第9話 魔王、女騎士と座禅をする
魔王アルカインの朝は早い。
早いと言っても生半可な早さではない。深夜三時に彼は起床する。深夜という言葉でもわかる通り、普通の感覚では朝ではなく夜に属する時間だ。何月だろうと、こんな時間に朝日が昇っていることはない。
なお、この世界は地球とは違う世界ではあるが、時間は一時間六十分の二十四時間制となっている。かつては十二で割っていたそうだから、そういった時間の区分けはある程度普遍的なものであるらしい。
あるいは、前世が日本出身のアルカインが混乱しないように竜女が似た時間概念を採用している世界を選んだ可能性もある。まあ、アルカインにとってはどっちでもいいことだ。
目が覚めた彼はまず冷水で顔を洗う。それから、王の居室を出て、ザクスランの市街地を見下ろせるバルコニーに出る。といっても、深夜三時に灯かりがついている家など、ほぼ皆無と言っていいから、闇が広がっているようにしか見えないが。
ここで一時間あまり、じっと座禅をする。
「さて、今日も心ゆくまで座るとするか」
言うまでもなく、正覚時代の生活習慣のせいだ。
鼻から深く息を吸い、口からゆっくりと確かめるように吐く。それを何度か繰り返し、心を落ち着ける。
目は開けていても閉じていてもいい。アルカインも時間の半分、外を見ているぐらいだ。何より肝心なのは、一切を考えないようにすること。自分の内側にこびりついている執着というものがはがれていくまで、黙々と座る。
一般に、仏教の中でも禅宗は修行を重要視する。人間というものは、言葉や理念だけで真理を――この場合は仏法を――わかった気になるからだ。
はっきり言って、わかったつもりでいることは、何もわかっていないことの千倍は恐ろしい。わかったつもりになればそこで学ぶことをやめてしまう。となれば、仏法の追求・追究もそこで終わってしまう。
正覚時代はこれを在家信者にスポーツのたとえを出して説明していた。どれだけ野球やテニスのルールを完璧に覚えたところで、試合で活躍することはできないし、スポーツをプレイしている時の喜びもわからない。
これは禅宗に限らない。密教の真言宗などでも、真理は言葉では表現できないというようなことを言っている。密教も禅も大乗仏教の流派であるから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
また、どんなエースプレイヤーも日々の練習を絶やすことがないように、仏教の修行にも終わりなどというものはない。
仮に悟ったと確信するような体験がやってこようと、そこで慢心せずに進まなければいけないのだ。そこで、やめてしまったら素晴らしき体験もたんなる落とし穴になる。
大学受験のために必死に勉強し、合格した途端、教科書も参考書もすべて捨てて、一切の勉強をしなくなるようなものだ。そんな人間が大学者になる可能性はほぼないだろう。
老齢に入ってからも正覚は、午後十一時就寝、午前三時起床という生活リズムは変えなかった。四時間寝れば、体は動く。何十年も同じ生活をしていれば、体も自分を裏切ったりはしない。
ただ、このアルカインの体であれば、もっと睡眠時間は短くてもよいかもしれない。人間よりもはるかに頑健な肉体だ。戦争で受けた傷も痕すら残っていないほどきれいに治癒している。
あれこれと考えることをしなくても、自然といろいろなものが脳裏をよぎる。その日、まずやってきたのは、また竜女だった。
『本当に、どこまでもあなたは真面目なのです。魔王の身で座禅までしなくてもいいですよ~?』
それこそ落とし穴だ。仏に仕えることでは、奴隷も皇帝も貴賤なし。自分が魔王だという驕りが生まれた途端、地獄に転落するだろう。
なぜか、すぐ前に、竜女が立っているように感じる。十歳にも満たない子供のような姿だが、仏の世界では大先輩だ。自分などよりはるかに大きな存在感を感じる。
『まあ、そんなあなたの真面目さを買って、この仕事を任せたんですがね~。思い通りにやればいいのです。かつて私がいた竜の世界のような迷いで満ちた世界は一つでも減らさないとダメなのです』
ああ、竜女はもともと地球の者ではなかったのか。
『竜同士の争いで家族も友も殺されていった私が、真の救いを求めて、仏様がいらっしゃる世界に生まれ変わったとしても不思議はないのです~。ごめんなさい、そんなことはどうでもいいですね』
ぽんぽんと竜女がアルカインの頭に手を置いた――気がした。
目の前にあるのは、まだ夜に沈んだままの城下だけだ。だが、心なしか先ほどより街の様子がはっきりと見える。
変わらぬものなどない。刹那という時間をさらに一万にも一億にも切り刻んだ時間でもすべては流れ、変わっている。
一部の金属は純度を九十パーセントから九十九パーセント、さらに九十九.九九パーセントと上げていくと、それまでにない性質が突如として現れるという。
修行も似たところがある。極めていくと、ある瞬間、これまでにない領域に突入するのだ。
だから、アルカインはひたすらに座るのだ。
前世の記憶が戻ったのは幸甚だった。これで、修行の続きができる。やりかけだったRPGができないのは寂しいが、自分が魔王をやってるのだから、まあ、よいだろう。
――ガチャ。
後ろからバルコニーへの扉が開く音がした。それでもアルカインは律儀に座禅を続けた。
「魔王様、近頃、夜に城を歩いていらっしゃるので何かと思っていたのですが……」
声ですぐにわかった。近衛騎士のサリエナだ。城の、アルカインの近くの部屋に詰めてはいるが、わずかな物音でも目が覚めるとは、さすが騎士の面目躍如といったところか。
「こうやって、日々、鍛錬をされていらっしゃったのですね」
サリエナの声はアルカインを詮索することもなく、ただ、受け入れるやさしさを持っていた。
アルカインの肩に何かが語る。これはブランケットだ。
「体が冷えてはいけませんので」
と静かにサリエナは言った。
その瞬間、小さいながらも悟りの体験がアルカインの中で起こり、彼は、かっと目を見開いた。
ブランケットをかける、たったそれだけのことだけれど、わずかな見返りも求めず、さらりと施しきるという布施行の精神がここでは完成されている。
これこそ、仏の慈悲だ。ここに、人を惑わせる自分に対する執着なんてものはない。
「ありがとう、サリエナ。お前は仏の道を本当に理解している」
「仏……?」
――あっ、まだ仏という言葉を使ってなかったな……。
いずれ、仏とは何かも伝えねばならない。でないと仏教にならない。だが、今、サリエナに言うと余計な混乱を招くだけだ。
「な、何でもない……」
サリエナがすぐ隣に座ったのがわかった。
「魔王様を一人にするわけにはいきませんので、お付き合いいたします」
「わかった」
どうせサリエナのことだ。止めたところで聞かないだろう。
「まずは息を調える。大きく鼻から吸い、口から吐き出していくんだ」
「わ、わかりました……」
「これを数回繰り返す。そして、心から余計なものを追い出すイメージをする。自分を空っぽにするんだ」
「空っぽですか」
すぐ隣でサリエナの息が聞こえる。こんな座禅もまたよいものだ。いつかはたくさんの魔族の仲間たちと座ることができたら、どんなに楽しいことだろう。
サリエナがあくびをしたのがわかった。目を閉じていても、むしろ目を閉じているから、そういうことはわかる。今のアルカインの精神は研ぎ澄まされている。
「眠いだろうから無理はせんでいいぞ。体を壊しては意味がないからな」
「いえ……近衛騎士としてそういうわけにはいきませんから……」
なんだか、自分の若い頃を見ているようだ。
ついつい、アルカインは微笑ましくなってしまう。この体に転生して自分もまだ二十年ほどしか生きてないはずなのだが。
「あっ、今、魔王様、お笑いになりましたね……」
「バカにして笑ったのではない。微笑んだのだ。拈華微笑」
「同じことです!」
ムキになってサリエナが座禅をする。自分も先輩の僧侶に笑われないようにと意固地になって座ったものだ。
「あまり力を入れすぎると、足がしびれてくるぞ」
「これぐらい、どうってこと……ありません……」
その日から、深夜の座禅は二人で行うものになった。