第15話 その感触
――これは、まずい。
そうルサルカが思ったときには、すでに手遅れだった。
そもそも、もう少しうまいやりようがあっただろう。
わざわざエリカ自らの手でアリスの死に際を暴かせるようなことをしてしまったことは、今にして思えば明らかに間違いだった。
本来は、ルサルカたちの口から、もっと柔らかな表現で、徐々に伝えていくつもりだった。
しかし、その前にエリカは屋敷を出て、自ら街を歩き、そして何があったのかをすべて明らかにしてしまった。
もちろん、エリカが屋敷を出た時点で、ルサルカもクーファもそのことは察知していたし、エリカの見えないところから、ずっと彼女を見守り続けていた。
それは、ルサルカたちが、その口から事情を告げるよりも、エリカが自らの手と足で事実を掴んだ方が、きっと受け入れやすいだろう、と思ってのことだった。
エリカの目的のために、彼女を補佐する、という立場上、彼女の自主性は可能な限り尊重しなければならないという気持ちがあった。
けれど、結果的にその試みは失敗してしまったようである。
今、エリカはとてつもない怒りに我を失い始めている。
見ただけで、ルサルカにはそれが分かった。
あたりに存在する墓石の群れが、エリカの怒りに呼応するように震えている。
木々は騒めき、生き物は震えて動かない。
さらに、驚いたことにルサルカの力すらも完全に抑えられてしまっていた。
魔力の大きさはともかく、その扱いでは当然ながら、ルサルカの方が一日の長があるはずである。
そのため、エリカがどれほど怒り狂おうとも、自分たち不死者を束ねる者のうち一人が、彼女にずっとついていれば、何かあったとしても十分に抑え切れると考えていた。
けれど、その考えは、あまりにも不遜なものだったようだ。
どうやら、エリカの前では、魔力がどうとか、力の扱いの巧拙がどうとか、そんなことは問題にならないらしい。
そもそも、彼女が今、振るっているのは魔力ではない。
なぜなら、彼女の体にも周囲にも、魔力の働きが全く感じられないからだ。
けれど、現実に、ルサルカはまるで自由が利かない。
持っている力の一つも使うことが出来ない。
それは、エリカにすべて抑えられているからに他ならない。
となれば、魔力以外のなんらかの力でもってすべて抑えられていると考えるほかない。
おそるべき、力だった。
それは一体何なのか。
ルサルカには、心当たりがあった。
おそらくは、死霊大帝が持つ、権能のようなもの――死者すべてを統べる力、その一端だろう。
神々は、その司る領域において、絶対の力を持つと言う。
そして、死霊大帝が司るのは冥界に属するものすべてだ。
その中の、死者を総べる力。
それがエリカに与えられている。
そう考えるべきだろう、と。
彼女が出現したときに感じた、本能的な恐怖、自分たちはこの方に傅かなければならないのだ、という感覚は、彼女が与えられた力を無意識に察知してのことだったのだろう。
それはつまり、ルサルカがどれほど強大な魔力を持ち、またどれほど魔力の扱いに優れていても、ルサルカが一度死に、自然に反逆してこの世に留まっている存在である以上、エリカの力から逃れることは出来ないということに他ならない。
今日のときまで、ルサルカは、死霊大帝は、不死者すべてに、エリカについて、不死者の主だと告げたが、それは、あくまでも不死者の中で最も強大な力を持つ者、という意味だと思っていた。
しかし、そもそも、ルサルカたちとエリカとでは、存在の格からして違うらしい。
何をどうやっても、もはやルサルカに抗うすべはなかった。
ただ、自分にはどうしようもできないとしても、それでも、どうにか怒りを鎮めてもらわなければならないと思った。
だから一応、頼んではみたルサルカである。
そもそも、今のエリカの怒りは、彼女本来の持つものではない。
不死者というのは、なりたてが一番、恐ろしいものだ。
なぜなら、体が新しいもの、命なきものに生まれ変わっていることに慣れていないからだ。
たとえば、生きているときは、感情にブレーキがかかる。
それは、あまりに大きな怒りや悲しみは、生きた体には毒であり、最終的に体の不調や、場合によっては死にすら結びつくものであるためだ。
怒り狂って、血管が切れたり、悲しみ過ぎて、ナイフを手に取り自殺したり、そのようなことがないように、生きている人は自分の感情に無意識にブレーキをかけている。
けれど、不死者は?
当然だが、そんなブレーキは必要ない。
どれほど巨大な感情を抱いても、死にはしない。
怒りも悲しみも、その体にどんな影響も及ぼさない。
周囲がどんな環境になろうとも関係がない。
だから、感情のブレーキなど利かない。
普段は起伏の小さな感情しか持たない不死者であるが、一度何かのきっかけで増幅すると、際限なく巨大化して、いずれ、今のエリカのような暴走状態に至ってしまうのだ。
これは、不死者になって日が浅い者に多く起こることで、特別な存在であるエリカであっても免れることは出来なかったわけだ。
いや、むしろ、他の不死者よりも強い感情をもって不死者になったエリカだからこそ、免れることは出来なかったのかもしれない。
だから、そのこと自体は仕方がない、とルサルカは思った。
そもそも、ルサルカも実のところ人のことは言えない。
不死者になりたての頃はいろいろやらかした覚えがあるからだ。
だから、自分がエリカに滅ぼされるのはいい。
周囲もある程度の被害を受けるのは、これはもう仕方がない。
しかし、それでも、このまま放置すれば、いずれ世界のバランスすら崩れかねないと感じた。
だから止めなければとエリカに怒りを鎮めてほしいと頼んだのだ。
けれど、それもまた、無駄に終わった。
さらに彼女は――エリカは、ふと気づいたように、ルサルカたちの不手際について責めた。
アリスを助けることが、ルサルカたちには可能だったのに、なぜやらなかったのか、と。
エリカに従うというのなら、エリカに属するものは助けるべきではなかったのか、と。
しかし、それは正しいようで間違っている話だ。
なにせ、ルサルカたちがエリカの存在に気づいたのは、彼女が死霊公女としてあの“夜の城”に出現する少し前のこと。
そして、その時点で、アリスの命はもう、失われていたのだ。
物理的に助けることは不可能だったのであり、さらに、今、エリカの後ろで一点を見つめながら佇んでいるアリスの死霊を、仲間にするということも出来ない。
実際、ルサルカたちは、何度かこの墓地を訪れ、アリスの死霊にどうにかして自意識を取り戻してもらおうと努力したのだが、どうにもならなかった。
つまり、ルサルカたちはできることはすべてやったのだ。
それでもどうしようもなかったのだから、断じてわざとアリスをこんな状態に置いたわけではないと、エリカに言おうとした。
けれど、我を失っているエリカに、言葉は届かなかった。
腕を軽く振り、彼女は信じられないことをする。
ただそれだけの動作で、彼女は周囲に百体からなる、骸骨霊の群れを作り出したのだ。
そんなことは、不死者たちの誰にもできない。
ルサルカたちにも不可能だ。
生者を不死者にする、それくらいなら出来なくはないのだが、すでに死んでいるものを不死者へと変えることなど、誰にも出来ない。
しかも、これほどの短時間で、無造作に。
さらに、エリカはその骸骨霊たちに、ルサルカを捕らえるように命じた。
本来、ルサルカは夢魔の女王であり、強力な不死者であるため、生まれたての骸骨霊程度が百体いたとしても拘束できるような存在ではない。
けれど、ルサルカは簡単に拘束されてしまった。
骸骨霊たちの力が尋常ではなかったからだ。
生まれたてのはずなのに、高位の骸骨霊並みの力を持っているようだ。
太刀打ちが、出来ない。
数体の骸骨霊に羽交い絞めにされ、エリカに相対させられる。
エリカは笑っていた。
酷く暗く、歪んだ笑みであった。
ルサルカは、不死者となって千数百年の月日の中で、初めて背筋が冷たくなるような恐怖を感じた。
自分は、なんということを引き起こしてしまったのだろう、とそう思って。
しかし、今更そんなことを思ってもどうしようもない。
ルサルカには何もできない。
ふっと上がったエリカの左手が、徐々に近づいてくる。
あの手が、ルサルカに触れた時、きっとルサルカの存在は消滅するのだろう。
そう、確信してしまった。
――これが、死、というものなのね。
ついぞ忘れていた、自分の終わりに対する恐怖なのだと気づいた時には、エリカの手はもう、ルサルカの顔、数センチのところにあった。
――あぁ、終わった。自分はここで、息絶えるのだ。
そう思って、目をつぶろうとしたそのとき。
ガッ!!
と、エリカの左手を、彼女自身の右手が掴み、抑えた。
一体何が起こったのか?
ルサルカがそう思って見ていると、エリカは口を開く。
「……わ、わたくしは、何をしようとして……こ、殺さなければ……いえ、そんな……ルサルカの何が悪いというの……!?」
それは独り言だった。
聞いた瞬間、ルサルカはエリカの身に何が起こっているのか、理解した。
ここに至っても、まだ、エリカはルサルカを驚かせた。
なぜなら、エリカは自ら正気に戻ろうとしていたからだ。
不死者が逃れられない感情の渦に一度は呑みこまれたのに、そこから自力で元の場所に引き戻しかけている。
これは、誰にも出来ることではない。
いや、かつて誰にもできなかったことだ。
エリカの独白は続く。
「アリスを助けられなかったのはルサルカが……違うわ……彼女たちにそんな義務などない……わたくしに従うというのならそれが義務よ……いいえ、いいえ! そんなことは……そんなことはない、わ……うぅ」
しかし、彼女の怒りは余りにも強いようだった。
本来のエリカの意識と、そのすべてを呑み込み、破壊の限りを尽くそうとしている衝動が、拮抗していた。
そして、ルサルカにはわずかに、エリカの怒りの方が優勢に感じられる。
どうにかしなければ。
そう思ったが、どんな言葉をかければ彼女を勝機に引き戻せるのか、それが分からなかった。
ただ、
「エリカ様! 気を強くお持ちください! あなたは、仰いました。この王都には思い出がたくさんあると! このままですと、王都すら灰燼に帰してしまいます! 怒りを、御するのです!」
そんな言葉しかかけられなかった。
エリカは、そんなルサルカの言葉に一瞬頷いて、
「そうよ、ここには思い出があるの、壊しつくすわけにはいかない……いいえ、いいえ、すべてはあの女に破壊された。いまさら、この王都がなくなったところで誰が困るの? 壊すのよ……壊さないわ! ダメよ……」
しかし、それでもダメだったようだ。
それを確認したルサルカは、他に何かできないのかと必死に頭を働かせ、周りを見る。
すると、ふと、百体ほどの骸骨霊のうち、なぜか妙な動きを見せていた一体が、ふらふらとエリカの方へと歩き出した。
エリカの意思によるものではないだろう。
今のエリカに、骸骨霊に新たな命令を下す余裕はなさそうだからだ。
しかし、そうだとすると、なぜ……。
不思議に思いつつも、何か起こるかもしれないと思い、見ていると、その骸骨霊はエリカの後ろに立ち、そして、ふっと抱きしめた。
「……? 骸骨霊? どうして……わたくしは、何も……」
それだけでは何も起こらない、と思っていたルサルカだが、エリカの意識がなぜか、先ほどよりも穏やかなものになる。
それから、エリカは独白を続けた。
「……この、抱き方……覚えがあるわ……あれは、アデライードと流行の靴について喧嘩してしまったときのこと……あの娘が悲しい顔をして、わたくしとアデライードを抱きしめた……そう、あの娘よ……アリス? まさか、貴女、アリスなの……??
エリカの言葉に驚いたルサルカが先ほどまでアリスの死霊が立っていたところを見てみれば、いつの間にかそこから彼女が消えていた。
「まさか……そんなことが起こるなんて!」
ルサルカが叫ぶ。
それから、エリカの後ろに立つ、骸骨霊から声が聞こえてきた。
『……お姉さま。エリカお姉さま。もう、おやめくださいませ。わたくしは、アリスはもう、大丈夫ですから……』
それは柔らかで優しい声だった。
勘気に彩られ、恐ろしげな表情をしていたエリカの顔は、少しずつ解されて、静かなものになっていく。
「アリス……」
エリカが次にそう呟いた時、周囲の異様な空気は完全に消え、そして骸骨霊たちは、エリカを抱きしめる背後の一体を残し、がしゃりと音を立てて崩れたのだった。
~今回の話の大まかなあらすじ~
「ここは、ショック療法が一番よ。なにか、扉の外でとんでもないことが起きようとしている、そういう危機感を抱かせれば効果覿面よ」
エリカは、不登校になって部屋から一向に出てこなくなってしまった後輩、アリスの部屋の前でそう呟いた。
後ろには教師であるルサルカ先生がいる。
「し、ショック療法? しかし、一体どのようなショックを与えれば……?」
首を傾げるルサルカに、エリカは自信ありげな顔で言った。
「ともかく、やってみるから、見ていて」
その余りの余裕に、任せてみるかと思ったルサルカは、静かに頷く。
それから、エリカは唐突に叫び出した。
「わ、わたくしの左手に宿りし邪神が今、蘇ろうとしているわーッ!! ルサルカ先生に襲い掛かろうと、疼いているわぁー!!」
「……は?」
叫び声とともに、ドタドタと家の中に骸骨風タイツを纏った学校の生徒たちが沢山なだれ込んできて、ルサルカを拘束した。
おそらくは男子生徒であろう。
学校一の美人教師であることを自負するルサルカは、身の危険を感じる。
さらに、そのうえ、エリカの左手がルサルカに迫る。
しかし、ルサルカに届く直前、エリカは自らの左手を右手で抑え込んだ。
そして、言う。
「は、早く! ルサルカ先生! 今のうちに……わたくしがこの左手に宿りし邪神を封じているうちに、お逃げください!」
骸骨タイツたちは無言でこの茶番を見守っている。
一体自分は何に巻き込まれているのか。
よくわからないながらも、ルサルカは必死に口を開いた。
「い、いえ、あの……」
「早くしてください!! このままでは、邪神の封印が解かれ、このあたり一帯が吹き飛んでしまいます! その前に……その前にぃ!!」
最近の女子高生はとみに難しいと聞いていたが、まさかここまでとは思っていなかったルサルカは絶句する。
目の前にはどこかいってしまっているJKが一人、扉の向こうには引きこもって一年出てきていない不登校児が一人……。
さらには大量の骸骨タイツたちが踊りながら周囲を占有していて。
あぁ、自分の時代は楽な時代だったのだな、と思いながら、かつてスケバンとして暴れまわったルサルカ先生は頭を抱えたのだった。
◇◆◇◆◇
すみません。
冗談です。




