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神様の名前  作者: 隠居 彼方


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5



ミズスギが『カミさま』と初めて出会った時、彼はまだ少年と呼んで差し支えない年齢だった。

そんな小さなミズスギの前に、ひらひらと白い衣をたなびかせて、『カミさま』は舞いおりてきたのだ。


「きみ、大丈夫?」


それは、ミズスギに初めてかけられた、労わりの言葉だった。

その時ミズスギはぼろぼろで、やせ細った小さな体に、布切れを何とか帯びているような、そんな様子だった。

立ち上がる力も失った彼は、この不遇から抜けだし生き延びる術を考えながらも、地面に横たわったまま、ただひたすら空を見上げていたのだ。


「大丈夫に見えますか」


これは一体何者だろうか。

ミズスギは警戒の籠る眼差しで、美しく不思議な女を見つめた。

これが自分を害するものならば、応戦もしくは逃亡しなければならない。

だが、体は動かず、ミズスギにできることと言えば、掠れた声でそんな皮肉を返すのみだった。


きっと彼女は生意気な子どもだと思ったろう。

のちのミズスギは、そう考えた。

けれどその時、『カミさま』は笑ったのだ。

あまりも綺麗な笑みだった。

幼いミズスギは、誰かからそんな笑顔を向けられたことなどない。

思わず、息を詰めてしまった。


「ふふ、そうだね、そんな口が叩けるなら大丈夫そうだ」


優しい笑みに、ミズスギは居心地悪く視線を逸らせてしまう。


ミズスギは、ヒトの集まる小さな村で育った。

しかし、ヒトより力が強く、知能も高かったミズスギは、他の子らとは違う雰囲気で、不気味だと、親にも周囲にも疎まれたのだ。

やがて彼のいた村が困窮する事態になると、ミズスギは口減らしのため、山に捨てられた。

ミズスギはいつだって異端の邪魔者で厄介者で、村の者たちは清々していることだろう。


そんな、ミズスギなのに。

目の前の白い何かは、温かくミズスギを見つめてきたのだった。


「……一体何なんです、あなた」

「わたし? カミさまだよ」


あまりにもあっけらかんと言われた。

それを、ミズスギはあっさりと信じてしまった。

そうと告げられれば信じてしまうような、浮世離れした雰囲気があったから。

何よりも彼女の帯びる白は、あまりにも清らかで、神々しかった。

それに、こんな状況だ。

空からふわふわと降りてくるようなヒトがいるわけはなかったし、シニガミが迎えにきたのだと言われても納得してしまえるくらいには、ミズスギは弱っている。

これは自分の願望が見せる夢なのかもしれない、とも彼は考えていた。

夢ならばカミなどという存在が出てきても、おかしくはないだろう。

こんなに綺麗なものを望む己がいるなど、知りもしなかったが……。


「なんだか失礼なこと考えてない?」

「いえ、シニガミにしては陽気だなどとは考えていません」

「シニガミじゃないよ!」


ぷんぷん、と目の前の『カミさま』は頬を膨らませた。


「きみ、いい性格してる。でも、安心した。"そう"なら、きっと戻っても上手くやれるだろうし」

「……何、を?」


カミの言葉の意味を計りかね、ミズスギは眉根を寄せた。

『カミさま』は言葉を探すように首を傾け、ミズスギに告げる。


「きみ、わたしと同郷なんだよね」

「……は?」


本気で意味が分からなかった。


「私はそもそも死者の国の住民だったということですか」

「だから違う!」


『カミさま』は拳を握って数回振り回したが、すぐに気を取り直して続ける。


「きみが本来生まれ育つはずだった界は、ここじゃないんだ。死者の国でもない」

「界、ですか」

「そう。界――世界、だよ。界は無数に存在していてね。例えばここみたいにヒトが生きる界があれば、きみの見たこともないようなモノが生きている界もある。この界にも、きみ自身が見ることはなくても、雑多なヒトがそれぞれにたくさんの国をつくりあげているでしょ? それと同じ。とはいえ、同じ界にある他の国には行けても、他の界のことは基本的には見ることも知ることも介入もできないんだけどね。わたしみたいに必要な力を持っていればできるけど」


聡いミズスギは、その説明で界の存在を大体把握した。

「なるほど」と、溜め息を吐くように頷く。


「では私は何故ここに?」

「原因はいくつか考えられる。界がたまたま接触した拍子にこっちに引きずられちゃったとか……、誰かが界を渡ろうとしたのに巻き込まれたとかね。稀にあるんだ。特に生まれたばかりの子とかはね。小さいし、まだ界に存在が安定していなかったりするから、他の界に流されちゃう」

「迷惑な話です」

「うん……。わたしは、きみを見つけられて良かった」


ほっとした思いを隠さない『カミさま』に、ミズスギは鼓動を大きくした。


「……それで、あなたは私をどうしたいのです?」

「うん、だからさ、きみが嫌じゃないなら、きみが本来生きるはずだった界に――さっき言った通りそこはわたしの生まれ故郷でもあるんだけど――きみを連れて帰りたいなって思うんだけど、どう?」

「……そんなことができるのですか」

「できるよー。それに、それが本来あるべき姿だからね。そうした方がいい、っていうのもある。この界のイキモノは総じて弱いから、きみがこれ以上ここにいたら界ごと壊しちゃうかもしれないし。それもカミさまとしては見逃せないんだよね」

「このままでは死ぬ身に大げさですね」

「死なない死なない。そんなに簡単に死ねないよ、きみは。ヒトじゃないもの」


は、としてミズスギは白いカミを仰ぎ見た。

澄んだ瞳と、目が合う。


「気付いてたでしょ?」

「……薄々とは」

「きみはアヤカシ。ヒトによく似ているけれどそれは見た目だけだ」

「アヤカシ……」


ミズスギは己の小さな手のひらを見つめた。

疑いはあったものの、ヒトならざるものと言われて、複雑な思いを抱かずにはいられない。

彼はこれまでヒトの中で生きてきたのだから、それも当然のことだった。

だがそのヒトというイキモノが、彼にこれまでしてきたことは、それこそ非道なもので。

彼らとは違うモノであるということに、どこか安堵するような気持ちもあった。


「……あなたが来たという界には、アヤカシというモノがたくさんいるのですか」

「うん。基本、アヤカシばっかりかな」


その瞳に、わずかな寂寥を見た気がしたのは、ミズスギの気のせいだったのか、否か。


「身内のひいき目もあるけど、良いところだよ」

「そうですか」


じ、とミズスギは『カミさま』を見上げた。

長く艶やかな黒髪に縁取られた、白磁の肌を持つそのカミは、あまりミズスギが大勢を見てきたわけではないせいもあるけれど、誰よりも美しく、神々しい。

この美しいカミが嘘をついている可能性もあるが、わざわざ空から降りてきたモノが、今のミズスギのようにちっぽけな存在にこんな嘘をついて、一体何をしようというのか。

ミズスギを騙す利がこの『カミさま』にあるとしても、もっとマシな話があるはずだった。

だとすれば、彼女を信じても良いのだろう。


だが、彼女を信じるとして、己はどうすべきであろうか。

この場所に、未練など欠片もない。

生き抜いてやろうとは思っていた。

己を忌避し、蔑むモノは多くとも、生まれた以上は最後まで生きてやろうと。

だがそれは、ここでなくてはならないだろうか。


――否。

飢えや痛みばかりのこんな場所、どうだっていい。

初めてミズスギに苦痛や苛立ち以外のものを与えようとしてくる、このカミの手を取った方が、良いに決まっていた。


「そこ、ちゃんと食べられるものはありますか」

「ん、そりゃああるよー」

「私こんな子どもですけど、働ける場所とかあるんですかね」

「へ、う、うん。あるけど……」

「サービスでどこか紹介するくらいはしてくれますよね。私、被害者みたいなもんでしょう。天災に巻き込まれた感じの」

「きみしっかりしすぎ!」


『カミさま』は呆れたような感心したような調子で言った。


「ほんと、きっと問題なくやれるよ……」

「……まあ、ふわふわ空を漂う不審者よりは、堅実に生きていけると自負しています」

「……か、カミさまを不審者呼ばわりした……」

 

白いカミはちょっと打ちひしがれたが、すぐに顔を上げた。


「……それさ、答えは是、ってことでいいの?」

「……あなた、私が否、と言ったらすぐに諦めるんですか?」

「質問に質問で返してきたな……。っていうか挑発?」


賢しく――そしてきっと臆病になっていた子どもに、『カミさま』は一瞬険しい表情になったが、すぐに真面目な顔で返す。


「きみの意思なら諦めなきゃかな、って思うけど。できれば置いていきたくないかな」

「この界に異物を残していくのは気が引けますか」

「っていうか、許せないでしょ。こんな仕打ちしてくるモノがいる界に、放っていくなんて」


試すような子どもの言葉にも、『カミさま』は怒らなかった。

だがそれよりもミズスギを揺さぶったのは、彼女が彼に対してではなく、彼のために、彼をここに捨てていった村のニンゲンに怒りを向けていることだった。

それは彼女がカミだからであろうが、カミだからこそ、ちっぽけなイノチに感情を乱すことも、なくていいはずだった。

それに、ミズスギの心はかつてなく定まる。


「――分かりました」


ミズスギはだから、ようやく素直にそう口にした。


「私が本来いるべきはずの世界へ、戻ります」


そして、ぼろぼろの子どもが、そう告げれば。


「――ありがとう」


彼女は、光のような笑顔で、そう応えたのだった。

それが、とどめのようなものだったと、ミズスギは思う。

ミズスギの心は、その時全て、『カミさま』に――彼女に、持っていかれてしまったのだ。




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