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ねぇ、神様、いつか、きっと  作者: ジアルマ
第一章
3/13

初めて人を殺した日

「いらっしゃいませぇーっ!」


本日の工場での肩たたきを終えた後のほんのり重い俺の足を止めたのは、言葉通りの響きの中に、ほんの少しの重たさを含んだ歳帯びた男性の声だった。

声を辿ると、直ぐに後悔の念に襲われる。何度も経験していた、こういう時は目を逸らして見て見ぬふりをするのが最善だと。


開店したばかりの、外国の香辛料をふんだんに使用しているのをウリとした定食屋。オープン記念の外装の華やかさとは反対に、外でひたすら「いらっしゃいませぇーっ!」と、笑顔で、かつ明るい声で呼び込みをしているおじさんを映す視界の色は暗かった。時間帯的に、そろそろ客足が伸びても良さそうな時間だけに、店内のがらんどうとした光景は、中々見るに堪えないものがあった。店内で、いつ新規客が来ても綺麗な状態で迎え入れられるように不慣れな手つきで掃除をしているおばさんの姿もあった。一生懸命拭いているそのテーブルは、料理の油ではなく、埃だけで汚れていくかも知れないのに。

店主のおじさんの、客足が伸びないばかりか、誰一人として店内に客を迎え入れられていない事実から生まれる焦燥感。それは、道行く人が皆感じているようにも思えたし、だからこそ連鎖して客足が伸びないのだな、とも思えた。

売り上げが芳しくないことは明白であり、しかし、だからと仏心を差し出してやる気にもなれなかった。きっと、店内に入れば常に目を伏せていなければ、とても平常心でいられないと思うから。


店主のおじさんが、どういった経緯で店を開いたのかは分からない。異国の文化である刺激臭の強いエスニックな料理が当たると考えたのか、おじさんが料理が得意なのか。その辺りは定かではないが、結果として全く流行っていない。それでも、流行らないから明日から店をたたみましょう、なんて簡単に物事は運ばない。店を開いた時点で、既に、歯車は回り始めてしまったのだ。

回り始めてしまった歯車は、そう簡単には止まらない。より強大な力を持って停止させるか、歯車の一部として回り続けるか、自らを破壊して強引に停止させるか。さて、あのおじさんはどれを選択するのか。


「……なんて、人のこと言えないか」


俺も、家族という歯車に組み込まれて身動きとれないでいる状態にあるのか。





――「……ただいま」


今日もいつも通り帰宅する。口の中は、ほのかにレーズンと蒸しパンの食べカスがこびりついていて、どうにも甘ったるかった。

ただいまと言って、おかえりと返ってくることはない。それでも、俺は今日までただいまと言い続けた。きっと、心のどこかで、いつか聞けるかも知れないおかえりの声を期待していたのかも知れない。時々、そんなことを思う。俺は、未だにクソ両親に対して何か希望を抱いている気がする。いつか、普通の家族みたいに、笑い合って過ごせる日々が来るのかも知れないなんて。


玄関に入るなり充満する煙草の臭い。どうやらクソ両親は早めの帰宅らしい。日課のギャンブルはどうなったのだろうか。

自分の部屋に戻る前に、一応広間に顔を出す。別に顔を合わせたい訳じゃない。今日の肩たたき代をテーブルの上に置くためだけに。




「ああ、おかえりタケト」

「紅茶を淹れてあるの、一緒に飲まない?」


「……」


ゾク、と。

一瞬にして身体が固まった。


「おいおい、そんな怖がるこたぁないだろ」

「さ、紅茶が冷めちゃう。早く手を洗って来なさい」


「……あ……あ」


久々に両親と交わした言葉は、確かに俺が求めていた甘い家族の言葉だった。あくまで、表面上が柔らかいだけの、背筋が凍る程に冷たい言葉。

急に両親が不気味な程に優しくなったとか。最早そんなことはどうでもよかった。

そんなことが不気味と思えないほどに、別の事に恐怖を感じていた。


視界が、揺れていた。

色で言えば、赤が映っていた。

しかしその赤が、明るく映ったり、ドス黒く映ったり。赤という色が揺れていたのだ。

まるで血管の中に目を入れた様に。血の波に飲み込まれる様に。ドクン、ドクンと。鼓動と共に、視界が揺れていた。


「……その紅茶、母さんが飲んでみてよ」

「何言ってんの、タケトの為に用意したんだから。ほら、奮発して高い茶葉買っちゃった。今日は弾が良く出たからね」

「飲めないでしょ」

「そんなわけ……」

「睡眠薬、入ってるんでしょ」

「……」


ババアは繕った笑顔のまま固まっている。額に少し汗が浮き出ているようにも見える。

親父は終始無言を貫いているが、何かにイラついたのか、煙草に手を伸ばし始めた。

一瞬、時が凍ったような気がした。


「っ!」

「待ちなさいタケト!」


逃げ出した。

一刻も早く、ここから離れようとした。


全速力で階段を駆け下り、玄関へと向かう。

無我夢中だった。無我夢中になりながらも、少しだけ思う事があった。

やっぱり、俺に幸せな家庭なんて無いんだと。手が届かない場所にある上に、決して掴めない。まるで雲のような何かを求めて、俺は何を必死に頑張って来たんだと。

ほんの少し、涙が出そうになった。それでも涙は流れなかった。



「――わっ!?」


玄関の扉を開くと、何かに衝突した。

思い切り尻もちをつく。痛みを感じるより先に何に衝突したのか確認する。

顔を上げると、見覚えのない黒服の男が二人立っていた。体格もガッチリとしていて、おまけにサングラス。この町の住人でないことは明白だった。


「――ったく、手間取らせやがって!」


背中に強い衝撃。どうやら追いついた親父に蹴り飛ばされたらしい。


庭にひっぱり出されて、何度も蹴られた。石の角に頭を強打し、皮が切れる。何度となく流した血だが、予想より深く切ったのか、頭がグラグラと揺れていた。


「一応臓器は健康な状態で受取りたい。今後、このような暴行は控えてもらおうか」

「はいはい、わかりましたよっと」


黒服の男に咎められて、少しだけ親父が大人しくなる。

口の中に広がるほんのり鉄の香りがする血の味も、全身に感じる傷の痛みも、慣れたものだった。

ここで、ようやく理解した。俺は、どうやら売り飛ばされたらしい。

いくらかわからない。確かなのは、両親が俺をこの黒服の男達に撃った。たった一人の息子を、売り飛ばしたのだ。


時々、思う。もっと、普通の親の元で生まれたなら。こんな痛みも、血の味も、経験することは無かったのかな、と。血を舐めながら、時々、思う。


「……とう、さん」

「あん?」


ふらふらと立とうとするが、どうにも身体が重い。膝をついたまま、目の前に立っている親父に問う。

親父をバックに、オレンジ色の夕日が輝いていた。夕日は、美しかった。夕日を遮るようにして立っている親父は、醜かった。


「……どけ、よ」

「あん?」

「夕日が……見えないだろ……」

「てめぇ!」


再び蹴られた。

腹を蹴られて、食べたばかりの蒸しパンを思いっきり吐き出す。痛みより何より、悔しさばかりが募るのは、何故だろう。


黒服の一人が注射器片手に近付いて来る。俺は、いくらで売り飛ばされるのだろうか。出来ることなら、高額であることを願いたい。だって、そうじゃないとあまりに惨めじゃないか。

恐らく、注射を受けたら、意識を失うだろう。次に俺が目を覚ましている保証など、どこにもない。もしかしたら、寝ている間にバラバラにされているかも知れない。あるいは、脳を丸ごと取り替えられ、別の誰かとなっているかも知れない。もしくは、普通に目を覚ましているかも知れない。

ただ確かなのは、命を落とす可能性が高まっていること。

死が、迫っている。


「……」


こっそりと背中に手を回し、石を土から抜く。力任せに抜かず、周りの土をほぐしながら抜くことで、意外と簡単に引き抜くことが出来た。

自分でも驚くほどに冷静なのは、黒服を映した視界に色を感じないからだ。黒服自体が、明確な敵意を持っていないことを把握しているから、どこか冷静でいられた。

黒服は、何の躊躇いもなく機械的に俺の腕に注射器の針を通すだろう。俺が抵抗すれば拳銃でも出すかも知れないが、俺が大人しくいる間は、黒服もまた大人しいはずなのだ。

だから俺は、表情だけは抜け殻のように取り繕う。虚空を睨み、放心状態を思わせる表情を繕う。


その間に、考える。

どうすれば俺が助かるのか。


――答えは一つだった。


決して外に出さず、内側だけで覚悟を決めていた。

極限まで、心を冷やした。


「さて、タケト君。悪く思うなよ」


黒服が俺の腕を取る。

服の袖を捲り、注射器の針を近付ける。


今だ、と思った。




「……き、貴様……っ!」



ザクリ、と。


その感覚は、未知のものだった。

全身で、人の肉体を切り裂く感覚を味わっていた。

不思議な感覚の裏で、はっきりと、人体を刺す感覚を感じていた。


石を黒服の胸に突き刺した。自らの意志で、突き刺した。


適度に鋭利であり、適度に薄い。ナイフを思わせるその石は、易々と黒服の胸に刺さっていた。

そして、一気に右に90度捻る。心臓に空気を入れてやる。

黒服は呻き声をあげた後、白目を剥き、あっけなくその場に崩れ落ちた。

突き刺した石を黒服の身体から引き抜き、その石をもう1人の黒服の頭部に向かって投げる。

突き刺さるまではいかなかったが、黒服は頭を押さえ、その場で膝をつく。血が流れているのを見るに、それなりに重傷を負わせることは出来たのだろう。

その間に、傍に倒れている黒服の胸ポケットに手を突っ込む。お約束通り、そこには拳銃が突っ込まれていた。弾が何発仕込まれているのかわからないが、1発あれば充分だ。


「――死ね」


躊躇なく引き金を引く。

引き金を引いた瞬間、無意識に少し目を閉じた。再び目を見開いた先に映るのは、黒服の身体が崩れ落ちる瞬間だった。


黒服の頭部目がけて放ったのだが、どうやら心臓に被弾したらしい。10メートルという距離なのに、意外と狙った場所に当たらないものだ。

どちらにしろ黒服を撃ったことに変わりはなく、やがて庭には二人の男の亡骸が転がっていた。

不思議と、人を殺す事への抵抗は既に失われていた。案外、これが俺の天職なのかも知れない、なんてことを思った。


こんなものか。それが、素直な感想だった。


「……」


ぼんやりと、自分の右手を眺める。

血で塗られたその手は、なんだか、自分の右手じゃないように見えた。取り返しのつかないことをしたという事実を強く突き付けられた。




「あ、あ……」


声の方を振り向くと、クソ親父が玄関先で震えていた。股間が湿っているのを見るに、どうやら失禁したらしい。

普段の横柄な態度とは裏腹に、これは何ともみっともない姿なのだが、元々こういう人間だと知っていただけに大した落胆もなかった。


こう、なると思っていた。反逆の旗を掲げれば、その後の親父の姿なんてこんなものだろう、と。

なのに俺は、少しだけ、落胆していた。


「次はお前の番だ、クソ親父」


元々「父さん」と呼んでいたのは、単純に機嫌を損ねさせないようにする為だった。そんな自分を守る為だけの気遣いも不要となった今、クソ親父という呼び名が自然と口から漏れていた。


「……待ってくれ!すまなかった!これからはしっかり飯を食わせる!暴力も振るわない!ちゃんと家族として接するから!」

「つまりは今までは家族として接していなかった、ってことだ。――あばよ、クソ親父」


容赦なく銃の引き金を引く。少しだけ、ほんの少しだけ引き金を引く指が止まりかけた。が、それも一瞬だった。

どうやらこの銃はやたらに貫通力が高いらしい。銃弾は、クソ親父の頭をくっきりと貫通していた。


最後の最後まで、親父は親父だった。

愚かで、みっともなくて、カッコ悪くて。ほんの少しだけ、親父に希望を求めたのが馬鹿らしくなってくる程に。




「……そこで見てないでさ、出て来てよ母さん」

「ひっ!?」


2階の窓から覗いていたババアに銃口を向ける。しかし、ババアは窓際から姿を消しただけで、降りては来なかった。家に裏口があるわけでもない。つまり、ババアは沈黙を選択した。逃げるわけでもなく、俺と正面から向き合う訳でも無く。土壇場で、一番つまらない選択をした。


再び玄関から家に入り、隠れたババアを探す。といっても、怯えきったババアが隠れる場所なんて最初から限られていた。




「――見つけた」


2階にある物置部屋の押し入れを開けると、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたババアが縮こまって隠れていた。最悪のケースとして、押し入れの戸を開けた途端に包丁で刺されるかと予想していたが、どうやら何も持っていない。

思えば、ババアはこういう人間だった。臆病で、根暗で、その代わり弱い者にはとことん強気に出る人間。弱い人間を象徴するような母だった。


何故かババアは黙っていた。クソ親父と違って、そこに媚の意志は感じない。土下座の一つでも拝めるかと期待していたが、何を思っているのだろうか。


「おい、ババア。何とか言えよ」


銃口を向けるが、それでもババアは口を開かなかった。

視界に映る色は、青。これは、恐怖を表す色だった。

恐怖だけ。俺と真意に向き合う気持ちは欠片も存在しないことへの裏付けである気がして、妙に寂しさを感じた。


「っ!」

「おっと」


不意を突いて押し入れから駆け出そうとするババアの足を払う。ババアは顔面から激しく転倒し、畳の床で皮を擦り剥いていた。畳の上に、血が広がる。以前俺が流した血を塗り潰すように、新たな血で染まっていく。

耳を澄ませば、かすかにサイレンの音が聞こえた。


「なるほど、時間稼ぎか。……ダメだな、少しでも期待した俺が馬鹿だった」


手にしていた包丁をババアの胸に突き刺そうと振り下ろす。――が、直前で手が止まった。

刃物で人を刺すというのは、どうにも厄介だ。手が震えてしまう。その点銃は、意志と関係なく人を殺せてしまうから便利だ。刃物と銃は、人を殺す道具として見れば同じだが、決定的に違う部分が存在する。刃を振るう手には意志が存在するが、銃弾には意志が存在しないのだ。当然引き金を引く指にも意志が存在するのだが、意志の量が圧倒的に異なるのだ。


サイレンの音は明らかに近付いている。確実に、ここを目的地として接近している。先程からのババアの沈黙は、時間稼ぎと思えば納得がいく。つまり、ババアが呼んだのだ。

そろそろ俺も逃げなければいけない。折角今まで耐え続け紡いで来たこの命を、こんな所で枯らしたくはない。


「おねがい!ゆるし――」


言葉が終わる前に、銃弾はババアの脳天を貫通していた。


ババアの最後の言葉は、命乞い。とことん落胆させてくれる両親だな、と。ギリギリまで、期待した。温かい何かを求めて、俺は期待し続けていた。


「……ふぅ」


虚無を、感じていた。

言葉で言い表せない、空虚な何かを、噛みしめていた。


これで良かったのか、と。自分に問いかけてみる。

素直に、うん、とは言えない。それでいいんだと思う。言葉に出来なくて、当然なんだと思う。


12年間、この家で暮らした。12年間、耐え続けていた。

俺は、自由になった。自由になった、はずだ。

それなのに、何故。今になって、孤独を強く感じているのだろうか。






「――タ、ケト……?」

「――!?」



銃声が、部屋に鳴り響いた。



「……え」


右手に握られていた銃を見る。

人差し指は、不意にトリガーを引いていた。


目の前で、サラが倒れていた。



「サラっ!」

「……あはは。凄いタイミングで来ちゃったみたいだね」


完全に不意だった。不意の声に、気が動転していた。咄嗟に、振り返って声の主を撃ってしまった。


「サラっ!ごめん!」

「……けっこ―痛いんだね……。私……死んじゃうのかなぁ……」

「本当に撃つ気はなかったんだ!ただ不意に声を掛けられて……ビビっちゃって……、だから……その……」

「そんな事より……残されている時間を大事に使いたいな……」


全く言葉の纏まらない俺を、サラは軽く制す。

出血こそ止まらないが、幸い傷は浅い上に急所からは外れている。急いで病院に連れて行けば間に合うかも知れない。あるいは、丁度ここに向かってきている軍の連中に預ければ助かるかも知れない。


「待ってろ!今から助けが来る!必ず生かしてやる!」

「私のことなんて、いいんだよ……。そんなことしたら、タケトが軍に捕まっちゃうよ……」

「……こんな時に、俺の事なんてどうでもいいだろうがよ!」

「こんな時、だからだよ……。こんな時だから……、私の話を聞いてよ……」

「くっ……」


倒れているサラの隣で、豚の角煮が入っていた大きな鉄鍋が蓋を開いて転がっていた。どうやら、これを届ける途中、庭先での異変を見て家の中に入って来たらしい。

運が悪い、とは思わなかった。代わりに、誰が悪いのか思い知らされた。


「タケト……いつも元気ないからさ……。たまにはがしっとした物食べて……、元気出してと思って……。そしたら……庭で男の人が倒れていて……真っ先にタケトが心配になって……」

「……お前はいつもタケトタケトタケトって。……そんなに俺が大事かよ!」

「……今、ちょっと泣きそうになった。張り裂けそうなくらい痛いのに……今、初めて涙が出そうになった……」

「……悪い」

「……大事に、決まってるじゃん。……初めての友達で、……何年も幼馴染やって、……何年も好きだった人が……何年も好きになっていった人が……大事じゃないはず、ないじゃん……」

「……」


言葉に詰まる。

初めて、俺とサラが噛み合わない理由がわかった気がした。

サラは、俺の事が好きだった。俺は、好きという感情が、わからなかった。俺は、誰かに恋をしたことなんてなかった。傷付くのを恐れ、安い承認欲求しか、持ち合わせていなかった。


「……タケト、いつも辛そうだった。……誰にでも笑顔を振りまいて……誰の言う事でも聞いて……でも本当の笑顔は見せてくれなくて。……いつも、一人だった。……私が、隣にいたかった。……タケトは、一人なんかじゃないんだよ……って、伝えたかった」

「……今、伝わった」

「……ふふっ、遅いよ」

「……ごめん」

「……いーよ、別に。……あー、……そろそろ、眠くなってきた、かな」

「……」


さっきから、掛ける言葉が見つからない。ごめん、も微妙に違う気がする。ありがとう、も違う。楽しかった、も違う。

何もかもが、噛み合わない。真剣に人と向き合った事がない俺には、何もかもがわからない。


俺の寿命を削ってもいい。身体を交換してもいい、脳みそを差し出してもいい。

初めて、本気で人を助けたいと思った。責任感や、そういう雑念ではない。いつもの偽善な心ではない。

初めて、大切な人が出来た。大切な人だと気付いた。俺の隣に、かけがえのない人がいた。失ってから、初めて大切な人だと気付いた。


何もかもが、遅かった。


「……タケト。……最後に、一度でいいから……」

「……」

「……やっぱり、なんでもない」

「……そう、か」


今の言葉の裏にある真意だけは、何となくわかった気がした。

だから、してやろうと思った。唇を差し出そうとした。直前で、止めた。


「……ねぇ、タケト。……いつか、きっと……、幸せに、なって……ね……」

「……あぁ、任せとけ」

「……うん。……それじゃあ、タケト……」



――また明日。


その言葉を最後に、サラは口を開くことは無かった。


サラは、一度も涙を流さなかった。ずっと、笑顔のまま息絶えた。サラを映した俺の視界は、常に明るい桃色で輝いていた。


初めて、人を殺した。自分の手を血で濡らした恩恵と代償は、どのくらいのものだろう。



「……サラ、ごめん。また、明日」



咄嗟に浮かんだ言葉は、ごめん、だった。



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