天賦-ギフト-
【スポ根】
『スポーツ根性もの』の略で、日本の漫画やアニメなどのジャンルの一つ。
主人公がスポーツを通じて成長する様を描くジャンルのことを指す。
部長こと此魅がバドミントンをやり始めたのもバドミントンを題材としたスポ根漫画を読んだ影響であり、もしも読んだ漫画が別のスポーツを取り扱ったものであったなら、此魅はバドミントンをやっていなかったのかもしれない。
体育館の下のフロアには卓球場や武道場などが集まっている。二階はちょうど使う団体やイベントがなかったらしくて、人通りは皆無。とても静かで、逃げてきた私には都合が良かった。
ラケットを背負った集団がスポーツセンターから出て帰っていくのが窓から見えた。もうすでに選手全員が敗れたチームだろう。私が倒した選手も混ざっているかもしれない。負けてしまった選手たちなのに、その雰囲気はけして暗くなく、むしろ仲間と笑いあってまた次を戦おうとする活力が見て取れた。
胸の内に、薄暗い気持ちが湧くのを感じる。その気持ちに名前がついて言葉になる前に、私は首をぶんぶんと振って窓の外を見るのをやめた。そうしてそのまま、壁にもたれてしゃがみ込んだ。
「空!」
呼び方で、声の高さで、大きさで、声色で、聞こえた瞬間に誰だかわかった。わかって、また明暗ないまぜの気持ちが浮かんで胸を満たした。
「こころちゃん」
「探した……ってほどでもないか。割とすぐ見つかったし」
すぐ見つかったといいつつも、こころちゃんは額に汗が見えるし、肩で息をしている。隠しているつもりかもしれないけれどバレバレだった。そのくらい一生懸命に私を探してくれていたんだ。
「探さないでください、って書き置きし忘れたんだよね」
「だから探して欲しいのかと思って探しちゃったぜ」
「逃げるくらいなんだから探さないでよ」
「探してほしくないならもっと遠くに逃げればよかった」
「スポセンの外とか?」
「スポセンの外とかさ」
私とこころちゃんの声が重なって、二人で顔を見合わせて笑った。
「よくここがわかったね」
「今日このスポーツセンターで人がいないのはこのフロアだけ。今朝、案内図を見たんだよ。一人になるならここかなって」
初歩的なことだよワトソンくん、とか言ってこころちゃんは穏やかに微笑んだ。多分モノマネのつもりだ。言い方が少し部長らしくて、本当は言ってないセリフなのに私は思わず笑ってしまう。
「スポセンの外に出てたかもしれないじゃない」
「だとしたら……ここにいなかったなら、スポセンから逃げるくらい嫌だったなら、探すのはやめようって思った」
でもここにいた、とこころちゃんは安堵したように息をついた。
「逃げたかったんだけどさ、なんか、スポーツセンターの外に出られなかったんだよね。私、優柔不断なのかなあ……」
「優柔不断なんじゃなくて、空は真面目なんだと思うぞ。いつ帰ってもいいって言われてたのに部活にきっちり参加してたし、アタシなんか見捨てたっていいのに部長と試合してみたり」
「あそこで逃げるのは人道に反すると思っただけで……」
「そういうとこだぞ」
こころちゃんが睨むように薄目でじとりと私を見て言った。……言い返す言葉は何も出てこなかった。
「アタシとのバドミントン、嫌だったんだよな」
「っ、ちが…………わない…………」
違う、と言えないところも、こころちゃんは『真面目』と言うのだろうか。
「嫌……うん、そうだね、嫌だった」
自分の気持ちを一つずつ、ゆっくりと確認するように言葉にしていく。
「私はあの力を、使いたくない。使って、またこころちゃんを苦しませたくないの。でもこころちゃんは私に使ってほしいんでしょ」
「それは……」
私の予想は当たっているようだった。こころちゃんが顔を強張らせて目をそらす。
「どうせ、『力』ごと私を倒せば私が戻ってくる! とか思ってるに決まってる」
「そんなことは、そんなことは……思ってたなあ…………」
「空ちゃんも部長に負けず劣らず頭がスポ根でできてるんじゃないの?」
目をそらしすぎて、首が後ろをに向きかけている。図星の中の図星を撃ち貫いているらしい。まあ簡単に予想はできたことだ。なにせ───。
「こころちゃんはバカだからなぁ」
「何だとコノヤロー!」
ねじ切れそうなほど捻られたこころちゃんの首が一気に正面を向いた。かわりに怒りで肉食獣のように獰猛な顔つきになってしまったけれど、とにかく首がねじ切れなくて良かった。
不意に、こころちゃんのユニフォームのパンツから、軽やかな電子音のメロディが流れ出した。誰かから電話がかかってきているようだった。
「舞歌ちゃんからだ」と言って、こころちゃんは通話を受け、私にも聞こえるように、スピーカーモードにした。
『佳川は見つかった? アンタたちの試合のコールかかったわよ!』
「だってさ。空、戻ろう」
こころちゃんが私の手を引いていこうとするけれど、足が動かなかった。
「私は……」
こころちゃんが私のために考えたり悩んだりしてくれていることはわかっているのに、私はそれに乗り切れないでいた。試合をすることはできるかもしれない、でもその先が無い。
あの力は使えない……。
私の迷いを感じ取って、こころちゃんは思い出したように言った。
「あ、空が試合しなかったらアタシ、バドミントン部辞める」
「ズルいよこころちゃん!?」
「紗枝先輩……」
「いつものことです……」
主審席にはしょんぼりと小さくなった紗枝先輩が収まっていた。敗者は次の試合の主審をすることになっている。つまり、紗枝先輩は部長に……。紗枝先輩の目は一瞬虚ろになって何も無いところを泳いだが、すぐに力を取り戻した。
「でも私だってただ負けたわけじゃありません。やることはやりましたから、後は新入生組に任せますよ」
私とこころちゃん、ギャラリーから見下ろす舞華ちゃんを見回して紗枝先輩が言った。
「それよりも、失踪したって聞いて慌てましたが、戻ってきてくれたんですね」
「ええ……まあ……どうしてこうなったんでしょうね」
二週間前と同じ轍を踏んで、私はコートに立っていた。
「では、深水高校佳川さんと幸村さんの試合を始めます」
紗枝先輩がゲームの開始を宣言する。副部長・紗枝先輩は主審用の高椅子に座っていた。こういった規模の大会の多くは、そのコートの直前の試合で負けた選手が次の試合の主審をやるルールが採用されている。選手二人も主審も内輪のなんとも珍しい試合が始まろうとしていた。
「21ポイント3ゲームマッチ、ファーストゲームラブオールプレー!」
サーブ権は私が得た。お腹の前にシャトルとラケットを構える。ラケットを小さく動かす構え。
第一打。ゆっくりとネットの上をシャトルが飛んでいくのと対照的に、こころちゃんの動きは機敏だった。
放物線を描いてシャトルが落ち始めるその前に、高い打点でシャトルを叩く。私の想定してるよりもずっと早いタイミングで鋭く返球された。体勢を整える暇もなく、私は崩れたフォームでろくに狙いもつけられずに打ち返す。
とにかくこころちゃんから遠いところへ。時間が欲しい。咄嗟に打ち込んだ先は、先ほどまでこころちゃんがいた場所の対極の位置。
なのにそこにはなぜか───こころちゃんがいた。
「───なんでいるの」
思考が脳内で収まらずにそのまま口から漏れ出る。
先回りされていた。
読まれていた。
放つというより、まるで無造作に放りなげたような緩い打球が、私のコートに落ちる。
「1−0」
紗枝先輩の試合のコール。その声が僅かに揺れている。先輩も私と同じく驚いているようだった。
「アタシと試合しなかったから気付かなかったか?」
ネットの向こうでこころちゃんが笑う。いや、笑っているようで、その眼は私を射抜くように鋭く見据えている。
「見て打って確かめてくれよな、アタシがどれだけ強くなったか」
私が構えたのを見て取って、こころちゃんはラケットを大きく振り上げた。
中学生のころ、こころちゃんは私よりもずっと強かった。私だけでなく、同期の中で一番強かったと思う。練習や打球に少し雑さが見えることもあるけれど、こころちゃんはいつも力強く戦う。先輩たちはそれよりもさらに強かったけど、私が追いかける背中として、目指したい強さとして一番に思い浮かべるのはこころちゃんだった。フォームやステップが美しいのとはまた違う。鋭く、力強いバドミントン。それが私の知るこころちゃんのバドミントンだった。
でも、今のこころちゃんはあの時のこころちゃんとは違う。私の知らない、こころちゃんがそこにいた。あれは本当にこころちゃんなの?
なりふり構わずがむしゃらにシャトルを追い私のコートに叩きつける、力強いを通り越してただひたすらに乱暴な、嵐のようなプレー。
遠くへ───。
嵐から逃れるべく遠くに放ったシャトルにも、こころちゃんは追いついてまたシャトルを叩き返す。
あまりに乱暴で、あまりに力任せで、強い。
コートの上で振り回しているのは私のはずなのに、圧されている。
中学校で打っていた時のこころちゃんとは全く違う強さ。
何がこんなにこころちゃんを強くしたのか。
「どうして……っ」
私の口から、こころちゃんの放つ力に押し出されるように言葉が漏れた。
その言葉が届いたのかどうか。
「お前が言ったんだぞ! 手を伸ばし続けたら明日には届くかもしれないって! 明日には勝てるようになるかもしれないって!」
こころちゃんが吐き出した言葉は耳に覚えがあるのに、全く予想もしていないものだった。
あれは、私の言葉……?
バドミントンが楽しかったころの、私の───。
強打。強打。強打。
乱発されるこころちゃんの速球に私はコースを選ぶこともままならず、ただ打ち返してひたすら耐えている。
伝わってくるのは、一球一球の重い衝撃と、大瀑布のような圧力を帯びた気迫と、胸を灼くような熱を帯びた感情。
そうして、私は悟った。私を畏れ、私と同じように心に傷を負ったと思われたこころちゃんが、どうしてあの後もバドミントンを黙々と続けていたのか。何を支えに戦ってきたのか。
私の言葉がこころちゃんを強くした。勢いで出たような軽い言葉だったのに、それはこころちゃんの胸の内で、生きていた。
「お前が届くかもしれないって言ったのに、お前がいなくなってどうすんだよ!」
こころちゃんはなおも、叫びと共にシャトルを放ち続ける。
「お前のために強くなったんだぞ! ……強くなったよな!? どうだ!?」
唐突に私の質問へと変わったこころちゃんの言葉に、私は腰が砕けそうになった。
どうだって……。
「頑張り続けたら、いつか……お前の『力』も怖くないくらい強くなれるって……、そう思った! いつかお前の『力』ごとお前を倒せるように!」
叫びながら、こころちゃんはコートを駆け回る。そんなことをすれば当然苦しくなる。こころちゃんの言葉は切れ切れで息苦しそう。
突然どうだ、なんて聞いてくることも、無理して叫びながらバドミントンすることもまともではない。
「こころちゃんは……バカだなぁ……」
「うるせっ!!」
こころちゃんは、私に強さを示して『力』を使わせたいんだろう。
頭によぎるのは、昔見た、こころちゃんの顔。私に挑みながらも畏怖に占められた顔。
胸が苦しい。こころちゃんにこうまでさせているのに、それでも『力』を使えないことがこの上なくもどかしくて、辛くて、見苦しくて、後ろめたくて───。
「それでも……使えない……」
「使わなくていい!」
「っ……!?」
予想外のこころちゃんの叫びとともに放たれたスマッシュが飛び込んでくる。その強さに、吹っ飛ばされそうな錯覚さえ覚えながらも、私はかろうじてレシーブをする。
「アタシが空のために強くなり続ける! 空が絶対勝てないって思うくらい強くなるまで『力』を使わなくていい! だから近くで見てろよ!」
続けて放たれた打球が私のコートを鋭く射抜いた。私はそれを追おうとしたけれど、届かなくて床に倒れこんでしまった。
気付けば、見える風景がすっかり滲んでしまっていて、それが溢れる涙のせいだと気付くのに私はしばらくの時間を要した。気付いた途端に次々と、大粒の涙は私の頬を伝って落ちて床を濡らした。
「11-3」
いずれかのプレイヤーが先に十一点目を取った瞬間が、ゲームの折り返し地点だ。紗枝先輩がインターバルを宣言する声が聞こえた。主審中だから声をかけてこないけれど、紗枝先輩も私を心配してくれていることが声色でわかった。
「空ちゃん、まだ試合は続けられる?」
私が倒れ伏した先に、ラケットを携えた部長がしゃがみ込んで私を見下ろしていた。
「顔ボロボロじゃない、まだ一ゲーム目でしょ」
私とこころちゃんの顔を交互に見比べて、部長は困ったように笑った。
「部活が辛かったら打たなくてもいいし途中で帰ってもいいって言ったよね。あれはこの大会も例外じゃないよ」
入部前に部長が提示した、私がバドミントン部に参加する条件。バドミントンが嫌いな私のための、脱出装置。
部長は私にバドミントンをさせようとしながらも、私の気持ちを案じてくれている。
そしてそれはこころちゃんも同じ。私に『力』を使わなくていいと言ってくれた。
けれど、だからこそ。
「私は、こころちゃんの気持ちに応えたいです……」
この気持ちは応えたい、でもあり応えなければならない、でもある。力を使わなくてもいいとこころちゃんは言ってくれた。ここでこころちゃんの言う通りに力を使わなくても、きっとなるようになるのだ。でも、今まで戦い続けて来たこころちゃんを、これ以上一人で戦わせてはいけない。
今度は私が、私の『力』と、辛い気持ちと、戦わなければいけない。なのに───。
「空ちゃんは優しい子だね」
部長が私にかけた言葉もまた、こころちゃんの叫びと同じく私の予想しないものだった。私が優しい? こころちゃんにここまでさせてなお、自分の心を守って踏み切れない私が、優しいと言えるの?
「甘えればそれで済むのに、そうせずにこころちゃんに応えたいと悩めるだけで、空ちゃんは優しい良い子さ」
部長が絵画の美女そのままな柔らかな微笑みとともに、私に手を差し伸べた。
「だから、優しい良い子には私からおまじないをあげよう。漫画みたいに優しい、とっておきのおまじないを」
「11−3、プレー!」
紗枝先輩が試合の再開を告げる。宣言とともに私とこころちゃんの視線が一瞬だけ交錯した。
まだ霞む視界の端で部長が自分の試合のあるコートに向かっているのが見えた。
こころちゃんの手からシャトルが離れ、高く打ち上げられる。
落ちてくるシャトルを、こころちゃんが打ちにくいバックハンド側奥に打ち返す。
部長が授けたおまじないで、私は本当に戦えるのか、まだわからない。部長とのやり取りを私は何度も反芻する。
「空ちゃんの力が恐ろしいのは、それが未だ得体の知れない力だからさ」
そう、私は自分でも自分の力の正体がわからない。どんな仕組みで子の力が働いているのか。だからこそ、怖い。
けれど先輩は腕を組んで不敵に笑い、あっさりとこともなげに言ってのけるのだった。
「正体不明の恐ろしいものを攻略する第一歩、漫画だと正体を決めてやるのが特効薬と相場が決まっているんだよ」
「正体を……決める?」
「そう、それがどんな力か、どういう理屈で動く力か。空ちゃんが決めて、その力を定義してあげればいい」
私の力を定義する。そう突然言われても私はピンと来ず、考えをまとめることができなかった。それを見て部長はすぐに私に問いかけた。
「空ちゃんの力はどんな力?」
「相手の動きを止める力です」
「止めると言っても、何も念力で止めてるわけじゃないだろ。どんな風に『力』は現れた?」
「それは……」
ラリーをしている時、それはいつも私の視界に現れた。相手のコートの上に、光が射すのだ。ここに打てと示すように。
「それはきっと……相手の隙を教えてくれているんだ」
───隙。それがキーワードとなって、私の頭に転がる断片的な記憶が一繋ぎになっていく。
「意表をつくように、ですか?」
「それだけじゃない。相手の心が生み出した隙、相手の技が空けてしまった隙、相手の体が埋められなかった隙。君はそれを、無意識に見抜いている」
私が感じていたことに、意味が付いていく。私が識らなかった私の力に、理由が付いていく。
何を見て『力』を振るっていたか知ったことで、コートの見え方はさっきまでとまるで違うものになっていた。
「断言しよう、それはけして超能力なんかじゃない! それは相手の空隙を探し穿つ君の『天賦』! 君に与えられた、得難き才能さ!」
ネットの向こう側の全てが情報になって頭に入ってくるようだった。こころちゃんの体勢、視線の向き、つま先の向き、ラケットの向き、戦い方、今打ったショット、これから打とうとしているショット、考えていること……そして、どこがこころちゃんの『隙』なのか。
私の強打。サイドラインギリギリを刺すようにシャトルが飛ぶ。それを掬い上げるように、こころちゃんが打ち返す。打ち返し、すぐさまセンターに戻ろうとする。
だけどそれこそが───空隙。
「その『天賦』に名前をあげよう。それが未知を既知に変え、君が力を御する助けになるだろう!」
上がってきたシャトルを、早いタイミングで、同じ場所に叩きつける。
センターに戻ろうとしていたこころちゃんの動きが止まる。進行していた方向の逆に突如打ち込まれたのだ。反応できるはずもない。
「空隙を探し相手の全てを見識るその力、その名は───」
シャトルがコートに突き刺さる。
そう、これこそが。
こころちゃんのコートを穿ったこの力の名は───。
「───『空隙探察』」
 




