瞼の裏の物語
――どのくらい走っただろう。
気が付くと既に日は落ちていて、街灯の光を頼りに夜道を駆ける。呼吸の乱れや片方の靴の底が破けていることに気付いたのは、家から駆け出して数時間後のことだった。
一心不乱に走ったのか、それとも、心を無にするために走ったのか。とにかく俺は走り続けた。一刻も早く、あの場所から離れようとした。
耳をすませば、虫の音と、蛙の鳴き声。どちらも耳に慣れないものだった。だが、それが逆に良かった。
寿命を縮めるようなけたましく鳴っていた警報も、ようやく耳から解放された。どうやら本当に遠くまで来たらしい。
「……はぁ」
ドサッ。
土手沿いの人気の少ない河原を移動している途中、それまで鉛のように重かった身体がついに動かなくなった。走り疲れて、いや、とっくに体力の限界なんて来ていた。一滴の燃料も残されていなくて、動くことすら出来なくなったのだ。
泥臭い草の上に仰向けで倒れる。身体を起こしてうつ伏せになろうとしたが、ピクピクと動くだけで身体を起こすだけの体力が残っていなかった。しかし、それでも何かを見ようと必死に顔だけを横に向ける。
何も見たくないと思って眺めていた人の映らない景色だが、今は別の理由で人の映らない景色を眺めていたかった。いや、きっと目に映るものなら何でも良かった。これだけ身体が疲れ果てていても、目を閉じたくなかった。
だって、そうだろう。目を閉じてしまえば、嫌でも見てしまう。瞼の裏で、サラの顔が見えてしまうのだ。
サラだけじゃない。目を閉じたら、見えてしまう。目を閉じたら、思い浮かべてしまう。色々な何かを。今、考えたくないことを。
だから俺は、どんなに暗くても目を閉じない。身体がボロボロでも、何かを見続けなければいけなかった。瞼の裏に映るものを見てしまったら、正気ではいられなくなるから。きっと、もう立てなくなるから。
俺は、孤独じゃなかった。真に孤独になった今になって、そんなことを気付かされた。
サラの為にも、俺はこれから前に進まなければいけない。そういう心ばかりが後押しされる。決して立ち止まってはいけないんだ、サラの分まで前に進み続けなければいけないんだ、と。理屈ではなく、本能が。
しかし、思う。前って、どこだ。どこを目指して、前進しようとしているんだ。俺が歩む道は、どこにあるんだ。何もかも失って、翼を捥がれて、何が残っているというのだ。
わからない。わからないわからないわからない。
教えてくれよ、と心の中で叫ぶ。誰も答えない。深く答えを求めようとすると、瞼の裏側を見ることになる気がして。
初めて、人を殺した。
大切な人を、殺してしまった。
冥府への道の一歩を踏み出してしまったような気がする。もう後戻りできない地獄への門を開いてしまったような気がして。それでも、光を目指して前に進み続けないといけない使命感のようなものを感じていて。
何も考えたくない。思考を停止してしまえば、何も考えずに済む。身体全体に絡みつく何本もの触手のようなあらゆる感情から解放される。
川を、見続ける。
川の流れを、見続ける。瞬きすらもせず、ただ無心で。
泥臭い地面の香りを感じながら、川の流れを見続ける。
他には何も見ない。ただ、真っ直ぐに川の流れを見続ける。
いつの間にか、常に背後に感じていたゾンビの手に襲われるような恐怖は消えていた。それでいい。追手が来ることも、どうでもいい。俺の明日も、今はどうでもいい。
サラ、ごめん。
もう少しだけ、何も考えないでいい空っぽな時間を、俺にくれないか。
――――――――
「ねぇ、寂しいなら私と遊んでよ」
「……別に寂しくないし。幼稚園にいっぱい友達いるし」
「じゃあ、本当に仲いい友達の名前教えてよ。3秒以内ね」
「……」
「3……2……1……。ぶー、時間切れ。やっぱり友達いないじゃん」
「うざい。放っておけよ、なんで俺に構うんだよ」
「タケトが、最初に構ってきたんだよ?私今は友達多いけど、昔はひとりぼっちだったし」
「あれは……。なんだか、サラが寂しそうな色で溢れていたから」
「え?色?私って寂しそうな色出てるの?」
「……なんでもない」
「なにそれ。ほら、これ覚えてる?タケトと初めて遊んだ時のサッカーボール。次の日の休み時間、またタケトと遊ぼうと思ってサッカーボール持って外に出たらさ、なんか皆続々寄ってきて、一緒にサッカーやろうって。初めて話した男子とかも一緒になって。人と仲良くなるって、こんなに簡単なんだ、って」
「そんなことも、あったな」
「でも、沢山友達できて思ったの。私に友達の作り方を教えてくれた人に、お礼を言ってない。私に初めて声を掛けてくれた人と、友達になってない、って」
「サラがあまりにも独りぼっちで可哀想だったから声をかけただけだ。別に友達の作り方を教えたわけでも、ましてや友達になろうとなんて思っていない」
「本当の友達の作り方なんて知らないくせに、よく言うよね」
「……」
「怒った?」
「怒ってない」
「……やっぱり怒ってる?」
「怒ってない」
「辛いことがあるなら言ってよ。私なら力になるからさ」
「……言ったって、どうしようもないんだよ」
「じゃあ、なんで私には冷たい態度でいられるの?それって、私に助けを求めているからじゃないの?」
「……どういうことだよ」
「だって、タケト。皆には優しい。どうでもいい人に対しては、何故か不気味なくらいに親切に接する。それって、おかしいよ」
「サラにだって、多少は気を遣っているつもりだ」
「私は、タケトにとって特別じゃないの!?特別じゃないなら、優しくしてよ!思いっきり冷たくしてよ!わかんないじゃん!そうじゃないと……勘違いしちゃうよ……」
「……」
「……ごめん、忘れて。私、めんどくさい女の子だよね」
「……」
「……何か言ってよ」
「……そうだな」
「……」
「……時々、俺は神様ってやつを恨む。神様なんていない、そんなことを思ったりする」
「え?」
「結局、神様なんてのは人間が都合の良い解釈をするために創られた概念でしかない。大人、あるいは社会が俺達を縛るために創られた概念だ。皆、心のどこかで神様の存在を疑う。しかし完全には否定しない。己の都合の良いように物事を変換できる万能ツールを手放さない。神様のせいだ、神様のおかげだ、神様は自分の努力を見ていてくれた、神様からの天罰だ。そんな風に、真実を濁す。人間は、真っ直ぐに生きられない弱い生き物だから、そうやって神様という受け皿を用意してあげないと壊れてしまう。だから、遥か昔から神様は存在し続けている。――俺は神様なんて信じない。こんなにも苦しいのに、何度も神様に助けを求めたのに、一度たりとも助けてくれない。それどころか、俺に罰まで与えた。親と、目と。まるで、お前は苦しむために生まれて来たんだと言わんばかりに。絶望を味わい続けるためにお前の命はあるのだ、と言われているような。……俺さ、自殺しようとしたことがあるんだよ。家の台所にあった、使われていない錆び付いた包丁持ってさ。振り下ろす前に、一度だけ願った。もし神様がいるなら、俺の手を止めてくれ。そう強く願った。……やっぱり神様なんていないんだなぁ、って。俺、一度死にかけた。けど、神様は俺の手を止めてくれなかったんだ」
「……でも、生きているじゃん。それって神様が助けてくれたからなんじゃないの?」
「ははっ、どうだろうな。少なくとも、あの時死んでみるのも一興だな、なんて思ったりはするよ。――俺はさ、やっぱり少しズレているんだ、って思う。価値観が、合わないんだよ。俺はこんなに苦しいんだから、お前らもたまには苦しめよ、とか。すぐ弱音を吐く奴を、思いっきり殴りたくなったりもする。些細なことで一喜一憂できる奴らを見ていると、どこか暗い気持ちになる。時々人に不幸が訪れると、影でそれを喜んでいたりする。ははっ、ざまぁみろ、ってな。俺が愉快を感じる時は、いつだって他人が不幸になる時なんだよ。――な、俺ってつまらない人間だろ?最低な人間だろ?」
「……っ」
「何故泣く」
「……だって……だってぇ……」
「……悪かったよ」
「……っ」
「ったく、俺もどうかしているな……。こんなの、人に話すもんじゃないってのに」
「……じゃあ」
「ん?」
「――私が、タケトの神様になったげる!」
―――――――
今にして思えば、
あれは、随分出来の悪い、少女なりの告白だったらしい。
それに気付かなかったのは、咄嗟に目を反らしていたから。
サラを、正面から受け止めなかったから。
その時も、その後も。色を見るのが、怖かったから。目を、逸らしてしまったんだ。