折られた心
【空のお小遣い】
空が自由に使えるお小遣いは月5000円ほど。
そう多くはないが、このほかに服飾費や化粧品等の消耗品などにかかる費用を母親が全て出してくれるため、また空があまり物欲の強い方ではないため不自由はしていない。
小さい。その少女を見て最初に受けた印象はそれだった。
ブカブカのセーラー服を着た少女。早くに身長が伸びきって女子の平均以上の身長に達したアタシと比べれば、新入生は誰もかれも大概小さいけれど、その少女は同じ新入生の中でもさらに身長が低く、自分とは頭一つ分以上も離れていた。中学校の制服を着ていなければ、小学生の低学年にも見えてしまうかもしれない。
「背、高いね」
アタシが彼女を見ているように、彼女もまた私を見ていた。
「まーね。お前はちっちゃいな」
「ほっとけ」
べっ、と舌を出して彼女はアタシを睨みつけた。でも舌をしまった彼女の顔は口ほど怒っているようにも気にしているようにも見えなかった。
「あー、ごめん、違うんだ。小さくて可愛い」
「それならばよし」
いいんだ。
我ながらとってつけたような適当な褒め言葉だったけれど、彼女は満足げに頷いてくれた。
「お前もバドミントン部?」
「うん」
アタシの問いに頷くと、彼女は穏やかに微笑んで右手を差し出した。
「佳川空。初心者だけど、これからよろしくね」
「こっちも初心者だよ。同じだ。アタシは幸村こころ。よろしくな」
まるでなんのこともないような握手と交歓。
それが、アタシ───幸村こころと佳川空の出会いだった。
反りが合うというのだろうか。二人組で打つ機会があると、アタシたちはよくペアになった。
空は弱かった。弱かったけど、一生懸命だった。
アタシたちの代が入った時のバドミントン部はけして厳しい部ではなかったから、楽をしようと思えば楽ができたし、サボろうと思えばサボれた。先輩たちも練習は真面目だけど特に何も言わない。放任主義、ってやつだったのかもしれない。
でも空は楽をしない。基礎トレーニングも素振りも欠かさないし、他の部員がサボったりおざなりにやっている部分も丁寧にこなしている。小さい体で、手が届かないシャトルにも諦めずに全力で手を伸ばすし、遠くに飛ぶシャトルも頑張って追いかける。
「ありがとうございました!」
「佳川、プレーが行き当たりばったりっていうかさ……もっと相手の気持ちになろうか」
「はい!」
ゲームの練習で、いつも通り空が二年生の先輩にボコボコに負けた後のことだったと思う。
アタシは次のゲームを待つ空に訊いた。
「先輩どころか同じ一年にも全然勝てないのに、どうしてそんなに一生懸命に試合も練習もできるんだよ。面白いのか?」
「面白いよ?」
どうしてそんなにわかりきったことを訊くのか、と言うように。事もなげに空は言った。
「まだ勝てなくても、絶対昨日より強くなってるもん」
空は両手を腰に当て無い胸を張り、力強く言った。
「手が届かないならもっと手を伸ばす。そしたら明日はもっと遠くに手が届くかもしれない。勝てなかった相手にも明日は勝てるかもしれない。そう思ったら楽しくて楽しくて、私は一日たりとも手を伸ばすのをやめられないよ」
一点の曇りもない晴れやかな顔で、空は力強く言い張った。
空の言葉に、私は何も言えなかったし、動けなかった。
「おーい、どうしたの、こころちゃーん? ねえ、ねえってば」
アタシよりもずっと小さい空が、こんな大きな気持ちを抱いてバドミントンをしていること。
アタシよりもずっと弱い空が、こんなに強い気持ちを掲げて折れずに腕を磨いていること。
そのことが、アタシにはとても大きな衝撃だったし、それを胸を張って言える空がとても眩しくて、強い先輩より体の大きい私より、ずっと高いところにいる存在に感じられた。
今はまだ弱い。でもいつかきっと、空はずっとずっと強くなるんだろうと、そう思った。
「空にくせに生意気な」
アタシはその時抱いた気持ちを隠して、空にデコピンをお見舞いした。
「あいたっ」
大きくなったり小さくなったり、表情をころころと変える空を見ていたら、胸の奥から、ぐっと温かいものが沸き上がるような気がした。
別の場所でゲームが終わり、コートが空く。額を押さえて痛がる空に、アタシは手を差し伸べた。
「もう一ゲームするか?」
負けられない。
負けていられない。
それから何回もゲームをしたし、アタシは空に勝ち続けた。空はなかなかアタシや先輩、他の部員に勝てるようにならなかったけど、それでも自分で言った言葉の通りに、確実に強くなっていった。
アタシも空に負けないように、昨日の自分よりも強くなれるように、空が言った言葉を密かに胸に掲げて練習に打ち込んだ。
「今日こそこころちゃんを倒すから!」
「やってみろよ、かかってこい」
空とバドミントンをするたび、どれだけ空が成長してるかワクワクしたし、アタシがうっかり抜かれていないかドキドキした。
アタシは、空とするバドミントンが好きだった。
年度が変わり、二年生は三年生になり、アタシたちも二年生になり、バドミントン部には新入部員が入ってきたけれど、アタシたちのやることは変わらなかった。
変わったとすれば、バドミントン部の方。
新三年生はバドミントン部の姿勢を厳しいものとした。毎月ランキング戦をして、勝てば下級生でも試合に出場させるし負ければ上級生でも試合から外す、という……ありがちな実力主義を新三年生は謳っていた。まあ今思えば、レギュラーは三年生の仲良しグループで固められていたから、自分たちに都合のいい題目を貼り付けただけだったんだろうな。
まあそれはそれとして、三年生は部内では強かったから、アタシも空もまるで先輩たちに勝てないでいたし、レギュラーにはなれないでいた。空も一年生には負けないまでも未だ二年生以上の中では一番弱かった。アタシたちは三年生の打倒を目指し、届かない手を伸ばし続ける日々を送っていた。
でもその中で、ある日突然、決定的な変化が表れた。
アタシがイヤに伸びる委員会活動で部活に遅れた日だった。アタシは活動が終わると急いで着替えて体育館に向かった。
体育館に入る前に窓から中の様子を窺う。空は今日も気合を入れて練習に励んでいるらしい。アタシも負けていられない。そう意気込んで体育館に入った瞬間のことだった。
「すいません遅くなりまし、たー……、……?」
アタシは体育館に入ってすぐ、異様な雰囲気を感じた。体育館ではいつも通り部活動が行われていたが、体育館の一角だけ、重い空気に包まれていた。その重い空気を醸し出しているのは、三年生のレギュラー陣。先輩たちが信じられないというような顔をして顔を見合わせている。
───一体何が?
体育館の入り口で空とすれ違う。激しく動いた後か、その頰を上気させていた。わずかに興奮気味にも見える。何かいいことでもあったのだろうか。
アタシの疑問など関係なく、空はいつもと変わらぬ無邪気な微笑でアタシに声をかけてきた。「こころちゃん、遅かったね」
「あ、ああ……うん、委員会だったんだよ。先生も長話はほどほどにしてほしいよな。こっちにも部活動ってもんがあるんだから」
「大変だねぇ。私ちょっと水飲んでくるね」
先輩たちの重い空気など気にも留めないようなのほほんとした声。空がいつも通りで、アタシは少し安心した。
「そうそう、聞いてよ」
出入り口に向かった空が思い出したように振り返る。
「私、さっき先輩に試合で勝っちゃった!」
興奮したように空が言う。
アタシは思わず、自分の耳を疑った。
「はあ? 誰が? 誰に?」
「だから!」
先ほどと同じ内容を、空は先輩と空のそれぞれフルネームまで詳らかにして繰り返し言った。挙げられた先輩の名前は、三年生のレギュラー五人のうちの一人だった。現行の部内最強である部長には及ばないものの、アタシや空ではまだまだ勝てない相手のはずだった。
何度聞き直しても信じられない。
「もう、私がいつまでも弱いと思って!」
繰り返して何度も聞き返していると、そのうち空は怒りだした。嘘やジョークのつもりではないらしい。
「今日はなんか見えたんだよね、ラリーしてると相手のコートが光るっていうか、集中線がかかるみたいに、『ここに打てー!』っていうポイントが」
空の言葉を聞き流しているうちにアタシの中で二つの出来事が突然結びついた。
体育館を見回す。依然としてレギュラー陣に立ち込める、重い空気。
まさか、空が先輩に勝ったせい……?
空は二年生以上の部員の中では一番弱かった。その空がもしも突然三年生、それもレギュラーに勝ったとしたら……。
「その顔は、疑ってるのかな。まあいいや、私外に出てくるから」
自分自身の考えに戦慄するアタシを放って、空は水飲み場を求めて出て行った。
アタシを含め、他の部員の誰にも勝てなかった空が、どうしてレギュラーの先輩に勝てたのか。
先輩は絶不調で、空は絶好調だった。それだけで実力差が埋まりきるものか?
先輩が何かの理由で勝ちを譲った。実力至上のこの部でそんなことをする理由が思いつかないし、もしそうならあんな重い空気になりはしない。
空が先輩を強請って───。
「ってバカか、アタシは」
馬鹿馬鹿しい方向に脱線し始めた妄想を呟きでかき消す。
バドミントンで悪いことするやつじゃないのはアタシが一番知っているだろ。
理由をアタシは考えられる限りに考えたけど、それらしい答えは見つからなかった。
何かの間違い。アタシはそうだと自分に言い聞かせるようにして、胸のざわめきから目を逸らした。
「佳川、ちょっといいかな」
次の日、ゲーム練の時間になるなり、三年生のレギュラー陣が揃ってやってきて空に試合を仕掛けてきた。空は困惑しながらも、喜んでその試合を受けた。
相手は昨日空に負けたという先輩だった。
アタシはその試合の審判をやると申し出て、その試合を見せてもらうことにした。
「ラブオール、プレー!」
空のサーブが大きな放物線を描く。先輩は様子見のためか、大きなハイクリアで返す。空のサーブよりさらに大きな放物線でシャトルが飛ぶ。大きく上がったシャトルを、空は跳び上がってスマッシュした。空の身長と力ではそれほどスマッシュにスピードが出ない。スマッシュはあっさりと先輩にレシーブされた。
「いつもの空だ……」
やがてネット前に上がった球を叩かれて空はポイントを奪われた。
空のスマッシュを見て、アタシは少し安堵した。プレーに特段変わったところは見られない。
空は強くなっているが、それでも先輩たちには敵わない。空はいつも通り。先輩もいつも通り。昨日はきっと不幸な因果が重なっただけだ……。
「アイツ、いつものへっぽこじゃん」
いつもの空のプレーを見て、先輩たちも嘲るように笑う。
アタシは先輩のサーブを待つ空の顔をちらりと見て、息を呑んだ。
空は楽しそうに笑っていた。いや、空はいつも楽しそうにバドミントンをする。別に変わったところは無い。そう、いつも通りだ。いつも通りのはずなのに。
どうしてこんなに胸のざわめきが収まらないんだ。
ぽとりと花が落ちるように、唐突にシャトルが落ちた。ラリーの主導権を保っていた、先輩のコートに。
「……1−1!」
アタシは遅れて得点をコールした。空に得点が入ったのだ。
空の笑顔が、より強いものになる。
「何やってんだよー」
「油断すんなよー」
部長たちが試合をする先輩を軽い調子で煽る。今の得点が、まぐれであることを疑わないみたいに。点を奪われた先輩も、意表を突かれたようにしばし呆然としていたが、すぐに気を取り直してラケットを構えた。
先輩が一点を入れると、すぐに空も一点を取る。そんな風に得点が拮抗していた。ただ点数が拮抗するだけでも、今までの空と大きく違う。しかしそれだけではなかった。
空がドロップショットを放つ。先輩はコートの中心から動かずに、そのままシャトルを見送った。空にまた一点。先輩の顔にあった余裕が、いつの間にか微塵も残さずに消えている。
「何なのアイツ……」
違和感に気付いた先輩の一人が慄くように呟いた。
空のショットに、また先輩の動きが止まる。まただ。空が得点するときはいつも先輩の足が止まる。足を地面に縫い付けられたように、ピクリとも動かなくなるのだ。
「……21−17」
アタシは最後の得点をコールした。
今まで先輩たちはおろか同学年の部員にも勝てなかった空が、先輩に勝利した。
「やった!」
空は無邪気に自分の勝利を喜び、対する先輩はコートの中心に立ったまま、畏れるような視線を空に向けていた。
「次は私がやる」
また別の先輩が代わってコートに入り、空に試合を仕掛ける。空は喜んで試合を受けた。先輩の方からこんなに後輩に挑むことはなかったから、先輩たちが次々と試合をしてくれるのが単純に嬉しいのだろう。
「21-14」
「21-15」
「21-12」
一人、また一人とレギュラーの先輩たちは代わるがわる空に挑んだけど、ことごとく敗れていった───最初に挑んだ先輩と同じく、足を止めて。
そして───。
「21−19」
部長までもが、同じように空に敗れた。
「……なんなの」
部長が肩を震わせ、呟いた。そしてそれはすぐに大きな怒りの奔流へと姿を変える。
「何をしたのよ!」
あらん限りの怒りを込めたような怒声が体育館に響く。その場で練習していた部員全員の視線が部長と空の方へ向いた。
「アンタ何したのって聞いてんだよ」
部長の怒声に驚き萎縮して、震える声で空が答えた。
「私は何にも───」
「そんなわけないでしょ! 何もしてないで一番弱かったやつが私らに勝てるわけないじゃん。アンタと打ってたら、何でもない打球なのに足が動かなくなった。……もう一度聞くけど、どんな手品を使ったわけ」
「そんなこと言っても私にだってわかりません……」
空は戸惑うように、助けを求めるように視線を彷徨わせたが、他のレギュラーの先輩たちも部長同様に懐疑の視線を空に向けていた。
部長は大声で嘲るように言った。
「ふーん、言えないような『インチキ』してたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、アタシは全身の毛が逆立つような強い怒りを覚えた。それだけは聞き捨てならなかった。アタシは委縮する空に代わって大声を張って言い返した。
「空はそんなことしません!」
アタシの抗議に部長は一瞬たじろいだけれど、すぐに鼻を鳴らして言い聞かせるような調子で言った。
「幸村だって見てたでしょ。アイツと打つとみんな足が止まって打てなくなる。アンタもおかしいと思わない?」
「それは……」
「こころちゃん……」
縋るように空がアタシを見つめていた。
どうして空の相手が動かなくなるのか、アタシにもわからない。だけどアタシは一つだけ確信を持って言えることがあった。
弱くても空はいつだってバドミントンにまっすぐだった。その空が空はインチキなんかしていない。インチキなどするはずがない。
「空、アタシと試合しよう。空がインチキしてないって、アタシは信じてる」
「……いいんじゃない、幸村もやればわかるよ。ウチらはインチキする人は認めないから」
それだけ言い残して部長以下レギュラーの先輩たちは去っていった。
空の力の正体を暴ければ。あるいは力の正体がわからずとも、空の力を超えてアタシが空に勝つことができれば、部長を黙らせることができるはずだ。
……実力で離れている部長たちを突然抜き去った空の力に、アタシは太刀打ちできるだろうか。
いや、どうしても暴かなきゃいけない。
アタシはコートに立って、力強くラケットを握り構えた。
最後の一球が、アタシのコートに飛んでくる。アタシの足は───やっぱり動かなかった。先輩たちと、部長と同じように。
シャトルがコートに落ちる。21−15。アタシの負けだった。
そして、空の力の正体もまだ掴めていない。
「まだだ、もう一セットやろう───」
「こころちゃん、私疲れちゃった。先輩も入れて六連戦だもん」
空がアタシの言葉を遮るように言った。空の顔は微笑を湛えていた。それはいつもの空の明るい笑みと同じ形をしていたけれど、私にはそれが酷く翳りのある笑みだった。
───痛い。空の微笑みに突き刺されたように、アタシの胸は強く痛んだ。
それでも未練がましく、アタシは空に求めた。
「じゃあ、明日またやろう」
「うん、明日」
次の日も、その次の日も、アタシはコートが空いている限り空に挑み続けた。挑み続けて、負け続けた。空と戦うそのたびにアタシの足は動きを止めた。
空の力の正体も、わからなかった。空が相手の意表を突いているのだと考えて全方向に警戒を向けても、空の力はアタシの動きを止めた。
アタシの理解を超えた力……超能力とでも思うより他なかった。
「ねえ、もうやめよう?」
試合の最中、唐突に空がそう言った。
「アタシはまだ───」
戦える、とか、空の力を知りたい、とかそんなことを言おうとしたアタシを、空は首を横に振って制した。そうして、とても悲しそうに笑って言った。
「だってこころちゃん、怖い、って顔してるよ」
「───っ……‼」
アタシは言葉を失った。空はシャトルを放りコートを出て行こうとする。違う。アタシはまだ戦える。出て行ったらダメだ───。
「ありがとうね」
最後まで言葉は出てこなかった。そして、足も動かなかった。地面に縫い付けられたように、磔にされたように、コンクリートで固めたように、畏れに竦んだように。
アタシはコートを去る空の背中を、空が放ったシャトルと同じく見送るしかできなかった。
そして次の日、空はバドミントン部を辞めた。そして部活の外でも、アタシたちは自然と疎遠になり、ほとんど話もできないまま時が流れた。
高校に進学し、空が同じ高校だったと知った時、アタシは運命だと思った。
空がバドミントン部を辞めても、疎遠になっても、アタシはあの日届かなかった空にずっと手を伸ばし続けてきたのだから。
全てはきっと、今日のこの日のために。