第20話 魔王、人間に仏教を説く(2)
アルカインは手はじめに六道輪廻のことを説き、続いてブッダという神について話した。
この神について話すとイスファラはますます真剣に耳を傾けてきた。
「では、そのブッダには形というものがないのか?」
「その通り。形があるということは滅んでしまう可能性を持つということだ。この世界のどんな物質で作っても、朽ちないものなど存在しないであろう?」
「どうしてそのブッダという神はすべてのものを六つの世界に分けて転生させるのだ?」
「転生させているのではなく、転生してしまうのだ。ブッダ様はその転生先を分けることでこの世界を生きやすくしてくれているのだな。なお、ブッダ様の世界に入るにはさらに厳しい修行がいるが、それは望む者が増えてから説こうと思う。まずは輪廻の概念を知ってもらうほうが先だ」
こういう話なら前世から慣れている。アルカインはよどみなくイスファラの質問に答えていく。
最初に日本に仏教が伝来した時もこんな調子だったのだろうなとアルカインは思った。素朴な自然神信仰しかないところに宗教哲学が入ってくるのだから、相当大きな変化になるだろう。
そして、ついにこういう質問が飛んできた。
「たとえば、氷の女神であらせられるティフール様をお前のブッダ教は否定するのだろう?」
アルカインの頭には、日本の僧侶の記憶が頭に蘇る。
これこそ、神仏習合の本地垂迹の概念で説明できる。
「そんなことはない。そのティフールという神もまたブッダの一面を現すものだ」
「わけがわからない……」
イスファラだけではない。ダークエルフのナタリアすら困惑気味だった。まあ、それも仕方ないだろうが。違う宗教の神が同じものなのだと言われても混乱するだろう。
「ここはゆっくりと説明しよう。つまりな、ブッダというのは真理に名前がついたようなものなのだ。そして、その真理はどんな世界にも必ず存在している。どこにでもなければ真理とは言えぬからな。ということは、ブッダ教を朕が認識する前からこの世界にも真理はあったことになる」
「納得はできんが、理屈はわかる……」
「だが、いきなり真理が顔を出してはあまりにも難しく、誰も理解ができなくなってしまう。そこで、ブッダ様という真理は、まずは形のある神に姿を変えて、わかりやすく道を説くようにしたのだ。それがおぬしの国で信仰されているティフールという神であり、ほかの国の神である」
これは仏教が神道(ただし、その当時、神道などという体系だった概念はないが)を取り込んだ時に使われた本地垂迹という考え方だった。
端的に言うと、こういうものだ――神社で祀られている神は実は仏が姿を変えて、衆生を導こうとされているものなのだ。だから、神を熱心に祀ることは仏を祀ることと同じである。
おそらく実際には仏教の寺が持つ強い経済基盤に神社が吸収されていった過程があって、こんな考えが広がったのではあろうが、この概念のおかげで仏教は日本に元々あった信仰と対立せずにすんだのだ。
仏教が広まる過程で神社の社殿が壊されたなどという話はまったくない。それは念仏を重要視する浄土宗や浄土真宗にしてもそうで、少なくともほかの宗派の価値観を正面切って破壊したりすることのないようにと教えていた。
「そ、それは都合がよすぎるのではないか……。そんなに見事にすべてを包摂できるわけが……」
「むしろ、包摂できなければおかしいのだ。真理や神はあらゆる場所を見通しているはずであるからな。ある特定の一国家でしか通用しない宗教が本質的なものであるとは思えぬ。少なくともブッダ教は魔族も人間も差別はしない。もちろん、虫も獣も差別しない」
人間が信仰しても何の問題もないぞ、そうアルカインは言ったわけだ。しかも、理屈の上では、すでに持っている信仰を捨てる必要もない。実は同じものだったと認めれば、これまでの宗教的行為も誤りにはならないのだ。
「最後に一つ聞きたい」
「うむ。何でも聞いてくれ」
「輪廻転生の行き先を聖職者が決定することはできるのか?」
それが今のイスファラの故郷で顕在化している問題だった。
「否。すべてを決めるのはブッダ様、つまり真理である。その真理を知った者がこの世にはいるかもしれないが、そのような者は決して訳知り顔でお前を天上界に行かられせるなどとは言わない。それは到底真理を知った者の言葉ではないからだ」
本当のところ、かつて仏教の中でも自分たちの命令に従わない者に仏罰が下ると脅迫を繰り返した時代があった。
はっきり言って最悪だ。仏の名を騙って、民衆を脅すなどというのは修羅の所業である。
ゆっくりとイスファラはうなずいて、丁寧に一礼をした。それは最初、とげとげしい態度をとっていた女のそれとはずいぶん異なっていた。
「お話、ありがとう。すぐに信じられるかは別だが、少なくとも今の我が国の宗教のあり方に問題があることだけは理解できた」
その言葉だけでアルカインはこの女が何をしようとするのか、すぐにわかった。
――この娘、宗教改革をやるつもりであるな。
それは仏教、あるいはブッダ教そのものではないが、最終的にはこの大陸の民衆に救いをもたらす行為だろう。
だとしたら、出し惜しみをする必要はない。
「よし、おぬしの罪は許す。すぐに朕の国家から立ち去るなら罰を与えることはしない」
これに驚いたのはどちらかというとイスファラというよりナタリアだった。だが、すぐにアルカインは手で制した。
「長い目で見れば、これは我々魔族の利益になることだ。それに魔族の同胞を傷つけたわけでもあるまい?」
「魔王様がおっしゃられるならやむをえませんね」
ナタリアもこう言われては同意するしかない。
「私はお前たちの利のために動いたりはしないぞ。まして、魔族に助けられたからといって恩義に感じたりもしない」
イスファラが不審そうにアルカインを見た。
「慈悲を与えるのもブッダ教の教えなのでな」
こうしてイスファラはサマラント王国のほうに帰っていった。
彼女はやがて氷の女神の宗教で大きな宗教改革を行おうとする。やがて、それがきっかけでサマラント王国では大きな内乱が起こることになるのだが、これはもう少し先の話である。




