衝突
ドサリと、エリザベスの背後で物音がした。振り返ると、ユーインが目を丸くして佇んでいる。
「あら、おかえりなさい。掃除に夢中で、気付きませんでしたわ」
「あ、あなたは、何を……?」
「何って、床掃除ですけれど」
エリザベスは台所床の油汚れをせっせとブラシで磨いていた。もちろん、立ったままではいけないので、四つん這いになる姿勢で。
その姿が、ユーインには衝撃的だったようだ。
「それは――いけません。あなたみたいな貴族女性が、そんな恰好で掃除をするなんて」
「別に構わなくてよ」
床が綺麗になったので立ち上がる。
額に浮かんだ汗は、エプロンで拭った。
その様子を見たユーインは眉間に深い皺を刻み、はあとため息をつく。
「やはり、あなたを雇ったことは失敗でした」
「あなたはまた、そんなことを言って」
エリザベスはユーインに仕える女中となった。代わりに、夜、文官になるための試験に合格するために勉強を教えてもらっている。
女中と試験勉強。エリザベスは二つの新しいことを同時に始めた。
掃除はアデラの指導を受けつつ行っている。なかなかの力仕事で、エリザベスの細腕ではすぐに疲れてしまう。だが、負けず嫌いなのでせっせと頑張る日々であった。
洗濯物は業者に頼み、食事はアデラが作っている。
いずれは、これらもこなせたらと思っていた。
一方、ユーインから教わる勉強時間は生き生きとしていた。彼はよき教師であったのだ。エリザベスはどんどん知識を吸収し、自らのものとしていく。
思っていた以上に充実した日々であった。
しかし、そう思っているのはエリザベスだけで、ユーインは働く様子を見て居心地悪そうにしている。
「部屋の掃除は、実家の女中を借りてさせますので」
「わたくしは、どうすればいいの?」
「あなたは伯爵夫人のもとに戻って――勉強は、夜、伯爵家に教えに行くようにしますので」
「叔母様の家にずっとお世話になるわけにはいかないと、説明しましたでしょう?」
「しかし、あなたが私の家の掃除をしているなんて、どうにも、落ち着かないのです」
「いずれ、慣れますわ」
「慣れるわけないでしょう」
エリザベスとユーインは同時にはあと、盛大なため息をつく。互いに、頑固な人だと苦言も漏らした。
「なんとでも言ってください。私はここの家の主人ですから」
「わかりましたわ」
エリザベスはエプロンを脱いで、ブラシをバケツの中へと戻す。
「やっと、わかっていただけましたか」
「ええ、とても」
エリザベスは紐を通して首から下げていたスペアキーを、ユーインの手のひらへ押し付けた。
「何を?」
「わたくし、一人暮らしができる家を探します」
「なっ!?」
家と家庭教師、仕事を探さなければならない。楽な生活ではないだろうが、エリザベスは夢を叶えるためになんでもしてやるという心積もりでいた。
ズンズンと廊下を進み、二階へ駆け上がる。
「待ってください!」
ユーインがあとを追いかけてくる。立ち止まって振り返るわけにはいかなかった。
「わたくしは、誰がなんと言おうと、夢を諦めないと決めましたの」
「あの、だから」
「あなたに反対されるのは、とても悲しいことですが」
仕方がない。
ユーインは対価を受け取らないと言うのだ。
文官になるために、エリザベスは庶民となる決意を固めていた。だから、掃除なんて大したことでもないのに、理解してもらえなかった。
エリザベスがこの家にいたら、ユーインは居心地が悪くなってしまう。
「ここを、出て行きます」
「待ってください」
「お聞きできません」
早足で進んでいたつもりであったが、足の長さの差なのか。すぐに追いつかれてしまった。
自室に逃げ込もうとしたが、ユーインも中へと入って来る。
「ここはわたくしの部屋です」
「私の家でもあります」
それを言われてしまうと、何も返せなくなる。
ここではユーインが主人で、エリザベスが仕える立場だった。上下関係ははっきりしている。
エリザベスは寝台の下に押し込んであった旅行鞄を取り出したが、すぐにユーインに取り上げられてしまった。
「どこに行くというのです」
「ユーイン・エインスワーズ。あなたに関係ありませんわ」
「あなたはまた、そうやって壁を作ろうとする」
エリザベスがユーインのことをフルネームで呼ぶときは、たいていそうであると言われてしまった。そのとおりなので、ぐうの音も出ない。
「若い女性が一人で働いて、身を立てるなど、どれだけ大変か、分かっていないのでしょうね」
「……」
「紹介状がなければ、貴族の邸宅では働けません。働けたとしても、下働きです。想像したことはありますか? 舞踏会があるような部屋の床磨きを。シーツやシャツが何十枚とある、洗濯物の山を」
ユーインの言う通りである。
現実を突きつけられたエリザベスは、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「くたくたに疲れて、夜も勉強どころではないでしょう」
「分かって、いますわ」
「分かっていません。だから、ここを出ると言えるのです」
悔しかった。
何も言い返せないことも、身を立てる術を持たないことも、誰も頼ることができない頑固な自らのことも。
「わたくしは……」
コクンと、吸い込んだ息を呑み込む。
瞼がじわじわと熱くなる。
涙が流れてしまわないよう瞳を瞬かせるが――眦から熱を持った感情が、ぽろりとあふれ出てきてしまった。
「エリザベス嬢……」
そっと、ユーインが手を伸ばしたが、エリザベスは一歩後ろに下がる。
堰を切ったように涙はあふれ出てきた。
「すみませんでした」
ユーインは消え入りそうな声で、謝罪する。
申し訳ないと思うのならば、出て行ってほしい。そう思ったが、泣きじゃくっているので言葉にできない。
ユーインはその場に佇み続けていたが、ポツリ、ポツリと話始めた。
「……ショックだったんです。あなたの、働いている姿が」
どういう意味なのか。顔を上げてユーインを見ると、雨の日に捨てられた子猫のような、困り果てている表情を浮かべていた。
「エリザベス嬢のことを、誰よりも気高く、貴族然としている女性として見ていました。いずれ、たくさんの人が集まり、光の当たる中で暮らす人になるだろうとも」
しかし、それは偽りの立場の上に立った、身代わりの公爵令嬢であるエリザベスの姿であった。
今、ここにいるエリザベスの将来は、決して光ばかり当たる場所に行けるとは限らない。
いばらの道を進もうとしていた。
「文官になる夢だって、あなたほど魅力のある女性ならば、支援者の手を借りることもできるだろうと」
「わ、わたくしに、誰かの、愛人になれって、ことですの?」
「いえ、違います。そのようなことは、決して」
そういった支援は、愛人契約だけで成り立っているわけではない。
才能ある若者の手助けをするために、見返りを求めずに支援をする者だっているのだ。ユーインは早口で説明をする。
「わたくしは、知らない誰かの手なんて、借りたくありませんわ。夢を応援してくれるあなただからこそ――甘えたかった」
ここで、今まで掴めていなかった感情の意味に気付く。
エリザベスは、ユーインに甘えていたのだ。
恥ずかしくなって、余計に泣けてくる。
そんなエリザベスの手を引いたユーインは、そっと優しく抱きしめた。