はじまりのプールサイド
憧れがあった。
───手が届かないならもっと手を伸ばす。そしたら明日はもっと遠くに手が届くかもしれない!
追いかけたかった小さくて大きな背。
後悔があった。
─── だってこころちゃん、怖い、って顔してるよ。
アタシは一番大事な手を離してしまった。
でも、あの手をもう一度掴むために、待ち続けた。耐え続けた。手を、伸ばし続けた!
───この次は絶対負けないからな!
あの戦いには勝てなかったけど、それで終わりじゃなくなった。続きを作ることができた。
勝てなくても「次」がある。アタシが折れない限り何度だって戦える、戦い続けられる。
そしていつか空に伸ばした手が手を届くようアタシはもっと強くならなくちゃいけない。
そう、もっと強くなるために、アタシは今ここにいる。
───もっと強くなるために、ここにいるはずだったんだが。
「みんな私に続けーっ!」
ザブン、と大きな音と飛沫が上がる。舞歌ちゃんが飛び込んだのだ。
泳ぐのをやめたら死ぬタイプの魚のような勢いで水中を猛進する舞歌ちゃんを見て、部長は呆れたように、それでいて楽しげに笑った。
「舞歌ちゃんをして、ああもはしゃがせてしまうプールの魔力は恐ろしいと言ったところかな?」
プール───、そう、アタシたちはプールに来ていた。
「恰好で言えば部長がダントツではしゃいでますからね?」
舞歌ちゃんはアタシと同じ学校指定の水着を着ていただけまだ落ち着いていると言える。
それに比べて部長の恰好と言えばそれはもうすごい。鮮やかな赤を基調としたハイネックビキニ型の水着に、これまた鮮やかな色の、洒落たパレオを巻いている。おまけにサングラスとハットまでかぶっているものだから、大人びた部長の容姿と相まってさながら女優のお忍び海水浴のようだった。
「アタシたち何しに来たんですか?」
「もちろん合宿さ!」
「合宿に持ってくる水着がそれですか!?」
アタシが声を荒げるのと反対に部長は神妙な面持ちになって諭すように言った。
「考えてもみてほしい。私がスクール水着など着たらどうなるか」
アタシは自分も着用している学校指定の(少々子供っぽい)水着と、有名画家の婦人画のような黄金比めいた(一部の主張が激しい)身体つきを交互に眺めてから、言われた通りの想像をしてげんなりした。
「普段の水泳の授業はどうしてるんですか」
部長はそれには答えず、
「うっかりしていたよ。確かにオーソドックスなスクール水着も学校の魅力と思ってたんだけど、水泳の授業になったら自分も着なきゃいけないというのを見落としていた」
と笑って肩を竦めた。
水泳の授業に部長がいた日には、先生も生徒も男女問わず、さぞかし目のやり場に困ったことだろうと思い、アタシはそれ以上水着を追及するのをやめた。
「じゃあ、その小脇に抱えているものは一体なんですか」
「サメさ」
「サメ」
見ればわかる。空気が入って膨らんだ白黒のビニール塊は確かにサメの形をしている。
部長はきょとんとして首を傾げた。
「海やプールを楽しむためのマストアイテムだよ、知らないのかい?」
やっぱレジャーだと思ってるじゃないか。
その時、入り口から水気を帯びた足音がした。紗枝先輩が出てきたようだ。紗枝先輩はちゃんと学校指定の水着を着ている。これは副部長として浮かれ気味の部長を掣肘してもらうチャンスだ。
「部長、その水着……」
いいぞ。
「た、大変素敵です」
部長の水着姿を見た紗枝先輩が、見る間に赤くなっていく。部長の水着といい勝負だ。
「うん、ありがとう」
「いえっそのっ、あのっ、ひと泳ぎしてきますねっ!」
紗枝先輩はそれきり準備運動もすっ飛ばしてプールにドボンと飛び込んでしまった。
……きれいな飛び込みではなく、お腹から飛び込んだように見えたんだけど大丈夫かな。
とにかく、水着部長の前に紗枝先輩はあまりにも無力だった。
残るは初君と空ちゃんの2人だ。
初君……が部長に文句をつけるところは想像つかないから、部長に物言いをつける望みは空に託された。
そういえば初君はどんな恰好で来るのだろう。初君は外見こそ、そこらの女子を軽く凌ぐ可憐な容姿を持っているが、その実性別は紛れもなく男だ。やはりトップレスなのだろうか。うう、それは少しイメージと違う。端的に言えばなんかイヤだ。
「お待たせしました」
先に出てきたのは空だった。頼む、空。部長に是非ともツッコミを───
「ミ゜っ」
「こころちゃん、どうしたの?」
空こそ、学校指定ではない水着を着てくる最後の人だと思っていた(英語的表現)。
しかしそうではなかった。
青と白、夏らしい色のワンピースタイプ。
「ニ゛っ」
「似合ってる? ちょっと子どもっぽいかとも思ったんだけど……変じゃない?」
確かに空の水着にはところどころフリルがあしらわれていて、見ようによっては子供っぽい、のかもしれない。だが。
「`ノっ!」
「そんなことない? そっか、ありがとう」
下手に大人びた水着を着るよりもよほど良かったとアタシは断言できる。
その水着はけして空を子供っぽく見せるものではなく、空の本来持っている女の子らしい可愛さを十全に引き出す鍵たり得る、素晴らしい水着だった。
「……なんかこころちゃん変じゃない?」
「Lヽゃ?」
「そう……?」
空は怪訝そうな顔をしながらも、そこで会話をやめて、準備運動をし始めた。
隣で一連のやりとりを見ていた部長がアタシにささやいた。
「学校指定じゃない水着もいいもんだろ? 私が選んで渡したんだぜ」
「……グッジョブです、部長」
ちなみに一番後に出てきた初君はショートパンツ型の水着に、ラッシュガードを羽織っていたことを追記しておく。それも部長が渡したものらしい。良かった。




