決勝
【ドクター・ペッパー】
待木舞歌が愛飲する、アメリカ発祥の炭酸飲料。
その風味は独特で飲む人を選ぶ。幸村こころはこれを苦手としているようである。
スコアは21-0と21-0の、ラブゲーム。
セットカウント2-0。
長い長い試合の果てに、決勝戦に駒を進めたのは部長だった。
試合を観たのは途中からだったけれど、舞華ちゃんは最後まで闘志を失うことなく粘り抜いた。部長の猛攻を巧みに受けながら、勝機を探し続けていたんだと思う。一本一本のラリーがとても長く、観戦しているだけで息が詰まりそうになる壮絶な試合だった。
『女子シングルス一部決勝戦、深水高校佳川空さん対深水高校久美此魅さんの試合は第六コートにて十分後に行います。繰り返します。女子シングルス一部決勝戦───』
私たちの決戦の場を伝える館内アナウンスが、人のまばらになってきた体育館に響いた。
あたりを見回す。右も左も、もうあまり人は残っていない。朝はギャラリー中を埋めていた人たちも、大会が進むにつれて次第に減っていった。体育館に残ってるのは私たち深水高校の面子と、他の部門で勝ち上がった選手のいるチームだけだ。
これから決勝戦が始まる。……そういえば、バドミントンの大会で決勝戦まで進むのは初めてだったっけ。中学生時代には全然強くなかったし、そもそも試合に出た回数もそう多くはない。
寄せては返す波のように、さっきの試合の記憶が繰り返し浮かび上がる。
───この次は絶対負けないからな!
私は言い知れぬ気持ちが滲み出すのを感じて、思わず胸を押さえた。わずかに大きく鼓動する胸。そこにある気持ちが何なのか、私は掴みかねていた。不安にしては、熱を帯びすぎている。喜びにしては、落ち着かなすぎる。
私の様子を見て取って初君が声を強張らせた。
「い、いよいよ決勝戦だね……佳川さんもやっぱり緊張してる?」
「初君よりは緊張してないよ」
緊張していないわけではなかった。けれど自分の試合でもないのに私以上にガチガチに固まっている初君を見ていたら、私の緊張は自然と解けていった。
「私は……緊張もあるけれど、それよりも不思議な気分。初めてなんだよね、大会を勝ち進むのは」
「あっ、ごめん……」
私の過去に関わるデリケートな部分に触れてしまったと思ったのか初君が慌てた。その姿が可愛くて、私はつい顔が緩んでしまう。
「違うの、バドミントン部を辞めたからじゃない……とも言えないけど、私は弱かったからね。勝ち進むっていう経験が少なくて」
この大会の中で、こころちゃんと戦うまで私は自分の力───空隙探察を封じて戦っていた。それなのに勝ち進むことができたのは、おそらくこの二週間で部長に課された鍛錬のおかげだろう。たった二週間の鍛錬で、大会で勝ち進めるようになったというのも信じがたいことで、そういうところも含めて、どうにも私が大会で勝ち進んでいるということに、ましてや次が決勝戦であるということにあまり実感が湧かなかった。
私の言葉を隣で話を聞いていた紗枝先輩が少し考えるようなポーズをしてから、いいことを思いついたという顔で言った。
「じゃあせっかくだから決勝戦前の気持ちを盛り上げておきましょうか」
なんとなくわかってきたことだけど、紗枝先輩があの顔をしている時はあまりロクなことを思いつかない。
「それでは現場の羽月君、決勝戦を控えた佳川選手にインタビューをお願いします」
「えっ? えっと……? そ、それでは佳川選手、決勝戦進出おめでとうございます」
「ありがとう……ございます?」
私が突然のインタビューに面食らってどう反応していいか決めあぐねていると、紗枝先輩が目線で私に回答を促してきたので私はなんとなく答えてしまう。これでいいのかな……。それに、戸惑いながらも調子を合わせてインタビューをする初君がいい子すぎて、将来悪い人に引っかかるんじゃないかと不安になる。
「それでは佳川選手、…………何を聞いたらいいんでしょう?」
「知らないよ!」
思わず声を大にしてしまった。初君はもしかしたら、疎いのはバドミントンだけではないのかもしれない。
「じゃあ、初君に変わって私がインタビューをしようかな」
首を傾げる初君の代打を申し出たのは紗枝先輩でもなければ当然私でもない。
「部長!?」
さっきまで階下で試合をしていた部長が、いつの間にかギャラリーに上がってきていた。
驚く初君や紗枝先輩を見て部長は大げさに眉をひそめた。
「いやそんな驚いてくれるなよ。ここ私の席もあるし。あー、疲れた。紗枝、ちょっと足揉んでくれない?」
「はい」
部長は座席の一つに座り込むとカバンからスポーツドリンクを取り出してあおるように飲んだ。そして、キャップから口を離して深く深く息をついた。
私はずっと言いたかったことを口にした。
「部長……ありがとうございました。その……さっきの試合……」
「ん? ああ、空隙探察のことか、良い名前だろう?」
得意げな顔をする部長の予想は、しかし私の言いたかったこととほんの少し違う。いや、確かに部長がくれた名前のおまじないのおかげでもあるから、間違いではないのかな。とにかく部長にはそっちの方が大事なことようだ。
部長には名前のことも含めて感謝しているけれど、でもそれはそれとして、ちゃんと言っておかなければならない。
「名前の方は……ちょっとかっこつけすぎて恥ずかしいです」
「あれ!? ダメ!?」
よほどネーミングに自信があったらしく、部長は信じられないという顔でのけぞった。その足を揉む紗枝先輩が動かないでくださいと部長を静かに諌めた。
「でも、この名前をもらったから、こころちゃんと戦えました。ありがとうございます」
それが私の伝えたかった気持ちの真芯だったのだけれど、部長は絵画の美女のように微笑みながら柔らかに否定した。
「私は大したことしてないさ。 空ちゃんとこころちゃんがお互いに頑張ったからこそ。私はちょっと過程を省略しただけ」
「省略……ですか」
「そう。私がいなくてもこころちゃんはいつか空ちゃんをその気にさせたし、いつか空ちゃんはこころちゃんに応えていたよ、きっと」
確かに、こころちゃんは今すぐに力を使わなくてもいいと言ってくれた。でもなんだか釈然としない。煙に巻かれたような気がする。
「技の名前は……気に入らなかったら自分で考えて付け直しなさい」
そう言ってもうひとたび笑うと、部長は紗枝先輩に足を揉んでもらいながら、静かに腕を曲げたり伸ばしたりしてストレッチを始めた。
「あ、そうだ」と、忘れてればいいのに部長がそこで先ほどまでのやりとりを思い出した。私へのインタビューだ。
「佳川選手、本日の試合を振り返ってどうですか?」
マイクを模した握りこぶしを私に向けて部長が言った。私は初君がインタビューをしてきた時よりも眉間に皺が寄るのを自分で感じた。
部長はあと数分後に私と試合をする対戦相手だ。同門対決とは言え、対戦相手にインタビューされるこの状況は、一体……?
戸惑う私に部長は再度マイクを突きつけて回答を促してくるので、私はしかたなく回答を考える羽目になった。
「決勝トーナメントまで、どの試合も苦しかったです。でもさっきようやく、何か大事なものが掴めた気がして、良かったです」
部長は満足げに頷くと間髪入れずに次の質問を繰り出した。
「ついに最後の決勝戦です。強敵ですがどのように戦っていきますか」
その質問に紗枝先輩がこらえきれずに吹き出した。何せ、その強敵はこのインタビュアー本人のことなのだから。
しかし、このおふざけのインタビューに答えるかどうかはさておき、部長とどう戦うかという問題自体は、なかなか難しい問題だった。
部長は掛け値なしに強敵だ。私のバドミントン歴の中でも一番強い相手になるだろうことは間違いない。というか、そもそも勝ち目が全然あるように思えない。所詮は市民大会だから、勝っても負けてももらえるメダルの色が変わるくらいの違いしかないし、今日でバドミントンをやめようという私には勝敗など、身も蓋も無く言ってしまえばどうでもいい問題であるとも言える。かと言って適当に戦うのは、こころちゃんを含むこれまで私が下してきた相手に申し訳が立たないから、手を抜くこともできない。
部長が繰り出した質問は、私の心に大きくのしかかる問いかけになっていた。
部長は、これを意図していたのだろうか。
『試合の呼び出しを行います。女子一部決勝戦、深水高校佳川さん対深水高校久美さんの試合を第六コートで行います。繰り返します───』
いつの間にか部長の微笑みに、静かながら強い力が宿っていた。それは、私に何かを伝えようとするみたいに。
私はどんな風に決勝戦を戦えばいいのだろうか。この二週間の最後にはどんな結末が、どんな意味があるのだろう。




