第25話 魔王、宗教音楽を伝える(1)
魔族の中で体系化されている音楽というと、軍楽しかなかった。
たとえば打楽器を打ち鳴らせば戦意が上がる、そういった原初的なことは古くから知られていた。あとはそこに人間の国家から学んだ管楽器を付け足すぐらいのものだ。
これの一部を宮廷音楽としても用いていたが、本当に転用という段階で、せいぜい儀式におけるちょっとしたBGMという扱いが関の山だ。
あとは農作業などの折に歌われる素朴な民謡のようなものはあったが、逆に言うとその程度だった。葬儀という概念自体はあったが挽歌のようなものはない。
大地の神のようなものも魔族は信じていないので、収穫祭のようなものもない。だから、そこで歌われる歌も踊りももちろんない。
「音楽が発展していないという意識はあったが、ここまでとはな……。文明のレベルと比べて、極端に遅れておる……」
まだまだ暗い自室の中で、アルカインは嘆くように独り言を言った。ランプの光は灯しているが、魔族は夜目もそれなりに利くので、暗いところで本を読むこと自体は楽だ。
どうして、こんなことになってしまっているのかといえば、やはり魔族に宗教がなかったからとしか言いようがない。
地球でも、ほぼすべての古代の芸術は宗教的な意味合いを持つものであったが、その事実に音楽も反することはなかった。
もちろん楽譜も録音したデータもないが、古代人だって葬送や祭りの日には歌って、踊ったと思われる。それは儀式に付随したものだったかもしれないが、言葉に自然と節がつけられたとしてもおかしくはない。日本でも和歌という言葉がある。和歌と聞けば、定型詩の一つと現代人は認識しているが、百人一首の時に独特の節回しで札が読まれるように、それは本来、歌であったのだ。
節をつけて歌いやすいように、自然と五音と七音を中心としたものになっていったとしても不思議はないだろう。
しかし、それは神を感じていた人間たちが作り出したものだ。もし、古代人がすべて無神論者だったら、そもそも祭りを行うことなどないだろう。どうせ、豊作を祈ったって天気が荒れる時は荒れるし、死者を弔っても何の効果もないと思っているようでは、一切の儀式が行われないだろう。
おかげで、神をまともに信仰していなかった魔族の音楽の水準は極めて幼稚なものだった。
だが、だからこそ、やりがいはある。
アルカインはブッダ教の経典の中でも短い詩句を抜き出す。
そして、そこに簡単なメロディをつけて、歌う。
「ブッダ様はぁ~、すべてがはじまる前から~存在し~♪ ……我ながら下手糞だが、やむをえんな……」
日本でも幼稚園児が叫ぶように歌うように、美しいとされる歌声で歌うのにも訓練がいる。アルカインはそんな文化のない世界で育ったので、声は歌に慣れていなかった。
――普通、こういうのって本人は音痴だと気づかないものであるのにな……。まあ、よい。恥を恐れては何もはじまらん。まあ、魔族はそんなことは気にせぬかもしれんが……。
一時的ではあるが、仏教隆盛のためという意識がアルカインから抜けかけていた。それぐらい、いい歌を作ろうというほうに気が向いていたのだ。
「あ~、あ~、あ~♪ まだ、ちょっと濁っておるな……」
コツをつかもうとして、アルカインは声明の記憶を思い出そうとした。
声明は平安時代に現在の京都市の北、大原で大成された仏教音楽である。
当時、大原は比叡山延暦寺に近いことから、天台宗の僧侶が隠棲して移り住む土地だった。声明という音楽自体は平安時代よりさかのぼれるほど古いものだったが、天台宗の声明は最澄が唐で学んだものが基本である。この声明を大原で良忍という僧侶が発展させたのだ。
この良忍という僧侶は歴史的には融通念仏宗という現在に続く、浄土宗のような念仏を唱えることを中心とした宗派を開いたことで知られている。しかし、その念仏はたんなる朗読ではなく、節のあるものだった。彼は最初から歌詞付きの宗教音楽を志向していたのだ。
その証拠もある。良忍は大原に来迎院という寺院を建立したが、この寺院の山号に魚山という名をつけた。この魚山というのは中国山東省にある声明の生まれた土地の名前なのだ。
この声明はのちに様々な日本の音楽に影響を与えていった。仏教史だけでなく、日本の音楽史にも良忍は多大な貢献をしたのだ。臨済宗の僧侶だった正覚にとって宗派は違うが、それでも仏教という源流は同じであり、無論崇敬の対象である。
そういった声明をイチから作るつもりで挑んだのが……。
――たしか、声明には楽譜もあったはずだが、そんなものまでは覚えておらぬな……。
西洋由来の楽譜と声明の楽譜はまったく異なる。アルカインの前世の記憶をもってしても歯が立たなかった。
――へこたれるな……。朕だってドレミファソラシドの記憶ぐらいはある。この程度で挫折してどうする……。
そして、苦心すること一週間……。
その日も、早朝の座禅から自室に戻って最終調整をし――
「よし、音程の感じは思ったより声明に近いのではないか……?」
どうにか、歌が五曲ほど完成した。ブッダ様の素晴らしさを説いたもの、五戒の大切さを説いたもの、悩みに執着しないように諭すものなどだ。
前世の正覚が世代的に歌謡曲や演歌といった和のマイナーコード中心のメロディラインの曲ばかり聞いていたのもよかったかもしれない。声明も基本的にマイナーコードのどこか暗い雰囲気のあるものなのだ。
「しかし、朕一人で歌ってもいまいち神々しい感じもせんな。やはり、こういうのは誰かに歌わせてみて、試してみんことには――」
その時、ノックもなしに扉が開けられた。臣下がやってはいけないことだが、ある意味、臣下ではなくて、家族だった。
「お兄様! おはようございますですわ!」
妹のロザールが角を突き出して、走りこんでくる。
アルカインも慣れたもので、体を横にそらして、受け流す。正面からぶつかると角が刺さって割と本当に命の危険があるからだ。
「むぅ……またはずれてしまいましたわ……」
ロザールは残念そうだった。
「お前は朕のことが好きなのか、殺したいのか、どっちなんだ……」
慣れてはいるが、慣れてしまっているというのも問題な気がする。
「殺したいほど好きということかもしれませんわね」
「あんまりシャレになってないぞ」
妹相手に臣下よりはくだけた口調でしゃべるアルカイン。だが、そこでふと妙案を思いついた。
――そういえば、ロザールは絵に関して、やけに才能を発揮しておったよな。あれはいかにも日本風の絵だった。だとしたら……音楽も日本の記憶があるのではないか?
日本人は小学校でも中学校でも音楽を習うし、純粋な魔族よりは上手にやれる気がする。
根拠としては乏しいが、どうせ、誰かに歌わせるつもりだったのだ。ちょうどよいのではなかろうか。
「ロザール、ちょっとお前の歌声を聞かせてほしいんだが」
アルカインは手製の譜面をロザールの前に出した。




