番外編 ユーインとシルヴェスターの、夜のひととき
上流階級の紳士たちが集まる社交場──パブリック・ハウスにユーインは呼び出される。
ここは会員制の酒場で、誰でも入れるわけではない。
ユーインは今日、シルヴェスターに招待されたのだ。
入ってすぐ、地下へ繋がる階段が見えた。床には隙間なく赤い絨毯が敷かれていて、他とは違う特別な空間であることを主張しているかのようだった。
ユーインは一段一段、ゆっくりと階段を下りる。
扉の前に、ボーイが立っていた。
無言で紹介状を差し出せば、すぐに中を検める。中にあるものが本物であるとわかれば、ボーイは恭しく頭を下げた。
ユーインは気持ちばかりのチップを手渡し、中へと入る。
内部はカウンター席があるばかりで、あまり広い空間ではない。
マホガニーのテーブルに、黒革の椅子を、照明がほんのりと照らしていた。
店内は重厚感あり、落ち着いた雰囲気がある。
壁にはクリスタル製のグラスと、酒のボトルがズラリと並んでいた。
マスターは白髪頭に口髭を生やした、品のある紳士である。ユーインと目が合うと、にっこりと微笑んで「お待ちしておりました」と声をかけた。
シルヴェスターは、カウンター席の真ん中に座っていた。
ユーインを振り返り、にっこりと含みのある笑みを浮かべる。
何か嫌味の一つや二つ言われるのではないか。そんな微笑みだったのだ。
ユーインは小さなため息を一つ落とし、カウンター席に向かってシルヴェスターの隣に腰かけた。
マスターには、何か適当に見繕うように頼む。
いったい何の用事なのか。ユーインは眉間の皺を解しながら、シルヴェスターのほうを見た。
「一本どうだい?」
シルヴェスターが差し出したのは、葉巻の箱。
中には、未使用の六本の葉巻が収められている。
「いえ、私は──」
煙草は吸わない。そう言おうとしたが、シルヴェスターの表情の変化を見て気づく。
よくよく見たら、勧められたのは葉巻ではなかったのだ。
「これは……葉巻ではありませんね」
「正解」
ユーインは目を細める。
最近、貴族の間で怪しい薬物が流行っているのだ。
シルヴェスターがそんなものに手を出すとは思えないが、念のため質問した。
「なんですか、これは?」
「チョコレートだよ。よくできているだろう?」
その答えを聞き、ユーインは本日二度目のため息をつく。
今回に限っては、安堵から出たものであるが。
「こんなもの、どこで見つけたのですか?」
「エリザベスにもらったんだよ。昨日、サロン・デュ・ショコラに友達と行ったらしい」
サロン・デュ・ショコラとは、年に一度開催されるチョコレート・マーケットだ。
世界中から集められたチョコレートの、試食と販売を目的とした催しである。
「そんな催しがあったなんて、知りませんでした」
「女の子の祭典だからね」
なんのことかピンとこなくて、ユーインは首を傾げる。
「ユーイン、今日はバレンタインなんだよ」
「ああ……」
女性が意中の男性にチョコレートを捧げる日である。
「実はね、ユーイン。君がエリザベスにデートに誘われるかと思って、邪魔をするために今日、呼び出したんだ」
「そんなしようもない目的だったのですね」
「そうだよ。おかげで、エリザベスに頼まれて、君の分のチョコレートを運ぶ羽目になってしまった」
シルヴェスターはそう言って、先ほどユーインに勧めた葉巻型のチョコレートを差し出した。
「どうやら、私と君はまったく一緒のチョコレートを用意していたらしい」
「勝手に開封するのはどうかと思いますが」
「まともな神経をしていたら、こうして君をバレンタインの晩に飲みに誘わないよ」
「でしょうね」
ユーインの刺々しい返しに、シルヴェスターは笑みを深める。
「そうそう。エリザベス──彼女は、バレンタインにチョコレートを渡すことを、錬金術と言っていたよ」
「どういう意味ですか?」
「それはね、バレンタインの日にチョコレートを渡すと、チョコレートの値段以上の高価なお返しがもらえるってね」
「ああ、たしかに」
世の男性は女性からの甘い罠にかかり、一か月後にはチョコレートのお返しに贈り物を用意しなければならないのだ。
「まったく、大変な催し物だよ。贈り物を間違ったら、ご機嫌を損ねることになるからね」
「それは、まったくの同意ですが──まさか、そんな話をするために、ここに呼び出したのですか?」
「ユーインと話をしたい日もあるんだよ」
「あなたとは、特に話すこともありませんが」
「釣れないな」
ここで、マスターが酒の入ったグラスをユーインへと差し出す。
グラスの中でシュワシュワと発泡する琥珀色の液体は、ほんのりと甘い香りを放っている。
「ボランジェのスペシャル・キュヴェだね。君にぴったりだ」
さすがマスターと、シルヴェスターは絶賛する。
スペシャル・キュヴェは王室御用達のスパークリングワインで、上品な味わいで柑橘系を思わせる爽やかな風味が特徴だ。
「シルヴェスター、あなたは何を?」
「ジンだよ」
遠くに避けていたグラスを、ユーインに見せる。
それは独特で癖のある香りがあるが、見た目は美しいサファイアの名を冠する酒だった。
「マスターが選んでくれたんだ」
「そうでしたか。あなたにぴったりかと」
シルヴェスター・オブライエンという男の、見た目の美しさに騙されてはいけない。
中身は策士で、癖のある人物なのだ。
「色は、ユーイン、君の瞳の色にそっくりだけどね」
「そうですか?」
「ああ、そうだよ」
シルヴェスターはグラスを掲げて言った。
「ユーイン、乾杯しよう」
「嫌な予感がするので、止めておきます」
「残念。君の瞳に乾杯、と言おうとしたのに」
「しようもないことを言うのではと、思っていましたよ」
そんな話をしながら、男二人で酒を飲む。
マスターは優しい目で、シルヴェスターとユーインを見守っていた。




