第20話 死者の持てないもの
少しばかり病んだ微笑みを浮かべながら、破滅的なことを呟くジュリアンに、あぁ、わたくしも周りから見ればこのように見えるのかもしれない、と思う。
大切なもののほとんどを失った人間にとって、この世界のことなど、本当にどうでもいいのだ。
ただ、ジュリアンにはまだ家族と、そしてアリスとの間に出来た子どもが残されている。
だから彼の心は、決定的には壊れてはいない。
けれどわたくしは……。
……いや。
わたくしにも、残されているものはあるだろう。
不死者としてではあるが、アリスは戻ってきたのだし、こんなわたくしに力を貸してくれるという《夜の城》に棲まう魔物たちがいるのだから。
だから、人にかけるべき優しさも、まだ、この胸には残っているはずだ……。
そんなことを思いながら、わたくしはジュリアンに言う。
「エフェス子爵。貴方様の気持ちは理解しました」
本当に分かったのだろうか。
今のわたくしに分かることは、憎しみばかりではないのだろうか。
でも、アリスのことは今でも大切だし、その彼女の家族のことは理解したいとは思っている。
ジュリアンは言う。
「では、僕の命の代わりに、僕の家族は助けてくれるかい?」
つまりは、先ほどの彼の台詞は、そういうことだったのだろう。
自分はどうなっても構わないから、その代わりに家族の命は助けてくれと。
やはり、彼は生者なのだ。
何が大切で、何を優先すべきか。
壊れかけた心の中でも、しっかり理解できている。
わたくしなどとは違って。
そんな彼に対し、わたくしは首を横に振って、
「いえ……」
そう言うと、彼は諦めたような表情で、頷きながら言った。
「あぁ、やはり全てを滅ぼさなければ気が済まないか。まぁ、それもまた道理だろう。この国のすべてを、憎む権利が君にはある……」
しかし、わたくしはこのジュリアンの台詞にも首を横に振る。
「そうではありません。わたくしは……別に貴方様の命を奪おうとは思っていないということです」
そう。
別にそんなつもりなどない。
先ほどわたくしがジュリアンにかけた言葉は、ただ、彼にわたくしがどういう覚悟を持って戻ってきたのか、何を為そうとしているのか、それを理解してもらいたかっただけ。
わたくしの前に、立ちはだからないでほしいだけ。
「……そうなのかい?」
「当然です。貴方様は……わたくしの親友を大切に扱ってくれた方。それに貴方様の子どもはアリスの子どもでもあるのです。それをどうにかするなど……そんなつもりはありません」
死してもなお、大切にしたいものがある。
わたくしにとってそれは、アリス、アデライード、そして彼女たちを大切にしてくれた者たち。
それだけ。
だから、縋ろう。
奪わずに、そこに置いておこう。
そうすればきっとわたくしは、狂いながらも、狂わずに入られると思うから。
そんな思いが伝わったわけではないだろうが、ジュリアンはほっとした様子で頷いて言う。
「そう、か……そう言ってくれると、何かここ二年が報われた気がするよ。この二年、僕の日々はただ、子どものためだけにあったのだから」
こんな、使用人もいない屋敷の中で静かに佇みつつ、徐々に仄暗い狂気に取り憑かれつつあった彼を繋いだもの。
彼とアリスの子ども。
そこには未来がある。
わたくしから永遠に奪われたもの。
夢見ることも出来ないもの。
終わっていくしか道のないわたくしにとってはそれは酷く眩しく、憧れすら感じる。
だからこそ、ジュリアンには諦めて欲しくなかった。
だから、わたくしは彼に言う。
「ええ。どうぞこれからも、そのように」
「あぁ……そうしよう」
ジュリアンのしっかりとした頷きに、わたくしも心のどこかで、ほっとしたものを感じた。
死した身でもまだ、そのような思いは抱けるのだ。
そのことにもまた、わたくしは少しほっとする。
人ではなくなったけれど、人としての名残がまだこの身にはある。
それが完全な狂気からわたくしを少しだけ、遠ざけてくれる。
それでもすぐにそれは近づいてきて、わたくしの身を焦がすのだけれど。
ジュリアンはわたくしの身を焼く炎、その原因に触れる。
「しかし……君はやはりこれから、あのノドカに、そしてミューレンに、復讐を為すのだろう?」
復讐の炎。
それこそが、今のわたくしをこの世につなぎ止めるただ一つの楔。
それがなくなれば、もはやどこにも行けなくなる目標。
だからわたくしは頷く。
「勿論のことです。もしもそれを止めようとなさるのであれば、わたくしはたとえ親友の夫であろうとも、容赦するつもりはありません……」
だから止めないでくれと願った。
けれど、そんなわたくしにジュリアンは意外なことを言う。
「いや、そんなつもりはない。むしろ応援するよ。君は先ほど、自らをこの国の害になると言ったが、今、現在進行形でそうなっているのがまさに彼らだ。彼らに復讐するのは……むしろこの国にとっては福音となる。勿論、国自体をその後滅ぼしたいというのであればそのとき、君はこの国の害にはなるだろうが……まぁ、どこまでのことをするにしても、僕は構わない。何か協力できることがあるのなら、する。それだけだよ」
「……あの人たちは、そこまで。あの……」
「ん? 何かな」
「やはり、アリスは……彼女の命は、あの女たちによって、奪われた、のですよね?」
「その通りだ。世間一般では、どうも僕のせいだという話になっているようだが……ノドカたちが流した噂に過ぎない。といっても僕も僕で積極的には否定していないのだが」
「それはまた、どうして?」
不思議だった。
アリスを確かに愛する彼が、そのことを否定する言説の流布を止めないなど、とてもあり得そうなことには思えない。
そんなわたくしの疑問にジュリアンは答える。
「僕は、あの女の、そして周りの者たちの残酷さを知っているからさ。あの女は、エリカ嬢。君の周りのものすべてを排除しなければ気が済まなかった。ある意味では正しいだろう。権力者にとって、最も恐ろしいのは復讐だ。その芽を徹底的に摘む……なるほど、間違ってはいない。そしてそれを一切の容赦なく実行した。アリスもまた、それによって命を奪われたんだ。僕はそれを止めようとしたんだけど……結局力が及ばなくてね……」
忸怩たる思いを浮かばせた表情だった。
彼も当然、本意ではなかったのだろう。
けれど相手の方が権力も、悪辣さもずっと上だった。
それだけの話だ。
そしてそれだけのことで、簡単に命は奪われてしまう。
「しかし、アリスの遺体には虐待の跡があったとお聞きしました。一体どんな経緯でアリスは……?」
これについてはどういうことなのか、考えても分からなかった。
もちろん、その跡というのは、あの女、もしくはその指示によって動いた者の手によるものとは想像がつく。
けれど、細かな経緯については……。
気になって、わたくしはジュリアンに尋ねる。
もちろん、アリスに聞いてもいいのだが、彼女は不死者になった影響で、その記憶に欠落や混濁がある。
生者であるジュリアンに尋ねた方が確かな話を聞けるだろう。
わたくしの質問にジュリアンは頷く。
「そうだね。どこから話をしたものか……長くなるかもしれないが、聞いてくれるかな?」
「それは勿論です」
時間は、たっぷりとある。
今のわたくしは、たとえ十年だろうと、百年だろうと、じっと人の話を聞いていられる。
とはいえ、それほどの時間が流れれば、わたくしの復讐対象は消え失せてしまうだろうから困るが、この場合の長くなる、はそんな長期間のことを言っているわけでもないだろう。
ジュリアンは言う。
「では、話そう。それとアリス、君にとってはすでに知っている事も多いだろうが……」
彼の言葉に、透けた骸骨姿のアリスは首を横に振り、言う。
「いえ、構いません。お姉様にぜひ、お話しして差し上げて下さい」
「あぁ……そうだな。まずは……僕とアリスの馴れ初めからかな……」
そこから始まるのか、という驚きをわたくしは覚えたが、ジュリアンは特にそんなわたくしの反応には触れずに、ゆっくりと話し出した。




