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ミズスギは、この界の守護隊に勤めるアヤカシだ。
ただ勤めるだけではなく、その結成に関わった大立者であり、現在も幹部として活躍している。
この界には、守護隊ができるまで、自警組織というものがなかった。
統治機構というものも、法律も、ここには存在しない。
ここにあったのは、界の仲間を殺してはいけないとか、漠然としたルールだけ。
それでも基本的にこの界の住民は穏やかなモノが多く、そこまでの問題がなかったのだ。
だが、当然のことながら、何もないというわけではない。
殺しや強盗、その他もろもろの犯罪も当然、起きていた。
ミズスギはそんな犯罪を取り締まり、裁くまでの組織をつくりあげた一人なのである。
それに、マモノの出没もある。
その退治も守護隊の役目だ。
そのように、弱きモノたちを守ってくれ、強く頼りがいのあるミズスギは住民たちの人気者であった。
彼が厳しく犯罪者を取り締まり、マモノに容赦がない一方で、とても優しいことも、ほとんどのモノが知っている。
……『カミさま』は、そんなミズスギに。
何千年も前から、恋をしている。
――なんだってあんな、むかつくヤツに……。
自分に呆れながら、『カミさま』は小さな花束をつくりあげた。
『カミさま』は基本食事をしなくてもよいし、住民たちがあれこれと供え物をしてくれるので、働く必要もない。
けれど何もせずにただふわふわと漂って崇められるだけ、というのはどうも性に合わないようで、彼女はこうして花屋のような真似をしていた。
この界には緑が溢れ、花の見られる場所はいくらでもある。
贈り物に花をと考えるモノは自分で好きなだけ摘むことができるのだが、花束としての体裁を整えられるモノが多いかというとそうでもない。
『カミさま』はそこに目をつけて、野に咲く花を贈り物として整えているのである。
ちなみに頼まれた時は、カミとして少々祝福をサービスしている。
それもあって、依頼はかなりの数だ。
時折カミの祝福をもらうためだけに依頼してくるモノもいるが、そういう下心しかないような時は分かるので、きっぱりと断るようにしていた。
さらに、花を摘みながら薬草も入手して、時折医者の真似ごとのようなこともしている。
『カミさま』に相談事を持ちかけてくるモノも少なくなく、彼女はミズスギに嫌味を言われるほど忙しくないわけではなかった。
とはいえ、守護隊幹部の彼より多忙ということもなかったが。
「さすがカミさまです」
「今回の花束もとても美しいです」
「依頼された方もきっと喜ばれます」
『カミさま』が花束の出来栄えを見ていると、側にいた世話役たち二人が口を揃えて褒めてくれた。
可愛らしい少女の姿をしたアヤカシ二人は、にこにこと花束を覗き込んでいる。
守役は基本護衛を役目としていながら、『カミさま』の世話もせっせと焼くが、なんといっても『カミさま』なので、守役だけでなく他にも世話をするモノがいるのである。
実は自分のことは自分でできてしまう『カミさま』がそれを望んだわけではないのだが、『カミさま』の側にいたいというモノが希望してやってくれば、彼女はそれを断り切れないという事情があった。
『カミさま』はにっこりと笑って、その世話役に花束を差し出す。
「ありがと。これ、配達お願いしていい?」
「はい、ではわたくしが」
世話役の一人が花束を受け取り、ふわふわと飛んで行く。
「気をつけてね」
その背を見送り、『カミさま』はそのまま高い空を見上げた。
彼女の艶やかな黒髪が風に流され、白の衣が揺れる。
白い肌は太陽に透けるようで、凛とした眼差しは果てない彼方を見つめるようで。
静かに佇む『カミさま』の神々しく艶美な姿に、世話役も守役も、ほう、と感嘆の息を漏らした。
『カミさま』の心は、知らず。
――わたしもあいつに、花束とか、贈れたらいいのに。
そうして、気持ちを素直に伝えることができたなら……。
けれど今の彼女にはそれができない。
彼女が、『カミさま』だから。
大いなる力を持つ存在である『カミさま』が、一アヤカシであるミズスギと結ばれた時、どうなるか。
きっとカミの力は、彼を歪めてしまうだろう。
ミズスギを、壊してしまう。
例えミズスギと結ばれることが叶っても。
それによって彼を失ってしまうなんて、なんの意味もない。
だから『カミさま』は、ミズスギとは一定の距離を保つよう気をつけていた。
けれど、彼を諦めたわけでもなかった。
諦められないから、『カミさま』は何度でも界を渡ろうとしているのだ。
別の界には、カミの力を削ぐ<穢れ>が存在する。
それを使って、『カミさま』は神性を失おうと考えていた。
カミさま、カミさま、と、こうして皆が慕ってくれることはなくなるだろう。
だがそれで良かった。
ミズスギを、その代わりにきっと手に入れるから。
それに、彼女はずっと胸に抱えている思いがあった。
皆は彼女がカミとしての力を備えて生まれたがゆえに、彼女を敬ってくれる。
だが、もし『カミさま』がただのアヤカシであったなら。
当然、皆がこうして集まってくれることは、なかっただろう――。
彼女は、そんなことを考えてしまうのだった。
常にそれに悩まされているわけではなく、普段は気にせず、ふわふわと笑っていられる。
けれどふとした瞬間に、『カミさま』はその思いに囚われた。
ミズスギは。
彼女がそんな屈託を抱えずにいられる、唯一だった。
彼は、彼女を対等に扱ってくれるから。
それは一アヤカシとしては不遜なのだろうけれど、駄目なものは駄目と言い、認めるところはきちんと認めてくれる、そんなミズスギの態度が『カミさま』には嬉しかった。
ミズスギの前で、彼女はカミさまにならなくても良いと感じられる。
彼女は彼女のままで良いと、そんな風に思える……。
もしカミでなくなっても、彼はきっと変わらない、と。
――決して物怖じしないあいつに色々言われるのが嬉しいとかじゃないぞ。
わたしは被虐趣味じゃない、むしろ甘やかされたい方だもん。
待てよ、あいつ……、甘い台詞言ったりとか、するのかなぁ……。
想像してしまって、『カミさま』は少し頬を赤く染めた。
ミズスギはいつも憎まれ口ばかりだが、彼女の手首を握るとき、細心の注意を払うかのようであるのを、『カミさま』は知っている。
華奢な彼女の手首の心配をしてくれているのだろう。
素直ではないが、やはり優しい男なのである。
だから、彼女が想像したような台詞も、いつかは目の前で口にしてくれるかもしれない。
そのいつか。
ミズスギが、彼女の名前を呼んでくれる時。
それはどんな響きをしているのだろう……。
『カミさま』の名前を知っているのは、『カミさま』だけだ。
そして、『カミさま』が名前を教えるのは、伴侶であると決まっている。
『カミさま』の名前を呼ぶことを許されるのは、伴侶だけだと。
彼女は、ミズスギに名前を呼んでほしくてたまらなかった。
隣に立つことを、許してほしかった。
けれど今日も今日とて、カミのまま彼女は何も変わっていないのだ。
ミズスギに想いを告げるなど夢のまた夢で。
名前を呼んでもらうなど、一体どれだけ未来のことになるのだろう。
ミズスギはおそらく、『カミさま』を仕事の邪魔者くらいの意識でしか見ておらず、それ以上に進むのはかなり難しそうである。
その上、他の女性たちとて彼を熱い眼差しで見つめているのを知っているから、『カミさま』は気が気ではなかった。
仕事が忙しいせいか、ミズスギに誰か一人を選ぶ様子がないのが幸いであるが、いつ何が起こるか分からない。
早く早くと焦る気持ちはあるが、しかし簡単にどうにかできるものではなかった。
<穢れ>も、今日はすぐに見つけられたが、彼女の求めるものがそうごろごろしているわけでもないのだ。
何より、何度隙をつこうと策を練ってみても、ミズスギが『カミさま』を止めに来てしまうから、見つけても近付けないままに終わってしまう。
『カミさま』としてはやるせないことであった。
――有能すぎだよ、あいつ。それに、職務熱心にもほどがある。
『カミさま』は心の中で文句を言った。
そもそも、一アヤカシがあんなに簡単に界を越えられるのがおかしい。
だがそんな、一線を画した実力を持つミズスギであっても、カミに近付き過ぎれば、どうなるか。
『カミさま』はその考えに顔を曇らせた。
「カミさま、どうしました?」
守役や世話役が、心配そうに声をかけてくる。
『カミさま』ははっと我に返った。
「ん? どうもしないよ」
界渡りの騒ぎで、今日は不安な思いをさせすぎてしまった。
『カミさま』はこれ以上心配をかけてはならないと、朗らかに笑う。
周囲のモノらに疑念を抱え、カミであることをやめてしまおうとしている彼女だが、共にいてくれるモノたちを無暗に粗末に扱いたいわけではない。
カミとしても、尊い命を、彼女はとても大事に思っていた。
『カミさま』の笑顔に守役たちがほっとしていると、向こうから戻ってくる影がある。
「カミさま、ただいま戻りました!」
「おかえり、お疲れ様。いつもながら速いね」
「お褒めにあずかり光栄です。とっても喜んでおられましたよ」
「それなら良かった。それじゃあ、今日はちょっと早いけど帰ろうか」
アヤカシとしての足を使って早々に帰って来た世話役を労い、『カミさま』は微笑みを浮かべて促した。
世話役たちと守役をつれて、『カミさま』は己の家へと向かう。
『カミさま』の家は、彼女が生まれてすぐに、住民たちが厚意によって建ててくれたものだ。
何万年を生きる間に数え切れないほど改築を繰りかえしながら暮らしてきた家。
もしカミでなくなる日が来たら、住み続けることは許されないだろうか――。
久しぶりに界渡りをしたからか、ミズスギと声を交わしたからか、どうにも思考が彼のことに引きずられる。
涼しげな容貌を脳裏に浮かべ、『カミさま』は内心でまたあっかんべをした。
――絶対、いつか手に入れてやる。
お前にわたしの名前を呼ばせてやる。
だから、誰かに心奪われたりなんかするなよ。
首洗って、待ってろよ。
カミとは思えぬことを心の中で呟き、彼女は家路を進みながら、守護隊本部の設置されている方角へ視線を向けていた。