凍える夜に
だんだんと、角灯の火が小さく、弱くなっていく。
あれからどれだけの時間が経ったのか、わからなかった。
外はすでに暗くなっている。
陽が沈み、気温も急激に下がる。
窓の隙間から聞こえるヒュウヒュウという音が、寒気を加速させていた。
身を縮め、寒さに耐える。
寝返りの打てない体は辛く、縛られた手足は痺れて感覚がない。
額の傷も、ズキズキからズンズンという痛みに変わっていった。
ぬるりと、血のようなものが傷口から滴っている。
エリザベスは目を閉じて、歯を食いしばる。
今は、そういう風に耐えるしかできない。
陽の光をこれほど望んだことはあっただろうかと、自身の人生を振り返る。
父親の言っていたとおり、太陽の光は素晴らしいものなのだ。
陽の光の下では、本が読めないと今まで嫌っていたけれど、今はひたすら照らして欲しいと願った。
ズキンと激しい痛みを額に感じ、はあと息を吐く。
白い息がふわりと宙を漂い、すぐに消えていった。
だんだんと、息苦しくなってくる。
奥歯を噛みしめ、なんとか耐えようとしたが、我慢できる痛みではなかった。
生理的な涙が眦に浮かび、頬を伝っていく。
それが悔しくて、ボロボロと涙がこぼれていった。
時間が経てば、額の傷以外も痛みだす。
馬車が転倒した時に、体をあちらこちら打っていたのだ。
空気が薄くなっていくように感じて、息遣いが荒くなる。
一生懸命息を吸い込むが、どんなに頑張っても、苦しかった。
エリザベス・オブライエン、恐ろしい女だと思った。
普通、愛のためだけに、ここまでできない。
考えごとをして、気を紛らわせていたが、限界であった。
痛みに耐えきれず、可能な限り体を折り曲げる。
依然として、空気も薄い。
視界も霞んできた。
角灯の火も消えかけていた。蝋燭の先端に、僅かな火が残るばかりである。
もう、楽になりたい。
エリザベスは、あまりにも辛い状況に悲観していた。
昼まで耐えきれるわけがないと。
遠くから激しい物音が聞こえる。
家具のような重い物が倒れる振動が床に響き、男の怒声も聞こえた。
女性の悲鳴も聞こえる。
カツカツと、複数の何かが走ってくる音が聞こえ、エリザベスのいた部屋の扉が開かれた。
ドンという大きな音と共に入ってきたのは――とても大きな獣。
エリザベスをすんすんを嗅ぎ、頬をペロリと舐めた。
予想外のできごとに、体が硬直する。
わふ、という低い鳴き声を聞いて、近くにいるのは大型犬だと判断した。
続けて、ペロペロと舐められる。くすぐったくて、笑いをこらえるために顔をしかめた。
犬は実家にもいたので、慣れていたが、得意なわけではない。声を上げようか迷っていれば、焦ったような声があとから聞こえる。
「――ウィル!! 何をしているのですか!?」
今まで聞いたこともない、焦ったような声が聞こえる。
駆け寄って犬を追い払い、目の前に膝を突いていた。
その人はいつも落ち着いていて、エリザベスの反抗的な態度にも冷静に返す人だった。
微かに瞼を開いたが、視界がぼやけていて、茶色の髪と青い目しか判別できない。
けれど、様子からユーインであるということはわかっていた。
今、どれだけ情けない顔をしているか確認をしたかったのに、まったく見えない。エリザベスは残念に思う。
「……こんなところで、会うなんて、奇遇、ね」
「何を言っているのですか。あなたは、もう……。ですが、良かったです、無事で」
「……ええ、平気なの、ぜんぜん、痛くないし、寒くもない」
「こんな時まで、意地を張って……」
ユーインは上着を脱ぎ、エリザベスの肩にかける。
「ね、ねえ……」
「何か?」
「会議、大丈夫?」
「大丈夫ではありません。処罰を受けます」
「それは、大変ね」
「ええ。なので、帰ったらきちんと責任を取ってくださいね」
「……わたくしに、できることなら」
その後、ゲホゲホを咳き込むエリザベス。
「すみません、余計な話をしました。すぐに帰りましょう」
「……」
ユーインは一言断り、両手足の拘束を解くと、エリザベスの体を横抱きにして持ち上げる。動かされたことにより、傷口が疼いた。
「――んっ!」
「今すぐ、医者の元へ連れて行きますので」
ユーインが踵を返した刹那、走ってやってきた誰かが部屋に飛び込んでくる。
「その子は連れて行かないで!!」
「あなたは――」
突然現れた、エリザベスと同じ顔を持つ女性に驚きを見せるユーイン。
エリザベス・オブライエンは、抱き上げたエリザベス・マギニスを指差して叫んだ。
「その子は、お兄様を誘惑する悪魔なのよ!!」
「何を、言っているのですか?」
「そこに置いて帰りなさい。でないと――」
「……リズ、止めるんだ」
部屋の入口から聞こえた声に、エリザベスは喜びの表情を浮かべながら振り返る。
「お兄様っ――きゃあ!!」
シルヴェスターは銃口をエリザベス(リズ)に向けながら、冷たい声で話しかける。
「リズ、好きなほうを選ばせてあげよう。一つは、一緒に帰って父上に怒られるか、二つ目は、軍の事情聴取を終えてから、父上に怒られるか」
「な、何をおっしゃっているの?」
「私も、同じことを聞きたい」
「そんなの、どちらも嫌に決まっているでしょう!?」
シルヴェスターは埒が明かないと思い、ちらりとユーインに目配せをする。
コクリと頷き、ユーインは叫んだ。
「ウィル!」
背後で大人しくしていた犬ウィルに、エリザベスに向かって吠えるよう指示をだす。
「な、なんなの!? あっちに行って!」
その場にしゃがみ込み、耳を塞ぐエリザベス。
「ユーイン、ここは任せて、彼女を病院へ」
「わかりました」
ユーインはエリザベスを抱き上げたまま、建物から脱出を図った。
◇◇◇
瞼を開けば、白い天井が見える。
実家の寝室でも、叔母に借りていた部屋でも、公爵家の贅が尽くされた部屋でもない。
ここはどこなのか。そう思って起き上がろうとしたが、体に力が入らない。
額や体の痛みは引いていたが、ひどい倦怠感を覚えていた。
自由にならない状態であったが、頭ははっきりしていて、疑問がどんどん浮かんでくる。
今日はいつ?
ユーインは?
エリザベス・オブライエンはどうなったの?
わからないことだらけであった。
ふいに、トントンと戸が叩かれる。
返事をする前に、扉は開かれた。
「――それで、エリザベスは大丈夫なの!?」
「はい、今は昏睡状態にありますが、命に別状はないと」
聞き覚えのない女性の声と、もう片方は叔母、セリーヌの声だった。
びっくりして、一瞬寝たふりをしてしまおうかと思ってしまう。
けれど、早足で枕元へとやってきた叔母は明らかに取り乱しており、声をかけて安心をさせることにした。
「セリーヌ叔母様」
「ああ、エリザベス!」
美しい叔母の顔は、涙に濡れていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝罪の理由を述べることはなかったが、察することはできた。
いまだ、双子の姉妹がいたことや、本当の母親がセリーヌであることは信じられない。
思い返せば、エリザベスに対するセリーヌの態度は特別厳しかった。
他の侍女より、明らかに指導に力が入っていたのだ。
けれど、その教えも、身代わりをするにおいて、大変助けてもらった。今は感謝しかしていない。
まだ、気持ちの整理がついておらず、許すことはできなかったが、差しだされた手をそっと握る。
そして一言、「わたくしは大丈夫」と声をかけたのだった。
◇◇◇
エリザベスが運び込まれたのは、王都の病院だった。
ユーインが手続きなどをしてくれたのだと、看護師より話を聞く。
二週間ほどで退院できるようで、それまで大人しくしていなければならない。
朝食と共に運ばれた新聞を読みながら、憂鬱になる。
エリザベス・オブライエンの起こした誘拐暴行事件は世間に明るみにされた。
幸いなことに、被害者であるエリザベスについては何も書かれていない。
あのあと、エリザベスは重要参考人として三日間に及ぶ事情聴取を受け、現在も投獄されたままでいる。
来週より裁判が始まる予定だった。
「恐らく、禁固三年以上くらいになるかと」
「そう」
エリザベスは一週間ぶりにシルヴェスターに会った。
エリザベス・オブライエンの近況を知り、なんとも言えない気持ちになる。
怪我はすっかりよくなっていたが、寝台からでることのできない生活が続いていた。
「それよりも、わたくし、実家に帰りたいのですけれど」
「その体では無理だよ」
「もう元気です。周囲が過保護なだけで」
「そんなことはない。まだ、ゆっくり休んでいてほしい」
至極真面目に懇願され、エリザベスは何も言えなくなる。
「今回の件は、本当にすまなかったと」
「ひどい目に遭いましたわ」
「謝っても謝りきれないとは、こういうことを言うのだろうね」
もっと早い段階でエリザベスを連れて帰っていれば、こういうことにはならなかったかもしれない。
シルヴェスターは、頭を下げて謝罪を続ける。
「終わったことを悔いても、仕方がありません」
「そうだね」
合わせる顔がないので、二度とエリザベスの目の前に顔をだすべきではないと思っていたと告げるシルヴェスター。
「けれど、ユーインに叱られてしまってね」
今回の事件の謝罪と、説明はきちんとすべきだと、忠告されたと言う。
シルヴェスターは妹とのできごとについて、静かに語り始めた。




