閑話 ある貴族令嬢の独白(後)
もちろん、エリカ嬢の言っていることは嘘や虚栄からのもの。
その場にいる誰もが……いえ、メイリンお姉様とフーリ以外はそう思ったでしょう。
ですが、すぐに思い直しました。
そもそも、これから舞台稽古を行うのですから、それが本当なのか嘘なのかはすぐに分かってしまうことなのです。
それなのにあえて自分の評価を下げる嘘をつく必要などないのですから。
ただ、たとえ本当に台本を覚えているにしても、自分の台詞だけで、またどのような役柄で演じるか、といういわゆる《役を作る》という作業についてはまだ出来ていないでしょう。 それでも大したものですが、そうであるならやはり、台本を手放すべきではなかったと思いました。
何度も稽古をする中で、台本の中に周囲からの指摘や、自分で考えたこと、他の演者の解釈などを書き込み、何度も試行錯誤をするなかで演劇というのは出来ていくものなのですから。
けれど、エリカ嬢はまだ、演劇の素人。
そういうことを分かっていないことは別におかしなことではありません。
ですから、そういったことを教えるべく、演劇クラブの部員が彼女に近づいて伝えようとしたのですが、
「……エリカお姉様。本当に台本がなくても大丈夫なのですね?」
メイリンお姉様がそう尋ねると、エリカ嬢は頷いて、
「……ええ。そうだけど……どうも、何かまずかったようね。わたくしも台本を……」
と気付いたように台本を取りに行こうとしたのですが、メイリンお姉様は首を横に振ってエリカ嬢を止めました。
「いいえ。お姉様が大丈夫だとおっしゃるのでしたら、あえて周りに合わせる必要などありません。それに、後で必要だと思ったらそのときに台本を持たれればいいのです。ですが他の部員が台本を持つことはお許しいただけますか?」
「それは勿論。申し訳ないわ、メイリン。わたくしがおかしな行動をしたせいで……特にこのクラブの秩序を乱すつもりはないのよ」
「分かっております。エリカお姉様は、今回初めて演劇の舞台に立たれるのですもの。部員の皆も、初めてのときはおかしな行動ばかりしていたわよね? 私もヒロイン役のお姉様を置いて、脇役にスポットライトを当ててしまって失敗したことがあったわ!」
冗談めかして部員に言ったメイリンお姉様に、周囲もころころと笑いました。
少しおかしな緊張感に満ちた舞台上の空気が、それで霧散しました。
それを確認したメイリンお姉様は、
「……そう、初めての舞台なんて、そんなもの。ですから、今日はエリカお姉様が思うようにやってみてもらってもいいかしら? それで最後に皆なりのアドバイスをしてあげるのが一番効率的だと思うの。どう?」
その提案には確かに、と思わせるところがあり、それに皆が頷き、演劇クラブは再度、動きを取り戻しました。
ただ、これでエリカ嬢にとっては逆に緊張を招くような状態になったかもしれません。
周りは、エリカ嬢に間違いや失敗があればそれを後で指摘しようと、まるで監視状態のようになってしまったのですから。
もちろん、それは悪意からではなく善意からのものですが……それでも初めての舞台でそのような状態になるのは……針のむしろのようなもの。
ですからきっと萎縮されるはず……そう思ったのですが、意外なことに、エリカ嬢は全くそんな気配などなく、まるでそういう風に見られることが日常茶飯事であるかのように堂々と、先ほどとまるで変わらない様子でいらっしゃいました。
皆がそれぞれの立ち位置に着き、そして、メイリンお姉様が、
「では、始めましょう」
そう言って演劇が始まり……そして、私は……いえ、私たちは、自分たちがどれほど間違った感覚をエリカ嬢に……エリカお姉様に抱いていたかを知ったのです。
『……たとえこの国が神からの祝福を受けようとも、英雄が百人生まれ出でようとも、賢君が世界で最も富ませようとも……わたくしの今際の際の恨みは、呪いは、悪夢は、全てを闇の底へと流し去り、草木一本生えない地獄を地上へと招くことでしょう』
一言目、幽鬼令嬢が処刑された瞬間から始まる物語の、今際の際の言葉。
それを舞台の中心でエリカお姉様の口が紡いだ瞬間、舞台の……いえ、この部屋の空気は変わりました。
酷く寒いような、冷たいような……痛いほどの苦しみと切なさ、そして……迫り来るような恐れが、観劇しているわたくしたちの足下から上り来るような、そんな一言目でした。
台本を覚えている、と言うのが本当だとこの時点で分かったのですが、そんなことはどうでも良くなって……。
そこからは、ずっとエリカお姉様に引き込まれていました。
役柄は、すでに完成していたように思います。
周囲の方々に合わせるまでもなく、周囲の方々がエリカお姉様の幽鬼令嬢に合わせる。
いえ、引き込まれてしまって、本当にそこに幽鬼令嬢がいると感じておられるように、自らの役を演じました。
最後まで見終わった後……私はもはや、一切、エリカお姉様がその役柄を演じることに文句はなくなっていました。
それどころか、稽古でこれほどのものなのですから、本番になったらどうなってしまうのか。
そう思って、公演当日を楽しみに待つことにしたのです。
稽古を重ねるにつれ、あれほど初日に完璧かと思ったエリカお姉様の演技は洗練されていきました。
あのような飛び抜けた演技に、誰が指導出来るのかと思いましたが、それはこの国で一番の演出家サルーカの登場で変わりました。
サルーカは美しくも若き女性で、本当にこの方がこの国一番の演出家なのかと訝りましたが、実際にエリカお姉様に彼女が指導していくと、指先まで神経が通っていくかのように変わっていくのです。
最後には本当にそこに幽鬼令嬢が存在するかのようにまでなり、私たち見学者は、怯えてしまったほどで……。
◆◇◆◇◆
そして、公演当日を迎えました。
周囲には沢山の貴族や平民たちが、今日行われる公演を楽しみに席に腰掛けています。
もちろん、貴族の座席と平民たちのそれとは概ね別れていますが、この公演の木札は極めて貴重なもので、どうしても貴族用の座席をとれなかった貴族が、平民のそれを譲って貰って座っていることもあるほどです。
それだけ人気の公演で……。
ただ、そんな彼らでも、今日の公演に対する期待は、そこそこ上手な貴族令嬢が、美しく着飾って演技する、くらいのものでしょう。
しかし、今日の公演はそんなものではない、と知っている私たち、学園の貴族令嬢たちは、始まる数分前から息も出来ないほどの興奮と緊張に身を浸していました。
『……それでは開演です。貴族の方も、平民の方も、本日はその別なく、夢の世界へと浸れますよう……』
魔道拡声器からそんなアナウンスがなされ、座席側が暗くなりました。
そして、舞台の中心にスポットライトが当たりました。
そこには、エリカお姉様が……いえ、幽鬼令嬢が、死と闇を纏って、静かに立っていました。
◆◇◆◇◆
公演が終わったとき、まともに口をきけた者は一人たりともいませんでした。
千数百人もの人々が、完全に無音で絶句している。
それが、この公演に対する評価を雄弁に語っていました。
そして数十秒が過ぎた頃。
「……ブ、ブラーヴァ! ブラーヴァ!!!」
と誰か一人が口火を切ると、観客全員が立ち上がり、賞賛の声と拍手を送り始めたのです。
その中には当然私もいて……。
あぁ、なんて素晴らしいものが見れたのだと。
しかも、本当は一度しか見ることが出来ないものを、何度となく浸れた幸運に、私は神に深く感謝したのでした。




