煩悶と先延ばし
【審判】
バドミントンにおいては試合を進行する「主審」と、シャトルがコートに入ったかどうかを判定する「線審」が存在する。
コートのライン近くに落ちる際どい打球をジャッジするのが線審の役目であるが、最高速の球技であるバドミントンでは当然目視での判定が困難な球が発生することもある。そうした場合、線審は主審に判断を委ね、主審も判断できない場合は、そのプレーを無かったことにするというルールがある。
駆け去った空ちゃんを捕まえることはできなかったようで、こころちゃんはとぼとぼと歩いて体育館に戻ってきた。
空ちゃん以外の部員で活動をしようとしたけれど、ほとんど全員が心ここにあらずという感じだったので、自己紹介がてら軽く打ち合ってこの日は部活をおしまいにした。
「こころちゃん、この後ちょっといいかい? 」
解散の号令をかけてから、私はこころちゃんを呼び止めた。
空ちゃんのこと、今日のこと、バドミントン部のこと。部長として話しておかなければならない。
立ち話もなんだったので、着替えた私たちは食堂へと移動した。ここには私とこころちゃん、それから紗枝が残った。
自販機で三人分の飲み物を買って二人に選ばせた。
「すみません、お金払います……」
「いいんだ、このくらい出すのも先輩の作法さ」
これはお詫びの気持ちでもあるからね。無論これだけで贖罪を済まそうなどとはこれっぽちも思っていない。私はパックのジュースを一口飲んで、少しだけ心の準備をしてから口を開いた。
「まずは……ごめんなさい」
「えっ」
私が一番に謝ったのがそんなに意外だったのだろうか、私が頭を一杯に下げるのと同時に、こころちゃんは驚きに声を上げた。
「君を人質にしたこと、空ちゃんを巻き込んで無理にバドミントンさせたこと。本当に悪かったと思う。経緯がどうあれ、展開に乗った私も……いや、私が悪い。本当にごめんなさい」
それに……入部を賭けたゲームが漫画みたいな展開だと喜ぶ気持ちがあったのも否定できない。しかしその結果が、今だ。
こころちゃんの声が驚きから周章へと変わっていく。
「顔を上げてください、それならアタシだって、アイツがバドミントンをやりなおすきっかけになるかもって、部長たちのフリに乗っかりました」
お互い様です、と言ってこころちゃんは悔し気に目を伏せた。机の下に隠れた手が握りしめられているのがここからでもわかって、私はより一層、申し訳ない気持ちになった。
「そうです、部長は何も悪くありません!」
頭を上げて、代わりに紗枝の頭を掴んで机に押し付ける。
「あ・の・ね・え……? 紗枝はこの件かなり悪いからね? わかってると思うけど。紗枝はもうちょっと頭下げてて」
うぞうぞともがく紗枝を見て、ほんのりと気持ちが軽くなったような気がした。もしかして、私とこころちゃんの気を紛らわせようとしてわざと言ったのだろうか。紗枝との付き合いももうすぐ一年間になる。紗枝はそういうとこもあるのだ。
……いや、本気で言った可能性も捨てきれないのが紗枝の難しいところだけれど。
体育館で見た空ちゃんの姿が思い出される。
『バドミントンなんか、大嫌いだ───』
悪いことをしたと思う。でもあそこで戦う他に無かったとも思う。後悔に似た、ぐるぐると渦巻く思いが頭をもたげる。
いや、私が今すべきはここでのんびり思い悩むことではない。
「私は、空ちゃんにも謝りに行く。でもその前に、空ちゃんのことをもっと聞かせてほしいの」
こころちゃんは戸惑うように沈黙した。返答に困っているようだった。この問題はこころちゃんだけのものではなく、そして極めてデリケートな問題だ。勝手に話すことを躊躇っているのだろう。
普通にお願いしても、なかなか聞かせてはもらえなさそうだ。
くいくい、といつの間にか頭を上げていた紗枝が私の袖を引く。何か考えがあるのだろうか。
良いことを思いついたという顔で私を指して、紗枝はこころちゃんに提案した。
「じゃあこうしましょう、───話すかどうかを賭けて部長とバドミントンをする」
ゴン! と音をたてて紗枝の頭が再び机と仲良しする。
「やっぱりもうちょっと頭下げてて」
受けるわけないでしょ。あの一点マッチは私の実力を隠していたから成立したのだ。
もう新入部員の誰も同じ手は食わない。
「じゃあ私が試合するのでー」
私に頭を抑えられて机に伏せたまま、紗枝がモゴモゴと言う。
立て続けに見せつけられた紗枝の言動にとうとう可笑しくなったのか、こころちゃんがやっと微かに笑った。
「アタシは負けないですよ」
「やった!」
「戦いませんから」
「そんなぁ……」
「いい加減諦めなさい、懲りなさい、反省しなさい!」
伏せている紗枝の頭に、トドメのチョップを入れた。
こころちゃんはそれを見てくすりと笑い声を漏らした。けれどその笑顔はすぐに苦い表情に混ざって溶けてどこかに消えてしまう。
こころちゃんはどうしても話してくれなかった。無理もない。それでも私は空ちゃんに謝りに行かねばならない。私は決意とともにパックのジュースを飲みほして立ち上がった。
「あの子ね、イジメにあったみたいなのよ……中学のバドミントン部で」
「「あー……」」
空ちゃんのお母さんの言葉に、私とこころちゃんは異口同音に脱力の声をあげる。猿轡で災いの門を塞がれた紗枝も、「むぐー」と私と同じ気持ちであろう声を漏らした。
「どうしたの?」
「いえ……私がさっき求めて得られなかった答えが」
「私がさっき守った秘密が」
「「あっさりと降ってきたもんで……」」
空ママさんはきょとんとして、私とこころちゃんを交互に見つめて首を傾げた。
こころちゃんの案内で空ちゃん邸に向かった私たちを迎えてくれたのは空ちゃんのお母さんだった。高校生の娘がいるとは思えない、若々しい美人さんだった。空ちゃんは母親似だ。
空ちゃんは嫌なことや辛いことがあるとお風呂に引きこもる癖があるのだと空ちゃんママが話してくれた。出直そうかとも思ったけれど、空ちゃんママが待っているようにと私たちはリビングに通され、空ちゃんママとお話をすることになった。
「いじめというか……少し違うんですけど……もっと複雑な事情というか背景があるというか……」
「空ちゃんが話さなかったから、私も顧問の先生から伝え聞くだけだったけど、違ったのかしら」
空ちゃんママがおっとりと頬に手を当てて首を傾げた。挙措が妙に浮世離れしている空ちゃんママは、まるでおとぎ話の世界から出てきてこの世界に居付いたような雰囲気があった。
こころちゃんは考えるようにしばらく沈黙してから、観念したように重くため息をついた。
「話してくれる?」
なおも尋ねる空ちゃんママに、こころちゃんは苦々しげに頷いた。
「部長と空の試合の、最後の一球。部長はシャトルを追いかけなかったんじゃなくて、追えなかったんじゃないですか」
こころちゃんの問いかけに私は少し驚いた。最後の一球は、普通にプレイしていれば追えないような球ではなかったはずだった。だけど、私は『動けなかった』。私の試合を初めて見る人なら、私があの球をアウトと見切って、わざと追わなかったのだと思うかもしれないけど。
「どうして?」
私の質問返しを肯定と捉え、こころちゃんは話を進める。
「アレがアイツの超能力───バドミントン部をやめた原因なんです」
「超能力……!」
その単語を聞いた瞬間、私は自分の心臓が跳ねるのを感じた。
「むー」
隣の紗枝が唸りながら私を小突いた。
アニメや漫画でおなじみの単語が突如日常に現れて、好奇心に心が躍りそうになるのを、私は努めて抑えた。いけないいけない。
「いえ、あいつがエスパーとかそういうのじゃなくて、その、仕組みのわからない得意技というか……」
そんな私の様子を察してか、こころちゃんは歯切れ悪く直前の表現を訂正した。
試合の終わりに見せた件の『超能力』を差し引いても、空ちゃんのセンスには確かに見るべきものがあったように思う。
「変わり始めたきっかけは、三年の先輩の引退と代替わり……だと思います。二年の先輩たちは三年生の先輩よりも強くて、厳しくて、団結力があって……そして醜かった」
最後の言葉に、私と紗枝は揃って眉をひそめた。
「代替わりした二年生のレギュラーの先輩たちは実力主義……のようなものを掲げて、毎月部全体で試合をさせて番付を作っていました。二年生レギュラーは強く、番付の上位は常に先輩たちでした」
「おぉ……」
実力主義に見せかけた、自分たちに都合のいい環境を作っていたのだ。あまりに『わかりやすい』舞台設定に私は思わず感嘆の声を漏らした。「むー」と隣の紗枝が再び私を小突いた。
「アタシも空も、それなりの向上心がありましたから、ハードな練習にも耐えて、レギュラーを狙ってたんですけど、アタシはずっと先輩たちに敵いませんでした」
アタシは、とこころちゃんが言ったその言葉の意味するところについて、一つの考えが巡る。そう、おそらくは───。
「空は二年の春を過ぎて変わりました。空が二年生を倒したんです。いえ、二年生だけでなく、アタシも含めてバドミントン部全員を倒しました───あの力で」
超能力。相対するプレイヤーの動きを止める、空ちゃんの持つ不可思議な技。それは突如として彼女が身に付けたものらしい。
話すこころちゃんの声がぐるぐると渦巻く暗い感情に染まっていく。
「空に負けた先輩たちは口を揃えて言ったんです……インチキだ、って」
弱かった後輩が、突然新しい力を身につけて、部の全員を倒した。こうして聞けば非常に胡散臭い話だし、あの技を喰らってみた身としてはインチキを疑ってしまう気持ち自体は理解できないことはないが……。
「空は追い出されるような形でバドミントン部を辞めました。みんな空の力を恐れたんです」
「誰も───」
空ちゃんの退部や先輩たちを止められなかったのか。そう聞こうとして、私は思わず息を呑んだ。
「笑えますよね。実力主義を掲げておいて、自分たちより強い空をインチキ呼ばわりして排除するしかなかったんですから」
過去を話すこころちゃんのその顔が、ぞっとするほど暗い嘲笑をたたえていたから。
「でももっとしょーもないのは、アタシです。空の助けになりたかったのに……アタシ自身、空の力が怖かった」
こころちゃんから滲む感情が私に波及する。こころちゃんの感じた恐怖、後悔、絶望、嫌悪、怒り、この世のすべての負の感情がここにあるみたいに、暗いものがこの場を支配していた。
「また一緒にバドミントンしたかった、場所が変われば、できることもあると思ったから、空をコートに立たせました、けれど」
───バドミントンなんか、大っ嫌いだ!
一緒にバドミントンをしたい。しかしバドミントンは必ず空ちゃんに過去を想起させる。
彼女は自分の願いと暗い感情と、そして空ちゃんの苦しみの間で懊悩していた。
「勝手に人の家来て勝手にどんよりするのどうかと思うんですけど」
重い空気に支配されていたリビングに入ってきてすぐ、空ちゃんは至極真っ当な感想を述べた。ラフなショートパンツとシャツを着て頬を上気させている、いかにもお風呂上りという姿だ。
「ごめんね、空ちゃんの昔話を聞いてしまったんだ。部活でのことと言い、重ね重ね申し訳ない」
空ちゃんは暗い表情を浮かべるこころちゃんを見て、それから手を合わせ可愛らしく謝意を訴える空ちゃんママを見て、ため息をついた。どのような経路で自分の過去が漏れたのか想像がついたのだろう。
「……私の過去を聞いて、それでどうしますか。試合には勝ちましたから、バドミントン部には入りません」
「アタシも部長たちも、空に謝りに来たんだ」
こころちゃんが、勢いよく手を合わせる。
「ごめん! 空がもう一度バドミントンするきっかけになればいいと思って、私の勝手で辛い気持ちにさせた!」
「むー! むーー!」
隣の紗枝がこれまで以上に何か言いたそうに唸る。私は紗枝の猿轡を解いてあげた。
「ぷはっ……悪いと言うなら、諸悪の根源は私です! 佳川さん、本当にごめんなさい」
空ちゃんは反応に困ったように、こころちゃんと紗枝の間に視線を彷徨わせた。
そして不意に、困った空ちゃんの視線が私に向き、目が合った。私に向く瞳は不思議な色をしている。私たちを拒絶しているのに、逆にどこか引き込まれそうな気もするのは、一体どうしてなのか。
私は今まで見た空ちゃんの姿を順に思い浮かべた。
握った空ちゃんの手。教室に現れた空ちゃん。こころちゃんと基礎打ちをする空ちゃん。私と試合をした空ちゃん。空ちゃんのバドミントン。バドミントンが嫌いだと言い放った空ちゃん。
それらの中に断片的に転がるピースが繋がって私の中に確信的な何かを作り上げようとしている。うまく言葉にはならない。非言語の確信が───。
「空ちゃん」
名前を呼ぶ。間をもたせるように。君と私たちは、ここで終わってはいけない。終わらせてはいけない。ううん、君と私たちじゃない、君と、バドミントンは───。
「気が変わった」
私の口から転がり出た言葉はそんな言葉だった。
え、と空ちゃんが呆けたように声をあげる。
場を支配する驚愕が一秒を何倍にも引き伸ばす。
こころちゃんも紗枝も、私が何を言おうとしているのかわからず戸惑っている。
「え……あの……何を?」
私の言葉は聞こえているけれど、まだ理解されていないみたいだ。
こころちゃんと紗枝も、どうしていいかわからず困惑のままに沈黙を保っている。
「あの勝負の条件は覚えているよね」
「勝負の条件……私が負けたらバド部に入って、勝ったら逃げられるって……」
「部長! 勝負は空ちゃんが勝ったんじゃないんですか、どうして今更……」
紗枝が我に返って私に問いかけた。
「もし、勝負に負けていたとしたら?」
言われた空ちゃんも、見ている紗枝もこころちゃんも私の突飛な言葉に困惑しているけれど、私は構わずに言葉を続ける。
「さっきの試合の最後の一球は見事に私を抜いたわけだけど、───本当にあの打球はコートに入っていたかな」
放たれた言葉に、空ちゃんの表情が凍る。
紗枝とこころちゃんも順に、その言葉の意味するところを理解して凍りつく。私の言葉はつまるところ、空ちゃんが勝ったと思われた勝負の結果に、待ったをかけようとしていることに他ならない。
最後のラリーの時点で、得点は20-0。空ちゃんには一点入れれば勝ちになるハンデがあったから、最後の打球が入っていれば空ちゃんの勝ちに、アウトなら私の勝ちになる局面だった。
眉間にしわを寄せながらこころちゃんが問う。
「最後の一球がアウトだったっていうんですか?」
「インだった確信がある?」
疑念に顔をしかめるでもなく、怒りで眉間にしわを寄せるでもなく、空ちゃんの真顔は冷やかな、否、どこか穏やかだった。
「最後の一球がアウトだったと?」
「主審の紗枝からは、見えた?」
私はその問いを受け流すように紗枝に振った。突然話を振られて当惑しながら首を振った。
「こころちゃんは」
「いえ、……見えませんでした」
答えるまで、いくらかの時間逡巡していたようだった。ここで嘘をついてでも空ちゃんの勝ちを主張するか迷っていたのかもしれない。
「空ちゃんは」
ここで空ちゃんがインだったと言えば、この話はそれでおしまいだと思った。けれども、空ちゃんはそうせずに、ゆっくりと首を横に振った。
バドミントンの試合では、審判がインかアウトか判断できなかった時、そのラリーを無効にしてやり直すルールがある。最後のラリーが無効なら。
「じゃあ……空の……」
「私の、……試合放棄」
こころちゃんの顔に戦慄が走る。
「でもあれは正式な試合じゃないし、私はあの球にはインだろうとアウトだろうと触れられなかった。ね、空ちゃん。あの賭けは引き分けの痛み分けということしない?」
「痛み分け……?」
「二週間だけ、バドミントン部にいてほしい。来るだけでいい、気が向いたなら練習に参加してもらってもいい。もし嫌になったら、途中で帰ってもいい」
困惑した表情で、空ちゃんは私を見つめ返した。私は笑いかけて空ちゃんの戸惑いに応えた。
本当にこれで良かったのだろうか。行動は、意見は、言葉は、表情は……。空ちゃんの苦しみは本物だ。バドミントンから離れた方が間違いなく楽だと思う。それでも、私はこう言わなければいけないと思った。
私はごくりと固唾を飲んで空ちゃんの言葉を待つ。こころちゃんも紗枝も、空ちゃんママも、ことの成り行きをじっと見守っていた。
迷う空ちゃんは、長い時間をかけてから、ようやく声を絞り出した。
「少し……考える時間をください」
答えは、保留だった。
彼女の過去を鑑みれば、すぐ答えが出る方がおかしい。むしろ嫌だとか絶対行かないとか、即断のノーではなかっただけでも状況は大きく変わっている。そのことに私は安堵した。
「うん、わかった。明日明後日は九時から十二時半まで活動だから。待っている」
土日の部活の時間だけ告げて私は席を立つ。
固まっている紗枝とこころちゃんの肩を叩いて覚醒を促し、帰り支度をさせる。
「すみません空ちゃんのお母様、大変お邪魔いたしました。あと……好き勝手言って……」
「ううん、いいの。また来てね」
帰る足が急ぎ足になってしまうのは、私も緊張していたからかもしれない。
こういうところが、私が目指したい『私』には程遠いと自省した。
長い夜が過ぎて、朝が来た。
四月ももう半ばだけど、朝の空気は冷たく冴えていた。ウインドウォーマーを引っ掛けて私は家を出た。部活の活動時間には少し早すぎたが、気が逸って家にいられなかった。
新しいバドミントン部のはじめての活動日だから、というのももちろんあるし、空ちゃんが来てくれるかどうかも気になって仕方がない。
うん、私、ソワソワしている。
入部希望者が来てくれるか、仲良く活動できるか、私は気にしない、気にしてないつもりでいた。
けれど、それは大いに間違っていたのだと、私は自分の自己認識の甘さに苦笑した。
誰とも出会わないまま、学校に着いた。活動開始までまだ三十分以上ある。バドミントン部員どころか、他の部の人や先生の姿も見えない。探せば生徒の一人や、学校の鍵を開けた用務員さんくらいいるのだろうけれど。
二年間通った学校だが、ここまで人がいないのは初めて見た。いつもだったら、人のいない新鮮さに心が踊りそうなものだけど、今の私にはもどかしい気持ちをもたらすばかりだった。
更衣室にも……誰もいない。
「時間早すぎだから。ちょっと落ち着こう」
誰もいない更衣室で、私は私への自戒を込めて、わざと大きな声でひとりごとを放った。
はあ、と私は大きく息をついた。体の空気を全て吐き出すような深い吐息。もしかして、ため息だったかもしれない。
私はさっさと着替えて体育館に入ることにした。せっかく早く来たのだから、ネットを張ってサーブ練習でもしてた方が有意義というものだ。
体育館に近付くと、誰もいないはずの体育館から小さく金属音が響いていることに気がついた。
もしかして。
その予感に背を押されるように、私は階段を四段飛ばしに駆け昇った。
金属音の正体は、ネットを張るポールの音だった。そして私は体育館にネットを張る彼女の姿を認めた。
私より二回りほど小さい背格好。ゆるく結んだお下げ髪。鮮やかな青のバドミントンウェアを着た少女。
「……っ」
私の熱くなった胸から意味のない声が押し出された。
空ちゃんだった。私よりも早く彼女は来ていたのだ。
向こうはまだ私に気付いていない。ポールに引っ掛けたヒモを力一杯引いて、ネットをきつく張ろうとしている。あれはなかなか力がいるのだ。
私は近付いて、ネットを共に引っ張る。空ちゃんはそこで初めて私に気が付いた。
二人で息を合わせて、ネットをきつく張って留める。
「おはようございます」
「おはよう。来てくれたんだね」
空ちゃんは一瞬私と目を合わせて、すぐに視線を逸らして彷徨わせた。その顔は、まだ少し曇って見える。
「すごく迷ったんです。それですごく、考えました。私の力のこととか、部長のこととか、こころちゃんのこととか……」
弱気そうな声。自分の手をぎゅっと握って、言葉を探すようにゆっくりと繋げていく。
私は何も言わずに空ちゃんの言葉の続きを待った。
「まだ、バドミントンをしていたら、昔のことを思い出します。バドミントンを好きにはならないと思います。自分の力のことも、よくわかりません。もしかしたら、本当にインチキかもしれません。みんなが私のことを嫌がるかもしれません」
彼女の言葉は無軌道にたくさんの人や物事に触れていく。彼女の迷いがそのまま現れているように。
きっとずっと、悩んでくれたのだ。考えないで、きっぱり断って、全てを見なかったことにすれば楽なのに。
「私は……」
そこで彼女の言葉は途切れた。ふわりと視線が浮き上がり、再び私と目が合う。泣きそうにも見える大きな目を見て私は───。
「後でいいんだ、難しいことをあれこれ考えるのは」
彼女の手を両手で包み、引き寄せた。私と彼女の距離が近付く。
「ありがとう」
空ちゃんの顔が紅潮していく。
「私すごく悩んでるんですけど!」
「まだ悩む時間はある。最終的な結論なんか二週間たっぷり先延ばしにしたらいい」
「なんですかそれ」
とにかくだ。
「ありがとう、空ちゃんと部活ができるのがすごく嬉しい」
それが私の気持ちの全部だった。
……だったんだけど。
「思ってたんですけど部長、なんか胡散臭いです。それに、顔の良さに任せて私が懐柔されてるみたい」
あれ?
空ちゃんはブスッとした顔になって、再び目を逸らした。
私、そんなに胡散臭い言動してるかなぁ……。
「ああーーー!」
水を差すようにバカみたいな大声が体育館に響いた。
見ればこころちゃんと紗枝が入り口から私たちを見ていた。大声を出したのはこころちゃんの方だ。
……まあ、大声も一つ武器になるし、いいんじゃないか。
二人が駆け寄り私たちを見る。
「部長、彼女は……」
「見ての通りのイキのいい新入部員です。賞味期限は二週間」
空ちゃんはその言葉に少し逡巡するように二人を交互に見て、やがて弱々しく、しかし確かに小さくうなずいた。
こころちゃんと紗枝は驚きに目を見開き、すぐにそれを喜びに転化させた。
「やった! ありがとう空!」
感極まったこころちゃんが空ちゃんに抱きつき、持ち上げ、振り回す。小柄な空ちゃんはされるがままに振り回されていた。
「あーーー!」
……デジャヴ。入り口に美少女と美少女みたいな美少年。舞歌ちゃんと初くん、可愛らしい新入部員二人が立っていた。
そのまま、二人が近付いてからさっきと同じような説明を私は繰り返した。
「でも二週間ってなんだか半端じゃないですか? 何か理由が?」
「それはねー……」
せっかくなので、感極まり続けているこころちゃんとされるがままの空ちゃんの肩を叩く。全員に注目を促してから、私はバドミントン部の当面の目標を発表する。
ここから新しい活動が始まるのだ。私は少しもったいぶってから、声を大にして宣言した。
「発表しよう! 二週間後、我々バドミントン部は全員で市民大会に参加する───!」
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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