第3話 魔王、城に帰還する
魔王領の中でも険しい山並みで著名な死馬の背山脈を超えると、そこにザクスラン盆地というわずかな平地が現れる。
その盆地の中の丘に張り付くように立っているのが魔族の拠点であるザクスラン城だ。
なお、死馬の背という地名は、骸骨となった馬の背骨ほどに尾根が細く、危険な道であることからつけられたものだ。
魔王に率いられる魔族たちがこの地を支配する前から、こんなところに足を踏み入れる人間はほとんどいなかった。
来る者といえば、せいぜい処刑必至の重罪を犯した者か、そうでなければ貴重な薬草の採集のために来る薬売りぐらい。あとはエルフなどのような人間よりは少し違った文化を持っている者たちがひっそりと暮らしている程度。
そんな深い山にもかかわらず、魔族の一行は隊伍も乱さず、数日のうちにザクスラン城にまでたどりついた。魔族の面目躍如といったところか。
ただ、魔王アルカインは、一歩間違えば崖に転落するような道を歩きながら――馬は馬引き係が引いて大回りをさせている――こんなことを思った。
――この山容は、かつて歩いた大峰山系に近いな。
大峰山系というのは、奈良県南部から和歌山県にまたがる山岳修行の中心地である。体を鍛えることも悟りのために必要だと思った正覚は十度もその道を歩いた。
別に大峰山系に限らず、日本の山々には必ず祠の一つや二つは見つかる。富士山の山頂付近が宗教法人の私有地であることは有名な話であるし、日本の著名な山の大半は修験道の霊場だった。
いや、日本に限らず、中国でもヨーロッパでも事情は似たようなものだ。人々は庶民が近寄ることもないような山に神仏が宿ると考えた。
しかし、それと比べると、死馬の背山脈では祭祀のための小屋はおろか、魔法陣の一つさえ、道の途中には見つからなかった。アルカインも何度も通った道だが、そういえば、そんなものはまったくなかったように思う。
「あの、お気分がすぐれませんか?」
声をかけてきたのは、尻尾の生えた女騎士のサリエナだ。彼女は魔族の中でも代々騎士をつとめる一族で、アルカインに仕えてから七年になる。若いアルカインにとって自分が王になってから奉公するようになった子飼いの家臣の一人だった。
「知ってはいることだが、この山の道はなんとも心細いな」
「そんなことはありませんよ。山地に住まう精霊はいずれも我が軍が百年以上前に屈服させております。怯える必要なんてございません」
精霊といっても、想像上の産物でも何でもなく、この世界では実在するもので、今は魔族の一員として生活をしている。人間の国家で信仰されている神は伝説上のものだと思うが、少しそれとは意味合いが違う。
「ああ。だが、精霊の怒りを鎮めるための古い祠ぐらいは残すべきだった気はする」
サリエナはまるで恋人に向けるような愛らしい笑みを浮かべて、
「今回の戦のあとから、魔王様は少しおかしいようです」
と言った。
上意下達が必須の戦闘と違って、彼女ももう少し感情を表に出す。当然、それはサリエナが魔王の寵臣であるからというのもなくはないが。
「朕もそう思っている」
ちょっと照れたようにアルカインは言った。前世の記憶が戻ったせいか、女性への免疫力が急激に落ちているのだ。
アルカインは戦のことを思い出した。
あのローブの男は高位の魔法使いで、魔王である自分の魂そのものを消し飛ばそうとしたのだろう。悪い手ではない。炎熱を加えようと、凍りづけにしようと、烈風で切り刻もうと、物理的な打撃で魔王の息の根を止めることは難しい。
だが、魂を狙うなら、万に一つは勝機もある。
しかし、万に一つの勝機ではなかなか勝ちは拾えない。アルカインは命に別状なく、その代わり攻撃のショックで前世の記憶を蘇らせたというわけだ。
死馬の背山脈の峠に差しかかると、はるか先にザクスラン城が望めた。
――さて、城でもう一戦、はじまるであろうな……。
ザクスラン城の城門に入ろうというところで、茂みから何者かが飛び出してきた。
魔王だけあって運動神経に自信のあるアルカインでもこれはかわせなかった。
「うっ……」
ものすごい衝撃が体に走り、吹き飛ばされそうになった。それでも魔王の威厳に懸けて、どうにかこらえた、
というか、こんなところに賊を入れているとしたら門番は全員処刑されても文句を言えない。
結果は、賊ではなかったから、門番たちは命を永らえられそうだ。
「お兄様! ずっとお帰りをお待ちしておりましたわ!」
「ロザール、まさかこんなところに潜んでおるとは思わなかったぞ……」
妹のロザールに抱きつかれるのはいつものことだ。ちょっと、城を出るとすぐにこの妹は不安になる。
「もう、三日間は離しませんからね……。ずっと、ひとりで怖かったですわ……」
「だからって、飛脚を使って、一日五十通も手紙を戦地まで送りつけてくるのはやめろ。税金がもったいないし、飛脚が足りなくなる」
前世の日本だとさながらメール送りまくるストーカー気質の奴だなとアルカインは思った。父親が亡くなり、彼女を叱るような相手もあまりいなかったせいで、この二本の角の生えた妹は、わがまま盛りなのだ。
「ロザール、これから朕は仕事が山とある。また、遊んでやるから解放してくれ」
妹の言動には慣れているはずだが、今日のアルカインは少し顔が赤い。前世でどれだけ女にすれてなかったのかとアルカインは自分のことながら唖然とした。
「いいえ、離しませんわ! 国のことよりわたくしのことを見てくださらないと嫌ですわ!」
言って聞くような性格じゃないのは知っている。かといって、見ている者も多いのに怒鳴りつけるようなのは王族として恥ずかしい。
「サリエナ、朕を守ってくれ」
ぼそりとつぶやくと、サリエナはすぐにロザールを羽交い絞めにして、アルカインから分離する。
「な、何をするんですの! おやめなさい!」
「申し訳ないですが、魔王様のご命令ですので」
「もう! 女騎士程度の身分のくせに! 女騎士ごときのくせに~!」
ごねている妹を無視して、アルカインは入城を果たした。
さて、仕事だ。
アルカインはその土地の地理書を片っ端から持ってこさせた。
仏教興隆のため、まずは、魔王の軍と人間の軍の勢力図を確認する。
この土地はただ、単に「大陸」と呼ばれている。ほかにこの世界には大陸がないためだ。外側は小さな島を除けば、海しか存在しない。そして、大陸の西側――東側よりはるかに山がちな地域に、三百年前、魔王の軍が突如として「出現」した。
記録によればどこかの世界から征服のためにやってきたことになっている。自分が異世界の記憶を持つことを考慮に入れれば、十二分にリアリティのある説明だ。
「現状はこちらが六で、向こうが四か」
魔王軍はじわじわと人間の土地を侵略してはいるものの、そのスピードは決して速いとは言えなかった。人間側の抵抗も激しい。とくにこの二百年は人間の国家が連合して、清廉かつ膂力のある者たちを選んで勇者に認定し、魔王軍を攻める旗頭としていた。
過去の勇者の中には戦死した者も多いが、魔王を討ち果たした者もいる。アルカインの父も先代の勇者に殺された。もっとも、すぐに魔族側も息子のアルカインを魔王に立て、頑強に抵抗したので、領土を失うことはほとんどなかったが。現状は一進一退の攻防が続いていると言ってよかった。
「本当に、魔王様は読書家になられましたなあ……。ジイはうれしゅうございます……」
新しい本を持ってくるたびに頬を濡らしているのは、父王の代から仕えているカブールという背の低い文官だ。
あまり賢い者のないと言われるオークの出ながら勉学に励み、ついには魔王の側近である顧問官にまで昇進した。間違いなくオークの出世頭だろう。
「たしかに戦争の直後で、多少は次の争いまでお時間ができるとはいえ、こうも国土に興味を持っていただけるとは……」
たしかに人間の軍を打ち破ったのだから、しばらくは連中も逼塞はしているだろう。
「いくら、年寄りにしても涙もろすぎるぞ、カブール」
苦笑しつつ、アルカインは自分の手で羊皮紙のページをめくっていく。
「ところで、ずっと何をお調べになっていらっしゃるのでしょうか? 農作物は今のところ、収穫も順調でございますし、徴税が滞っている土地もございません」
それはカブールの言うとおりだった。魂の一部がすげ変わる前からアルカインはなかなかの切れ者で、ゆるんできていた国家の締め直しを行った。
まず、畑地の開拓を重点的に行い、飢える者がないようにした。
また毎年の収穫によって税金を確定していたのを、その十年の平均値から事前に決めてしまうように変更した。その結果、どれだけの金が国に入るかが先読みできるようになり、政策の柔軟性が広がった。
商業活動も発展させるため、馬車の専用道路を都市と都市の間に作った。
身分の低い者でも地方長官の推挙があれば、役人になれるようにした。
そのほか、数え上げればきりがない。
実学志向だったアルカインは虚飾よりも本当に役に立つものが何かを考え、それを形にしていった。間違いなく、十代先にも名君と仰がれることだろう。アルカインは自分で自分を褒めた。
「しかしな、足りないものもあるのだ、カブール。知理書や自分の政策を顧みて、確信した」
「はて、何でございますかな?」
「心の癒しというものが、この国家にはない」




