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おみなえし

作者: 山田さん

 拙作「ぐるりぐるり」に続けて水蒼寺夫と留奈美の夫婦の物語になっていますが、連載ということではありません。

 最初はホラーのつもりで書く予定だったのですが、全く違う物語になりました。

 薄紫の花冠で、今夏も我ら夫婦を楽しませてくれた牽牛花(けんぎゅうか:朝顔の別称)。彼女の気強い蔓に確りと抱かれていた竹竿の天辺に、ちょこりと赤とんぼが休んだ。牽牛花の種子を取り入れたのはつい先日。数組の種子は牽牛子けんごしとして我ら夫婦の頓服の役に立つ。残りは来夏に再び薄紫の花冠をお披露目してくれる。しばしの休息ののち、天辺の赤とんぼは鰯雲が広がる空に引きかえしていった。

 鮮やかな蒼天に果てなく引き伸ばされた純白の鰯雲。ふた色の後景に彩りを添える赤とんぼの集い。ふと思い立ち庭先に降り立つと、右のかいなを直ぐに伸ばし、蒼天に向けぴんと人差し指を突き立てる。しばしその姿勢でじぃとしていると、その平爪の先に赤とんぼがちょこりと休んだ。六つの細足で指先に掴まるその姿は、可憐でもあり頼もしくもある。

「何をしておられるのですか」

 夕餉ゆうげの支度をしていた妻の留奈美るなみが後ろから問うてきた。平爪の赤とんぼが集いに戻っていった。

「お前もこちらにきてやってごらん」

 私は姿勢を崩さぬままに妻を呼び寄せた。すたすたと妻が寄ってきて庭先に降り立ち、私の横に並ぶ頃には別の赤とんぼが私の平爪の先にあった。別ではなく、先と同じ子かも知れない。赤とんぼを揺らさぬようにそろりとかいなをおろし、妻の不審な顔つきの前に人差し指を差し出す。不審な顔つきは途端にぱぁと驚きに輝くと「あれあれ、休んでおられるのですか」と赤とんぼに問いかける。赤とんぼはちらりと妻に目をやり、軽く頭を下げると再びふた色の空に舞い上がった。

「よし、次は五つの指に休ませよう」と妻に宣言すると、私は右手の平を思いきり広げ、空に突きあげた。

「では、わたくしも」と言うと、妻も私を真似て右手の平を広げ、空に突きあげる。

「では、どちらが多く赤とんぼを休ませることができるか競争しようじゃないか」と私は妻に挑戦の意を示した。もちろん、私が敗れることなどないと信じて疑わなかったからこその表明である。

 夫婦揃って庭先で右手の平を突きあげている様は、端からは奇異に映るだろうなと可笑しく思いながらじぃとしていると、私の人差し指、薬指、そして小指に赤とんぼが休んだ。

「ほら見てごらん。三人官女が休んだぞ」と誇らしげに妻に声を掛けると、妻の五つの指にはそれぞれに赤とんぼが休んでいる。

「五人囃子ですね」とまぶしいばかりの満面の笑みを浮かべ、妻は高く突きあげた手の平に休む五つの赤とんぼを仰ぎ見ている。

 敗れた、と思うと面白くもないが、そんな邪気の無い妻の笑みを目の当たりにすると、この女と夫婦の契りを結んだことは誤りではなかったとこちらの頬も緩んでくる。

 三人官女と五人囃子たちが我ら夫婦の平爪の先から旅立つと「道中、ご無事で」と妻が赤とんぼの集まりに軽く手を振った。そしてそそくさと居間に戻ると「ささ、夕餉にいたしましょう」と庭先の私を呼んだ。



 私、水蒼寺夫みそうてらおと妻の留奈美が夫婦固めをしてから二十数度目の立秋を迎えた。我ら夫婦に子はない。一度は身籠ったのだが、何の因果か生み流してしまった。我ら夫婦は悲嘆に暮れる日々を過ごした。そこで心持ちを改めようと、街から外れた山の中腹にこの家を持った。古家ではあるが、思うままにならない暮らしではない。草花の健やかに育つ大きめの庭もある。春にはすみれ蒲公英たんぽぽが、夏には牽牛花や菖蒲あやめが、秋には彼岸花や秋桜こすもすが庭先に彩りを添えてくれる。冬には薄い雪化粧で覆われるが、その白い覆いの下でいのちは静かに新春の訪れを待っていてくれる。もっとも牽牛花や秋桜は、適した時期に我ら夫婦が種子を蒔くのではあるが。

 庭の外れには十尺ほどの高さに育った柿樹が控えており、秋には必ず実を付けてくれる。熟したその甘い実は、我ら夫婦の食卓を飾り、山の烏の喉を潤す。初夏に葉を摘み、蒸して陰干しにしてこしらえた柿の葉茶は、今では毎食後の楽しみのひとつである。

 私は随筆家を生業としている。随筆家といえば聞こえは良いが、数種の定期刊行物に駄文を細々と取り上げてもらっている身である。実入りはよくはない。よくはないが、幸い私も妻も贅には頓着はなく、こうして日々穏やかな日常を暮らしていくことができている。

 夕餉も片付き、私は柿の葉茶を楽しみながら、夕刊の紙面に目を落としていた。私の随筆をよく掲載してくれる新聞である。今回も私の随筆を掲載したということで、新聞社が届けてくれたのだ。全国紙ではない。この辺りの限られた地域にのみ発行されている地方紙である。部数もそれほどはいかないのだろうが、こうして自分の書いた文をきちりとした活字で読めるのは有り難いものである。

 向いに姿勢正しく正座している妻はせっせと編物に勤しんでいる。私のために新しい襟巻を編んでくれているのだ。以前、紡毛糸で編んでくれた真紅の襟巻を私は長年愛用していたのだが、糸が脆弱なのか擦り切れが激しく、なんともみすぼらしい風体になってしまった。そこで妻は今度は紫紺の梳毛糸で襟巻を編んでくれている。梳毛糸は紡毛糸よりも弾力に富んでいる。スウェーターにしろ、ちゃんちゃんこにしろ、ふちなし帽にしろ、妻が編んでくれたものはどれも暖かい。紡毛糸だろうが梳毛糸だろうが、妻の手作りの品は不思議とどれも暖かいのだ。紫紺の色彩が私に似合うかどうかは判らぬが。



 私は時折妻を眺めてはまた紙面に目を落としていた。するとなにやら小さな影がすぅと天井から降りてきて、私と妻のちょうどまんなか辺りで停まった。はてさて何かと目を凝らしてみると、女郎蜘蛛である。黄と黒の縞のあるニ寸ほどの堂々たる体躯。鮮紅の膨らんだお腹。八つの細く長い脚にも黄と黒が交互に交わる。その女郎蜘蛛がお尻からぴんと糸を張り、少しも揺れることなく、何やら物言いた気に私の顔の前にある。私もじぃと女郎蜘蛛を見つめる。目の前の女郎蜘蛛の後ろには、妻の正座した姿が暈けた焦点で見える。

 私に凝視されていると勘違いした妻がひょいと顔をあげ、「何を見ておら……」まで声をかけたところで、天井から下がっている黄と黒の八つ足に気が付き、その声を止めた。次の瞬間。

「ひょえぃ!」と素っ頓狂な悲鳴を上げて二尺ほど後ろに飛び退いた。正座姿のままである。なんたる跳躍力。飛び退いた妻に焦点を合わせると、小刻みに震えている。両の手に握った編棒が妻の震えに調子を合わせて「かたかたかた」と触れ合っている。その音と小刻みに震える姿が、まるで木でこしらえた可愛い玩具のようで見ていて可笑しい。私は笑い出したいのを渋面を保つことで耐えたまま「女郎蜘蛛である」と教えてやると蘊蓄を続けた。

「蜘蛛は益虫であるから我らの役に立つ。悪さはしない。女郎とは言っても遊女ではなく身分ある女性の意からきているのだろう。私もこれほど立派な女郎蜘蛛は初めて見た。雄は一尺も育たないから雌であろう」

「毒は無いのですか?」とまだ震えの止まない妻が尋ねてきた。

「毒はあるが、我ら人間には通じまい。きちんとみてごらん。このお腹の太りよう。子を孕んでいるに相違ない」

「え? え? え?」

「子」と聞くと妻は「ひょんひょんひょん」と、これまた正座姿のままで近づいてきた。全く以て器用な女である。震えも治まっている。

「お子がいるのですか」と先ほどまでの戦きなど何処へやら。目をきらきらと輝かせ、私よりも顔を近づけて女郎蜘蛛を凝視している。

「丁度この時期に卵を産み、卵のまま冬を乗り切るのだそうだ」私も女郎蜘蛛を凝視したまま答える。

 背と腹から我ら夫婦に凝視され続けている女郎蜘蛛は、気恥ずかしいのかゆらりとニ、三度揺れると妻の方に頭を差し上げた。

「何か言いたいことがあるのですか」と妻は女郎蜘蛛に尋ね、編み掛けの襟巻を畳に置くと、両の手をそっと女郎蜘蛛の下に差し出した。女郎蜘蛛はすすすと妻の両の手に降りてきて体を丸めた。少し前までは、まるで木製の玩具のように震えていた妻が、今は両の手にじぃとしている女郎蜘蛛を愛おしそうに眺めている。子を流してしまった妻。子を孕みこれから新しい命を育もうとしている女郎蜘蛛。共に女の性として感じ合うものがあるのだろうか。

「女郎蜘蛛は家蜘蛛ではない。やはり庭先で子を産ませるのが自然であろう」と私は妻に告げ、立ち上がり庭先に出た。妻も両の手を揺らさぬようにそぅと立ち上がり、私の横に並んだ。そして牽牛花の蔓を支えていた竹竿の元に両の手を置くと、女郎蜘蛛はゆっくりと妻の手を離れ竹竿を登り始めた。

「難儀でしょうが、立派に生み育てるのですよ」妻が女郎蜘蛛にそう囁くと、女郎蜘蛛は登る八つの脚を一瞬休め、妻に振り返りこくりと頷くと、再び竹竿を登り始めた。



 翌朝は庭の草木に絶え間なく落ちる雨の音で眠りから覚めた。妻は隣で大欠伸をしながら背伸びをしている。

秋黴雨あきついりですかね」寝むそうに妻が尋ねてくる。

「そのようだな。しばし雨の陽気が続くかも知れぬ」私の返答が終らぬうちに、妻の惚けた顔が「はっ」としたようにしゃんと引き締まると「昨日の女郎さんはどうなったでしょう。雨の中、心細く震えていなければよいのですが」と飛び起きた。私も共に飛び起き、急いで雨戸を開けるとそこは一面の雨模様。白い彼岸花や桃色の秋桜が水に濡れて揺れている。柿木の葉が常以上にその青さを顕示している。女郎蜘蛛を放した竹竿はと見ると、いたいた。昨日の女郎蜘蛛が雨の中、竹竿の根本で心細そうに小刻みに震えている。

「あれあれ、可哀そうに」妻は雨に濡れることも厭わず素足のまま庭に降り、両の手を差し伸べると女郎蜘蛛をその手に招き、汚れた足のまま畳の上に戻ってきた。

「せめて雨上がりまでお家に居させてあげましょうよ」手の平の上で小刻みに震えている女郎蜘蛛を気掛りに見つめる妻が懇願してきた。

「ふむ……」しばしどうしたものかと黙考した。女郎蜘蛛は家蜘蛛ではない。自然の中で雨風に耐え忍びながら、力強く生きていくのが本来の姿。雨天だといってこうして雨風の不安のない家の中に上げてもいいものかどうか。迷いはあったが、下から覗いてくる妻の縋るような視線と、その妻の手の平の上で震えている女郎蜘蛛を交互に見つめれば、無下に扱うことも出来まい。

「お子がいるのですよ」妻の追い打ちに「それでは雨上がりまで」と私は許しを与えた。

 妻の表情に安堵の色が浮かぶと「よかったですね。さささ、どこで寛ぎましょう」と女郎蜘蛛に声をかけながら、ぺたぺたぺたと汚れた足跡を畳に付けながら、安心できそうな場所を探している。

「さささ、どこがいいでしょうね」と再び女郎蜘蛛に声をかけると、妻の手の平の上で女郎蜘蛛が押入れの方に首を傾げた。ぺたぺたぺたと妻が押入れに向い、そぅと脇の柱に女郎蜘蛛を放つと、女郎蜘蛛はゆっくりゆっくりと柱を登りはじめ、やがて隙間の開いていた天袋の中に姿を消した。妻はじぃと女郎蜘蛛の消えた天袋を仰ぎ見ていたが、やがら安堵したのか、ほっと溜息をつくと台所へ消えていった。

 ぺたぺたぺたと妻が動きまわった小さな足跡が、端をつまめば「ぺろり」と剥がれそうなくらいにきちりと畳に残っている。その可愛らしい痕跡を雑巾で拭うのは私の役目になりそうだ。



 秋の日は釣瓶落し。日は短い。女郎蜘蛛が天袋に落ち着いてからすぐに三日が経った。その間、空に陽が射すこともなく、霖雨の様相を呈していた。その晩の夕餉も片付き、私はいつものように柿の葉茶を楽しみ、妻は襟巻を編んでいた。

「雨が休まないですね」と少し気鬱にぽそりと呟くと、妻は凝りを解すように両の肩の上げ下げを始めた。少しばかり辛そうである。

 私は柿の葉茶を楽しんでいた湯呑を置き、「どれ、肩でも揉んであげよう」と妻の背に回り込み妻の両の肩をゆっくりと揉み始めた。「ああ、気持ちがよいです」と妻が首を項垂れまなぶたを閉じると、私は両の手で妻の肩を温めたまま、何気なく視線を少し上に向けた。視線の先には、女郎蜘蛛が自由に動けるようにと隙間を開け放したままにしてある天袋が見える。するとあの女郎蜘蛛がひょこりと隙間から顔を覗かし、二、三度首を回し辺りを探ると、天井にさささと這い出てきた。続いて紅生姜のような赤をした何かがみっつ、女郎蜘蛛の後を追いかけるようにさささと這い出てきた。すぐに追いついたみっつの赤は、女郎蜘蛛に寄り添うように固まっている。みっつの赤が揃ったのを見定めると、再び女郎蜘蛛は天井の真ん中を目指してさささと前に進む。みっつの赤は慌ててその女郎蜘蛛の後を追う。みっつのうちひとつは常に遅れがちである。大きさも他のふたつと比べて小さいようだ。天井の真ん中まで達すると、女郎蜘蛛はその歩みを止めた。みっつの赤のうちふたつが直ぐに追い付き、女郎蜘蛛に寄り添う。小さなひとつが遅れて辿り着いたかと思うと、先に寄り添っていたふたつを押しのけるかのように女郎蜘蛛のお腹に寄り添ってきた。よくよくみると八つの細長い線のような脚で、確りとお腹に抱きついている。抱きつかれた女郎蜘蛛のお腹の丸みは消えていた。

 いつの間にか子が生まれたようだ。屋内で産んだためか、越冬することもせず子は赤く小さな姿を元気に晒している。兄弟なのか、姉妹なのか、とにかく三匹。一番小さいのは末っ子になるのだろうか。動作は遅いが母親に抱きつく要領が一番良い。甘えん坊なのだろう。

「見てごらん。女郎蜘蛛が母親蜘蛛になったようだ」私が妻にそう囁くと、妻はまなぶたを開き項垂れた首を私に持ち上げると、私の視線の先に回した。

「わぁ……」と小さく感嘆の声をあげたきり、無言で愛おしそうに母親と子たちを見つめる妻。

 妻と目が合うと母親蜘蛛はお尻から糸を出し、すすすと天井から降りてきた。続いてふたつの赤も同じ様にお尻から糸を出し、すすすと母親蜘蛛を追う。末っ子も慌ててお尻から糸を出そうとするが、なかなか上手くいかないらしい。あたふたしているうちに、あれまと天井から脚を滑らせ落ちてきてしまった。そしてさっと差し出した妻の手の平に着地した。妻の手の平の中でぽかんと妻を見つめる末っ子の赤。母親蜘蛛が妻の手の平に末っ子を迎えにくると、慌てて母親蜘蛛のお腹にしがみついた。お腹に末っ子をしがみつかせたまま、糸を辿り妻の顔の正面あたりまですすすと上がってくると、他のふたつの赤もすすすと母親蜘蛛の横に降りてきた。そこでしばらくじぃと妻と顔を合わせていると、今度は私の顔の正面あたりまですすすと上がってきた。

「どうやらご挨拶をしているらしいですね」妻が囁くと、「礼を心得ているとは感心です」と私も囁くように答える。

 やがて母親蜘蛛と赤ふたつはすすすと天井に戻ると天袋の隙間に消えていった。末っ子は結局は最後まで母親蜘蛛のお腹にしがみついたままだった。

「ご無事に育ちますように」妻がまなぶたを閉じて祈るように呟いた。



 妻の肩は日に日に凝りを増しているようで、寝込むほどでは無いにしろ、襟巻の進捗は滞り気味であった。夕餉の後の妻への肩解しは私の日課となり、「いつもいつもあいすみません」と申し訳なさそうに頭を垂れながらも、心地良さそうにまなぶたを閉じる妻を見るのは、これはこれで愛情を覚えるものである。母蜘蛛と子蜘蛛はときおり天袋の隙間から出てきては、天井の散歩を楽しむとともに、妻の肩を解す私の姿を興味深く見つめているようでもある。

「なかなか進まないです。寒さが堪える前に編み上がるとよいのですが」半分まで編みかけた襟巻を見つめ、本当に申し訳なさそうに妻が独り言ちた。

 翌晩、久しぶりに肩の調子が良いのか、妻が襟巻編みの続きを行おうとして、編み掛けた襟巻を手に取った。直ぐに怪訝そうな顔をして「はて、どなたかが続きを編まれましたかねぇ」と尋ねてきた。「どうしたのかね」と問い返してみると「いえいえ。糸が違うのですが、襟巻の尺が増えているのです」といって襟巻を広げてみせる。なるほど、紫紺の途中から半透明の白銀に色が変わっている。その部分に触ってみると、柔らかすぎず、硬すぎず、妙に手の平にしっとりとくる素材である。もしかして、と私はその箇所を見て思い当たることを妻に耳うちしてみた。妻もなるほどと表情を作るも「でも、いったい何時にやられたのでしょうかねぇ」と不思議そうな顔をしている。私は再び妻に「今宵はしばらく寝ずに様子をみてみましょう」と再び耳うちをすると、天袋の隙間に視線を向けた。

 布団に入り、眠りに陥りそうになるのを半時ほど堪えた。妻も気張って起きている。すると月明かりの中、天井から母親蜘蛛と赤みっつがすすすと降りてきた。どうやら末っ子のちびすけもなんとか糸を使いこなせるようになってきたようだ。そして編み掛けの襟巻のそばまでくると、母親蜘蛛が太くしなやかそうな糸をお尻からぴょんと壁に吹きつけた。壁と母親蜘蛛のお尻の間にぴんと張り詰められたその糸を中心に、みっつの赤が自分の糸をお尻から出しながらくりるくるりと回り進んでいる。末っ子ちびすけの動きが少し遅いせいか、拍子良くという訳にはいかないが、母親蜘蛛の糸を真ん中に、その周りを子蜘蛛の糸で巻きつけるようにしている。壁側から始めたそのくるりくるりはやがて母親のお尻に到着する。すると今度は踵を返し、壁側へとくるりくるりと回り進んでいく。私と妻は息を殺してその様子を眺めていた。月明かりにきらりと光る蜘蛛の糸。みっつの赤が母親蜘蛛のお尻と壁の間を、まるで機械体操を行っているかのように往復するたびに糸は太さを増していく。もうこの程度でいいだろう、という太さになった頃、母親蜘蛛はお尻から糸を切り離し、その切り離された先を末っ子ちびすけに咥えさせた。赤のひとつが壁側に張り付いた糸の先端を噛み切ると、赤のもうひとつが糸のちょうど中間あたりに体を挿し込み、ぐいとその糸を持ちあげる。末っ子ちびすけが糸の先を咥えたまま、よたよたと編み掛けの襟巻に近づく。母親蜘蛛が「お次はここからよ」といった仕草で襟巻の編み目を示す。末っ子ちびすけがその編み目に体をもぐりこませる。なるほど、一番体が小さいので、その役目を仰せつかったのだな、他の赤ふたつでは編み目が大きくなってしまうのだな、と合点がいく。編み目に潜り込んだ末っ子ちびすけは隣の編み目からぐいと頭を出し、咥えた糸の先を母親蜘蛛に渡す。母親蜘蛛は末っ子ちびすけともどもぐいとその糸を引き上げる。母親蜘蛛は次に潜るべき編み目を指示し、末っ子ちびすけは再びその編み目に体を潜り込ませて糸を通す。赤のもう二人は糸がぴんと張り過ぎたり、ぶらりとたるんだりしないように見事に塩梅を取り続けている。母親蜘蛛は常に適格に末っ子ちびすけを持ちあげるべき穴で待ち受け、潜り込むべき次の穴を指し示す。このようにして、少しずつ、少しずつではあるが、淡い月灯りの中、半透明の白銀の糸でもって私の襟巻が編まれていくのである。恩返しのつもりなのだろうか。その姿、特に末っ子ちびすけの姿は健気であり、思わず頬が緩んでしまう。

 ふと妻の横顔を覗いてみる。妻は声を殺して泣いていた。目の前で繰り広げられている、親と子による共同の作業。母を助ける子の姿。子を励ます母の姿。生まれてくることの叶わなかった、我ら夫婦の子を偲んでいたのかもしれない。あるいは肩の凝りによって進捗が滞っていた作業を、こうして人目に触れないように懸命に手助けしてくれる親と子。その気持ちが嬉しかったのかも知れない。

 妻も私もじぃとその作業を見つめていたのだが、いつの間にか眠りに落ちてしまったようで、気が付くと朝を迎えていた。妻が布団から静かにはい出し、畳の上に置かれていた襟巻を、朝の新しい陽の中に、そぅと持ち上げ、広げてみた。半分が紫紺、半分が白銀のその襟巻は、長さといい幅といい申し分なく仕上がっていた。妻から手渡されたその襟巻を私はそぅと首に巻いてみた。軽く、柔らかい。白銀のその糸は紡毛糸や梳毛糸に比べても引けを取らないほどに気持ちが良い。そしてその白銀の箇所は、妻の手作りの品と同じくらいに、暖かい。

 襟巻を巻いた私を妻がにこにこしながら見つめている。

「お似合いですよ」

 私は照れを隠すように「ふむ、そうか」とぼそりと頷くに留めた。



 妻がご近所の方と銀杏拾いを楽しみ、ざるいっぱいの銀杏を手土産にしてきた。ぷうんと独特の匂いが家の中に立ち込めてる。銀杏は我ら夫婦の好物でもある。この程度の匂いでたじろぐことはない。

「たくさんの銀杏ですから、食中毒にならぬように、少しずついただきましょうね」台所で下準備をしていた妻が居間に戻ってきた。そんな妻の声が居間に響いたのと同時に、天袋の隙間から赤がひとつ抜けてきた。大きさからいって末っ子ちびすけのようだ。ひどく慌てた様子で、右に左によろめきながら天井の真ん中に到着すると、もどかしげにお尻から糸を出し、すすすと降りてはくるのだが、糸の出し方が不完全だったのか途中ですとんと宙に投げ出され、心得たとばかりに差し出された妻の手の平に着地した。

「あれあれ、そんなに慌ててどうなさったのですか」妻が手の平の末っ子ちびすけに声をかけた。すると末っ子ちびすけはすくっと立ち上がると、その背に縦の亀裂がびりびりと走り、左右に広がったかと思うと、するりとその蜘蛛の衣が脱げ、中から着物を着た小さな童が出てきた。人の姿をしてはいるが、人の姿を懸命に真似てみました、といった風情である。童女である。そうか、末っ子ちびすけは女の子であったか。

「おかあさんが……おかあさんが……」末っ子ちびすけはそう言うと、妻の手の平の上、甲高い声でおいおいと泣きだしてしまった。

 妻はびっくりした顔で私を見つめた。私は胸騒ぎを覚え、台所から踏み台を持ってくると、急いでそれに乗り天袋の中を覗いた。天袋の中の赤ふたつがはっとしたように私を見た。そして末っ子ちびすけと同じように背に亀裂を入れ、はらりと蜘蛛の衣を脱いだ。こちらは二人とも男の子である。

「母上が危ないのです」

「早くしないと手遅れになります」

「まだ間に合うはずです」

「お願いします。母上を助けて下さい」

 交互に私に助けを求めてくる二匹の蜘蛛の子、いや二人の童と言うべきか。薄暗い天袋の中、二人の童の横に息も絶え絶えの母親蜘蛛が横たわっている。

「お願いします。まだ間に合うはずです」

「お願いします。母上を助けて下さい」

 二人の童は土下座をして頼んでくる。

「助けてあげたいのはやまやまだが、いったいどうすればよいのだ。いったい何が間に合うというのかね」私は二人の童に尋ねた。

「ぼくたちにもよくは判らないのです。ただ母上がこう言っていました」

「母上はこう言っていました。『おかあさんはお前たちを産んだからひとつめの役目は終えました』」

「そしてこう続けました。『ひとつめの役目は終えました。あとは静かにお前たちを見守って過ごすお役目に回ります』と」

「母上はこうも言っておられました。『おかあさんに何かあったら、あのご夫婦に頼むのですよ』と」

 あのご夫婦、とは我ら夫婦のことらしい。私もどうすればよいのか、皆目見当もつかないが、見当もつかぬままに母親蜘蛛をひらりとつまみあげ、手の平にそぅと乗せた。二人の童も続いて私の手の平に飛び乗ったのを見定めると、急いで妻の元に戻った。

 妻の手の平の上では、末っ子ちびすけが「おかあさぁん! おかあさぁん!」とおいおいと泣き続けている。

「おかあさん蜘蛛に何かあったのですか」妻が青い顔をして尋ねてきた。私は手の平の上の母親蜘蛛と二人の童を妻に見せた。

 はっと息を飲む妻。その気配に気がついたのか、母親蜘蛛は最後の力を振り絞るように、体を揺さぶりながら私の手の平から妻の手の平へと動いていった。二人の童もそれに続いた。私は誰もいなくなった両の手を、妻の両の手の下に添えた。妻の手を下から支える私の手。そして妻の手の上には二人の童と一人の童女に囲まれて、天寿を全うしようとしている母親蜘蛛。ひとつの世界が妻の手の平の上にあった。やがて微かに震えていた母親蜘蛛の動きがそぅと止まった。末っ子ちびすけが母親の体にしがみつき、「おかあさぁん! いっちゃいやだぁ!」と泣き叫んでいる。二人の童も母親の傍らで堪え切れない涙を流している。母親蜘蛛の体はもう二度と動くことはなかった。

 間に合わなかったのだろうか。いったい何をどうすればよかったのだろうか。母親蜘蛛を次のお役目に回すには、どうすればよかったのだろう。そもそも我ら夫婦にいったい何が出来たのだろう。何の力も無いごくごく平凡な我ら夫婦に、いったい何が出来たというのか。

 私は涙を堪えながら妻の手の平の上の別離を見つめていた。妻は、やはり泣いていた。涙が止めどなく落ちていく。そのひとつぶが手の平の上の母親蜘蛛の体にぽたりと落ちた。するとどうだろう。母親蜘蛛の八つの脚がゆっくりと体に納まっていくではないか。母親蜘蛛の体にしがみついていた末っ子ちびすけが、びっくりしたようにその体を母親から離す。二人の童も何事かと俯して泣いていた顔を上げ、その様を見つめている。私も妻もただただ事の成り行きを見守るしかない。八つの脚は仕舞には全てを体の中に納め、やがてその体から黄と赤が薄くなっていくと、黒ひとつの色となり、小さく小さく丸まり始めた。最後にはひとつぶの黒い小さな塊と化した。末っ子ちびすけはいったい何が起きたのか判らないままに、呆然としている。二人の童も言葉を失ってはいたが、やがて片方がこう叫んだ。

「間に合ったんです! 間に合ったんです! さあさ、お願いです。お願いですから、お庭に埋めて下さい」

 確かにこの黒い小さな塊は植物の種子のようでもある。私はそぅっと妻の手の平から黒い塊を摘まみあげると、庭先へと向かった。末っ子ちびすけと二人の童を手の平に乗せたままに、妻も私に続いた。なるべく日当たりのよさそうな場所を探した。牽牛花のあったところ、あの竹竿の地面にささっている辺りが最も適しているように思えた。私はそこに軽く穴をほり、妻と末っ子ちびすけ、二人の童が見守る中、その黒い塊を埋めた。

 銀杏の匂いが遠くから漂ってくるなか、私は黒い塊を埋めた上から水を注ぎ、手で軽くぽんぽんと地面を叩いた。そこまで見守ると、三人の蜘蛛の子は我ら夫婦に感謝の言葉を述べ、それぞれに蜘蛛の衣を身に付け直し、天袋に帰っていった。



 わいわいと姦しい声が庭先から聞こえてくる。銀杏の匂いが微かに残った部屋の雨戸を開けると、雲ひとつない朝の真っ青な空が広がっていた。姦しい声の主はすぐに判った。蜘蛛の子の衣を脱いだ三人が、おみなえしの花の回りで喜び騒いでいるのだ。昨日までは庭になかったおみなえし。あの黒い塊と化した母親蜘蛛を埋めた地面から一輪、立派に生えてきている。左右にまるで脚のように枝を伸ばし、黄の可憐な花を咲かしているおみなえし。二人の童は、おみなえしの回りを駆け回ったり跳ね回ったりして喜びを表している。末っ子ちびすけはおみなえしの根本の茎にひしりと抱きついている。妻が布団から起き上がり、私の隣に立った。

「あれあれ、いつの間におみなえしが咲いたのでしょう」と妻。

「昨日の母親を埋めた後に生えてきたのですよ」と私。

 妻はおみなえしの元ではしゃぎまくる三人の子の姿をみて、私の言葉の真実を理解したようだ。

「そうだったのですか。母親蜘蛛はおみなえしに命を変え、子を見守るのですね」と何やら嬉しそうである。

 しばらく我ら夫婦はおみなえしと、その三人の子の幸せそうな姿を見つめていた。

 やがて三人の子は蜘蛛の衣を身につけ、きちんと女郎蜘蛛の子に戻った。既に体の赤は薄まり、黄と黒の縞が出来始めている。二人の童は母親のおみなえしから少し離れたところに向うと、あっという間に小さいながらも立派な網を張った。末っ子ちびすけは、おみなえしと牽牛花の蔓を支えた竹竿の間に、小さくて丸い網を張った。母親にいつまでもぴたりと寄り添っていたいのだろう。黄と黒は立派になっても、やはりまだまだ甘えん坊のようである。

 そうだ、と私は思い出し、襟巻を首に巻いて庭先に戻った。白銀のあたりを正面に向けるようにして、おみなえしに向かって感謝の意を告げた。おみなえしがこくりと頭を垂れた。

「おみなえし、これを漢字でどう書くか知ってますか?」と妻に尋ねてみた。

「いえ、漢字などあるのですか?」と妻。

 私は机まで向かい、半紙に鉛筆でさささと書き込み、おみなえしを見つめている妻の元に戻った。

「これがそうです」と妻に見せる。

「じょろう……はな……。『女郎花』と書いて『おみなえし』だったのですか」と妻。

 当て字ではあろうが、おみなえしは「女郎花」と書く。まさに女郎の蜘蛛から花への変身ではないか。

 にこにことしている妻が直ぐに反撃してきた。

「では、あなた。女郎花の花言葉をご存じですか?」

「うむぅ。花言葉までは判らぬ」と私。

「うふふ」と勿体ぶった笑いを浮かべる妻。そして女郎花を優しく見つめるとこう答えた。

「女郎花の花言葉は『美人』ですよ」

 末っ子ちびすけの丸く小さな網が嬉しそうに揺れた。微かに「わーい! おかあさん! 美人! 美人!」と嬉しそうな声が聞こえた。

 女郎花はというと、恥ずかしそうな薄い紅が、その黄の花にそぅと射した。

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