オーダーメイドを誂えて
特別じゃないと、生きる資格なんてない。
この言葉は、今となっては誰にでも否定されるようになっている。そんなものが、やさしい世界であってたまるか。そんなものが、素敵な世界であるはずがない。そうじゃないか。
――きれいじゃなくてもいい。別に優しくなくてもいい。かっこよくなくてもいい。賢くなくてもいい。人気じゃなくてもいい。愛想が無くてもいい。欠点だらけでも、弱くても。かっこ悪くても、無様でも。――特別じゃなくても、普通でも。貴方が生きてさえいてくれればいいだなんて。冗談みたいなきれいごとが肯定されるようになってしまったら。
特別で、綺麗で、誰にでも優しくて、みっともない様子なんてさらしたことのない素敵な私の特別で素敵な価値はどうなる? 大暴落もいいところだ。
少なくとも私は。生きているだけでいいなんて思わない。人間は、特別な価値を持つように生きないとだめだ。繰り返して言いたい。
特別じゃないと、生きる資格なんてない。
もっと近い高校に通えばよかった、という後悔は毎朝のものだ。自転車で数十分のところにある高校だったなら電車の時刻なんかに煩わされずに済む。電車で一時間、は少し遠すぎる。あくびをしながら支度をする。朝起きてすぐに食べる気力はわかないのでご飯はパス。コップ一杯の牛乳で十分だ。
髪をセットして、先生に怒られない程度にメイクをする。そうこうしているうちに電車がそろそろ来る。
「行ってきます」
「ん、いってら」
適当な返事をするのは大学生の姉、翠である。三年生になってすっかり大学に行かなくなった。何が大学だ。全然学んでいない。
家をでて、ちょっぴり早歩きで駅を目指す。改札を抜けて向かい側のホームには見知った顔があった。
「おはよ、佐久間」
「おはよう、有栖川」
暗い髪色を後ろでくくっただけの、ちょっとだけ野暮ったい見た目をした同学年で同じ高校に通う幼馴染。佐久間るい。磨けば光る、とは翠の言だったか。
彼女は今日もブックカバーをした文庫本を読んでいる。毎日毎日本を読んでいる。私は何を読んでいるかもわからないし、知るつもりもない。というか、本を読んでいる人にちょっかいをかけて嫌われたくないのである。
私のあいさつに返事はしてくれるものの、その後は本を読んでいるだけ。実は嫌われているのかもなんて不安になるときはある。
――好きです。
そう、彼女に告げたなら。どんな反応が返ってくるだろうか。
私は、るいから「私も好きです」以外の返事を聞きたくないから。想いを打ち明けられないのである。わがごとながら重くてかっこ悪くて情けない。
通学時間のあいだは、何を考えているのかも分からない幼馴染の隣で悶々とし続けることになるのである。――別の高校を選ぶべきだったとの後悔は、これが原因かもしれない。
学校に行けばしばしの別れ。クラスまで同じではない。別に四六時中一緒にいるわけじゃない。登下校と部活動。それだけ。薄い薄いつながり。テスト期間になれば登校時だけがるいとのつながり。友情すら疑わしいけれども、構わない。私が欲しいのは、恋愛としてのそれだけだから。
だからこそ、一歩を踏み出せない自分自身が滑稽なのである。
教室に入ると、隣の席の吉沢さんが声をかけてきた。
「おはよう」
「おはよ、ふみちゃん」
「ねぇ、古典の予習やった? 完っ全に忘れててさ……見せてくれない?」
両手を合わせてこちらを見上げるしぐさに思わず笑みをこぼしながら、ノートを渡す。
「古典とかめんどっちいもんね、サボりたい気持ちよくわかるよ」
嘘。古典は大好きな科目の一つだ。
「ねー、全然意味わかんないしね」
わかればわかるほど楽しい。
「ふみちゃん、数学の課題はやったの?」
得意げに彼女は胸を張る。
「答えを写すだけだからね。楽勝」
「ま、提出物なんて出せば勝ちだもんね」
他愛のない会話。こんなのが、るいともできるようになりたいのだが。
るいと初めて出会ったのは、小学生の頃。私は当時からそれなりに真面目でいい子で通っていた。明るく元気な、クラスの「人気者」。そうすることで、褒められたりするのがうれしかった。音楽劇で主役になったり、運動会で頑張ったりすればするほどすごいね、頑張ったねって褒めてもらえる。それがやりがいだった。
でも、クラスに何一つ頑張りもしない子がいた。佐久間るいだ。私は、内心で馬鹿にしていたように覚えている。どうして、頑張らないのだろう。褒められたくないのだろうか。わからなかった。
だから、彼女に尋ねたのだった。――「どうして、頑張らないの?」と。
るいは、一言。「どうでもいい」とだけ言った。それに納得できなくて、呼び止めると。イライラしたように言葉を並べられた。
「私は、先生に褒められたいわけじゃないし、音楽だって得意でも好きでもない。体育も苦手だし。わざわざしたくもないことを頑張って、褒められる必要なんてない。好きなことを好きなだけやって、それで私が満足できればいい」
「好きなことって、何?」
「……本を読むこと」
るいは、そう言ってどこか恥ずかしそうに顔をそむけた。
私も、本を読むことは好きだった。友達はみんな本なんて退屈とか、つまらないって言うけれども。私は物語の中での冒険が、好きだった。だから、るいの手を掴んで大きな声ではしゃいだ。
「私も! 大好き!」
それから、るいと私は時折本を貸し借りしたりする関係性を中学の半ばまで続けていた。そうしているうちに、好きになっていった。気がする。多分。
そういうわけで、二人して文芸部に入っているのである。
もっとも私はるいみたく電車の中でも本を読むほど私は好きなわけじゃない……というか、リラックスした状態で本は読みたいのだ。
るいは活字依存症なんて以前冗談めかして言っていたけれども。彼女は本当にその言葉がよく似合う。授業中もこっそり本を読んでいるのがばれて怒られることもしばしばだとか。私は隣のクラスの友達からそれを聞いて、るいらしいなぁと笑った。
放課後。図書室の隣の隣にある、小さな「資料室」という名の何の資料が置かれてあるのかさっぱりわからない教室が文芸部の部室だ。そこで私とるいで本を読む。他の部員は幽霊部員である。
ぱらり、ぱらりと頁をめくる音がいやに大きく聞こえる。野球部員がグラウンドで声を張るのが耳にうるさい。本の内容に集中する。
今読んでいるのは新作のミステリー。個性の強い登場人物がコメディがかった怪事件を解決していく物語だ。
文芸部は普段は本を読んでさようならだけれど、月に一度部誌を作っている。文化祭の時には自作の小説とかを書くが、普段は読んだ本のおすすめレビューみたいな感じである。るいが何よりも好きなことは本を読むことだから。私はそれをあえて邪魔しようとは思わない。
だから、やっぱり何を口にするわけでもなく。ぱらりぱらりと本をめくる音が響く。
駅のホームで電車を待つ。しばらく無言で電車を待っていると、るいが唐突に口を開いた。
「ねぇ、有栖川」
「……なに。どうしたの」
「なんで、文芸部に入ったの」
「えと、何でって言われてもな。本を読むのが好きだから……とかじゃダメ?」
「ダメじゃないけど。読書が好きなだけなら、文芸部なんかはいらない。家に帰って読めばいいだけ」
「……それは、そうかも」
「改めまして。なんで、有栖川は文芸部に入ったの?」
「なんで……なんでだろ。佐久間はなんでなの?」
「私の理由は今関係ないでしょ」
「人に聞いといてそれはずるいって」
私の抗議は通ったらしく、るいは目を泳がせてから小さな声で言った。
「書いてみたくて」
「うん?」
「自分でも本を、書いてみたくて」
「……佐久間が?」
「うん」
「てことは、文化祭で去年かいてたのは」
「割と、頑張った」
私がかなり適当に書いたのとは大違いだったらしい。頭をうんうんうならせて何とかたどり着いた文章とは違うらしい。引きこもりが色々悩んで外に出る話である。なんか、ありきたりだ。
「……それで、有栖川が書いてたのをこないだ読んで」
「こ、こないだ? 去年の文化祭のやつを?」
「読む気がしなかったから」
それは同意である。幽霊部員が適当に書いた詩とかも載っているので、私も読んでいないのだ。読んだだけるいは偉い。
「有栖川、さ。面白かったから。もしかして、同じなのかなって思って」
「あー、えっと」
「アンタも、書いてみたいから入ったんじゃないのかなって思って。聞いてみた」
お前と一緒にいたいからだよ。文章なんてこれっぽっちも興味がない。書きたいと思ったこともない。でも、今のままよりはマシ。
「――いやぁ、実はちょっと書いてみたいなって思っててさ。佐久間も一緒だったんだね」
「やっぱり! ね、今度公募に応募してみようよ! 賞が取れるかはわかんないけどさ! 有栖川が同じ事考えててくれてよかった~!」
そう言ってニコニコ笑うるいの顔を見て。安堵する。よかった。正解だ。嘘をついてよかった。これで、ひょっとすると。私は佐久間るいの特別になれるかもしれない。そう思うと、胸が高鳴った。
「頑張ろうね、佐久間」
「うん」
特別な人に並び立つためには、何をするべきか。特別になるために頑張るべきだ。優秀になって、綺麗になって、やさしくなって、人気者になって。そのうえで、それでもなお誰かの特別になれないなら。そんな人間に、生きる資格なんてない。
空っぽなのだ。結局のところ私は空っぽ。優秀な私。きれいな私。優しい私。そういう要素を全部取っ払っていって、裸にひん剥いた時の私には、何も残らない。とりつくろった仮面の下はのっぺらぼう。そんな人間が誰かに好かれるはずもない。
空っぽの私なんかに、特別な人は振り向かないから。
私は特別にならないと、空っぽで。そんな人間には生きる資格はない。
だから、私は頑張らないといけない。