままを受け入れてくれるような人を欲していた。だけどそんな人が見つかる訳もなく……。
そうなるとカロリーナが、純粋に好きになる男性になんて出会わない。だから埋まらない欠乏感を、その日限りの男たちと過ごすことで補っていた。カロリーナの夜の時間とは、そういうひと時だった。
まさか、下町の夜の街を歩いて居酒屋に行くなんてきっと思わなかっただろう。貴族街の夜のことは、とても詳しいカロリーナだったが下町のことまでは知らない。
だからキャロルは、こんな風に仕事帰りの人やこれから夕食に行く人、複数人で楽しそうに歩いている人がいるとは考えていなかった。てっきり、人っ子一人歩いていなくて静まりかえっているものと想像していた。人通りがある方が、目立たないし安心する。
色々なことを考えながら、夜の街を歩いていたら気づいた時にはもう居酒屋レスト近くだった。今日は、お店の窓からオレンジ色の明かりが零れている。
もう中で、イライザがお店の準備をしているのだろうか? ドキドキしながらお店のドアを開けた。昼間は、明かりがついていなかったので奥が良く見えなったのだが……。入って正面の奥に、立派なバーカウンターがあってその壁は全体が棚になっている。
その棚は、三段になっているのだが端から端までお酒の瓶で埋め尽くされていた。店内を見渡すと、扉側の一番端にアップライトのピアノが置かれていた。
室内の照明は明るすぎず暗すぎずで、蝋燭のオレンジ色の光でお洒落なバーといった雰囲気を醸している。カウンターの中で、見たことがない男性がワイングラスを布巾で拭いていた。
「こんばんは」
キャロルは、その男性に挨拶をした。その男性の体は、がっしりしていて高身長。紺色の髪は短く、無精ひげを生やしていた。
「あんたが、キャロルかい?」
男性は、手を止めてキャロルに呼びかける。
「はい。お初にお目にかかります。キャロルと申します。本日よりよろしくお願いいたします」
キャロルは、そう言うと男性に向かって頭を下げた。
「嬢ちゃん、ちょっとこっちに来てくれるか?」
男性が、手招きしてカウンターの方を指し示す。キャロルは、何だろう? 何かまずかった点があったかな? と疑問に思いながらカウンターに歩いていった。
男性の近くまでいったキャロルは、彼にじろじろと容姿を見られる。そのあからさまな態度に良い気はしない。顔に出ていたのか謝罪の言葉が入った。
「あー、すまんすまん。やけに、上品なしゃべり方だったもんだから。びっくりして……。あんた訳ありなの?」
男性は、自分の頭を撫でて苦笑いしている。そして、臆面もなく直球で聞いてきた。みんな何かはあるのだろうと思ってはいるが、こんなに直球で聞く人はいなかった。
だから、キャロルも面食らう。
「すみません。気を付けているつもりなんですが、咄嗟だと素の自分に戻るといいますか……。ええと……自分のことを話すと長くなるんですが……」
キャロルは、こんな風に聞かれると思っていなかったのでどうしようかと焦る。そもそもこのお店で働くきっかけになったイライザに、何も聞かれなかったので油断していた。
まさか、違う人が出てくるとは……。どこまで話すべきか……。
「あーいや。遠回しな言い方するのが嫌で悪いね。イライザが採用を決めたならいいよ。俺は、ヘルマンっていってイライザの旦那でここの店主。イライザは、今日から休ませたから悪いんだけど、初日から一人で大丈夫か?」
ヘルマンは、裏表のないはっきりとした人らしく一気に好感度が上がる。こういう人の下だと、働きやすくていい。
「基本的には、ホールでお酒の給仕と飲み終わった食器を下げればいいのでしょうか?」
キャロルは、自分が思っていた仕事内容を確認する。
「そうだな。ここのメニューは、酒とつまみ程度しかないからそれでいい。会計、酒とつまみづくりは俺がやるよ」
ヘルマンは、考えながら答える。
「わかりました。多分大丈夫です。細かいことは、働きながら質問していくのでいいですか?」
キャロルは、さらに質問を投げる。
「ああ。客のやつらもイライザの代わりだってわかれば、うるさいことは言わないから何でも聞いてくれ」
ヘルマンが、笑顔でそう言ってくれた。カロリーナは、厳しそうな人じゃなくて良かったと安心する。壁にかかっている時計を見ると八時半だった。やはり、早めに出て正解だ。
店に来る時間はこれくらいで大丈夫そうだ。
「では、まだ開店まで時間があるので掃除でもしますね」
キャロルは、掃除道具はないだろうか? とお店の中をキョロキョロと見回す。
「早速悪いね。ちょっと待ってくれ」
ヘルマンは、カウンターの奥にあるお店のプライベート空間の中に入って行った。すぐに戻って来ると、ワインレッドのエプロンを持って来てくれた。
「これ使って。イライザがさっき、髪が真っ赤でとても綺麗だったのって言って買ってきたんだよ。きっと似合うはずってなんか嬉しそうだった」
ヘルマンが、ホールまで出て来てくれてエプロンをキャロルに手渡してくれた。そのエプロンを見て、わざわざ自分の為に買ってきてくれたなんてと嬉しさが込み上げてくる。
「わざわざ買ってきてくれたなんて……。ありがとうございますって伝えて下さい。私、精一杯頑張ります」
キャロルは、明るく元気にそう言った。ヘルマンは、うんうんと頷いた後ピアノのある方に歩いていく。キャロルも後に続く。
「ここに掃除道具あるから、適当に使って」
ピアノの横に背の高い物入れがあり、扉を開けると箒やちり取り、ぞうきんなどが入っていた。
「わかりました。では、まずは箒で店内を掃いて、その後テーブルを水拭きしますね」
キャロルは、箒を取り出して早速、お店の出入り口付近から掃除を始める。その姿をヘルマンは見ながら、とても感心していた。
あの佇まいやしゃべり方を聞けば、育ちがいいことくらいすぐにわかる。それにあんなに綺麗な顔に、跡の残るようなざっくりとした傷。イライザに聞いてはいたが、実際に顔を見た瞬間、傷を凝視してしまった。それに容姿から零れる雰囲気とは全く合わない、地味で質素な服装。本人は、上品さを隠しているつもりなのかもしれないが、佇まいから隠しきれていない。色々な物を背負っていそうなのに、悲壮感も感じさせず明るい。
この子は、イライザとは違う人気者になるだろう。さてどうしたものか? 頭を悩ませるヘルマンだった。





