第25話 油断
そんな生活をしばらく続けた。
正直なところ、とても歯がゆかった。
アリスに対してそんな態度でいなければならないと言うことも。
この国の未来が、暗澹たるものに包まれていくのを眺めていることも。
でも、そんな僕を慰めてくれるのは、常にアリスだった。
彼女は僕の太陽だったが、このエフェス子爵家で働く者全てにとってそうだった。
いや、うちの母や、その他の親族にとっても、ね。
僕の態度を何度彼らに文句を言われたことか。
母の怒ることなど、毎回ここにやってくる度だった。
いわく、あんなに素敵なお嬢さんを嫁にしておいて、大切にしないとは何事か、とね。
これは……まぁ、母も分かっていたのだろう。
僕が心底アリスのことを愛していたことくらい。
でなければ、いくら母とは言え、貴族の総領に対してそんなことなど言わない。
貴族の夫婦関係など、冷え切っていても普通だからね。
だが、僕がアリスに真の愛情を持っていたから、それならば何故、という気持ちが強かったんだ。
だからこそ、言わずにはいられなかった。
僕の両親も、珍しく恋愛結婚だったようだからね。
そんな二人を小さな頃から見てきたが為に、僕もそういうものに憧れを持って、独身貴族を貫く羽目になってしまっていたわけだが。
だから余計に、やっと来てくれた嫁であるアリスが可愛くて仕方が無かったのだろう。
◆◇◆◇◆
「……お義母さまはわたくしに大変良くしてくださったわ。それに、この家の使用人たちも、皆。ジュリアン、貴方もはじめの頃は冷徹に見えるように必死だったようだけど……ふふ。すぐに演技だって分かってしまったわ」
アリスがジュリアンに温かい視線を向けながらそう言う。
ジュリアンは首を横に振り、
「そうだろうね……。君の僕に対する態度は……自分に興味がない貴族の夫に対するもの、っというよりは、聞き分けのない弟に対するものに近かった。実際、そのようなものだったし……」
そう言った。
わたくしはジュリアンに尋ねる。
「アリスが亡くなるまで、ずっとその態度を崩されなかったのかしら?」
これはそうであれば許さない、などという意味ではない。
そうではなく、アリスに対してそういう意地の張り方をし続けるのが非常に難しいことを親友として知っているがゆえの、純粋な疑問だった。
これにもジュリアンは首を横に振り、
「言うまでもなくすぐに崩れたよ。そう……一月くらいでね。元々、屋敷の中や人目につかないところであれば、別に仲良くしていても良かったんだ。でもそれをしなかったのは……僕はそういう腹芸がそこまで得意ではないという自覚があってね。そのせいで辛い思いをさせた……」
「辛い思いなど。むしろ、わたくしは嬉しかったわ。貴方の愛情を、感じられたから」
「そうかい? なら良かったが……」
この二人は死んでも想いが通じ合っているらしい。
微笑ましく思うと同時に、自分のことを考えるに全くそういうものに縁なく死を迎えたことが悔やまれる。
今更、殿下にわたくしを愛してくれ、でもないというのはもちろん分かっているし、彼とわたくしを繋ぐものは、恨みと憎しみ以外存在しないが。
「ともあれ、そういうわけだったから……まぁ、人前でないときの僕とアリスの仲は急速に深まったよ。アリスの懐が大きかったから、今までのことも分かってくれて……その結果として、子供も出来てね。フィラスが生まれた。そのときに幸せと言ったらなかったよ……でも」
ーーそんな幸せは簡単に奪われたんだ。
◆◇◆◇◆
多分、あの頃、僕は油断していた。
エリカ、君が処刑されてからもう一年と少し経過していたからね。
流石にそれだけの期間、放置されていたんだ。
今更、アリスをどうこうするということはないのではないか……。
心の片隅でそんなことを考えていた。
隙があった。
僕の家……エフェス子爵家は、これでもそれなりの家だ。
爵位はそれなりだが、経済力で言えば結構なもの。
いかに王族とはいえ、下手な手出しをすれば、火傷では済まない傷を負わせることが出来る。
それくらいの力はある。
にもかかわらずこれまでそれを行使してこなかったのは、やはりどれだけ抗おうとも最終的には僕が負けるからだ。
形振り構わずにお互い戦えば、こちらは一貴族に過ぎないが、向こうは王族。
勝敗など日を見るより明らかなのは言うまでもない。
ただ、均衡を保つことが、家族を、家を守る最も良い方法だった。
そうだと思っていたのに……。
あの日、僕は所用で家を出ていた。
いくらほんの数時間のことだった。
それくらいの時間家を空けたところで、家には使用人たちがいるし、当然、腕の立つ護衛たちだっている。
何の問題もないはずだった。
それなのに、家に帰った僕が見たのは、アリスの、事切れた姿だった。
かなり殴打されたらしく、顔は腫れ上がり、それだけしながら正確に命を奪う為なのだろう。
短剣が注意深く心臓を狙って差し込まれていた。
血が……アリスの背中から流れていて、僕はなるほど、血の海というのはまさにこのような状況を指して思いついた表現に違いない、と場違いなことを考えていた。
そんなことを考えなければ、僕は発狂しそうだった。
今にもあの女のところに行って、直接殺しにいかねないほどに僕の心は千々に千切れそうだった。
けれどね。
僕の耳に聞こえてきたんだ。
誰かの泣き声が。
それは、部屋の片隅にある、衣装箪笥の中からのものだったよ。
僕はふらふらとした足取りで、そちらに向かった。
まさか、と思った。
これだけの惨劇の中で、まさか、と。
しかし確かにその鳴き声は聞こえてくるんだ。
そして、僕はその箪笥を開いた。
するとそこには、僕とアリスの愛の結晶……フィラスが、元気そうに泣いていた。
傷は、一つたりとも存在しなかった。
彼は生きていたんだ。
襲撃者の手を逃れて、こんな狭い場所に隠れて。
きっと泣くのも我慢しながら……。
こんなに小さな子が……。
誰が彼を隠してくれたのか、考えるまでもなかった。
アリスだ。
それ以外に考えられない。
そして酷い殴打の後は……フィラスの場所を吐かせるため、アリスに暴力を振るったのだろうと思った。
それでも彼女は言わなかった……。
そういうことなのだろうと。




