第2話 魔王、前世を思い出す
激しい痛みが全身を走った。
それも肉体的なものとは違う。もっと本質的で恐怖心すら抱くような痛みだ。
眼前には、黒いローブに身を包んだ壮年の男がいた。おそらく樫でできているのだろう杖には、橙色の光が宿っている。あの光で、自分が攻撃を受けたのだ。その男の強い敵意の目ですぐにそれも知れた。
だが、次なる攻撃は飛んではこない。その男はとうに力尽きていたのだ。とても、果敢に攻めかかれる体力などない。そして、彼を傷つけた攻撃こそ、乾坤一擲の大博打だったらしい。
ローブの男の周りには、自分の側の軍勢であふれている。中には角の生えた者も、二足歩行の狼もいる。しかし、鎧の色や紋章が統一されているから同じ軍隊なのはすぐにわかるし、つまるところ、人間でないものはすべてこちらの側なのだ。
「くそっ! 失敗したか! 魂を消失させるこの魔法が効かなかったとは!」
ローブの男は悔しそうに歯噛みした。だが、すぐに負け惜しみのように大笑いした。
「のこのこと魔王アルカインみずから前線の戦意鼓舞のためにやってきおったから、これこそ人間が逆転する千載一遇の好機と思っておったが、ワシの修行が足りんからこのザマじゃ! 悲しいかな、この世の神はお前なんぞに微笑みおったようじゃぞ!」
「アルカイン、それが朕の名前であるな……?」
「はぁ? 何をふざけたことを言っておる……? まさか替え玉なのか……?」
「いや、そんなわけはない。朕は魔王として十年、魔族を支配してきた……。だがな、お前の魂に対する攻撃を受けたせいで……前世を思い出した」
自分は前世、正覚という僧侶だった。そして、仏法をこの世界に広めるために魔王という立場で生まれ変わっていたのだ――などという、あまりにも荒唐無稽なことをしっかりと思い出してしまった。
深く考える余裕はなかった。戦場だからというのもあるが、それ以上にやけに頭が痛いせいだ。頭に手をやる。自分の二本の角の一本の感触があった。魔王の一族はみんな頭に角を生やしているのだ。
「魔王様を傷つけた悪党め!」
アルカインが命じるまでもなく、彼の配下の者たちは槍でローブの男を突き刺した。すぐに赤い血が流れだし、男から生気が抜けていく。それでも、即死とはならず、男はアルカインのほうを見続けていた。
「たしかにこの戦はお前たち魔族側の勝利じゃ。しかし、勇者ラスカの一行と人間の国家連合が必ずお前たちを滅ぼす! この世界に三百年ぶりの平和を取り戻す! せいぜい今のうちにかりそめの栄華を楽しんでおくこ…………」
口から血が糸を引くようにこぼれ、男はゆっくりと斃れた。
「よし! 大将格を討ったぞ!」
二本足で立つ狼の男が雄たけびを上げた。そこを皮切りに一斉に歓声が上がる。
だが、アルカインはなぜか悲しみを覚えていた。前世の記憶が素直に喜ぶのを邪魔するのだ。
――相手を滅ぼすことだけに執着するから、この年老いた男も身を滅ぼすことになるのだ。もっと心を静める方法を手にしていれば、むごたらしく死ぬこともなかったかもしれぬのに。
やはり、仏教で世界を平和にするしかない。
ああ、すべての記憶が戻ってきた。自分は仏教をこの世界に打ち立てるべく、竜女様の命令で転生したのだ。
これまではその記憶があいまいだったから、実行することも叶わなかったが、これからは魔族にも、人間にも仏教を布教していこう。そして、世界を一つのものとしていこう。
しばらくアルカインがぼうっとしていると、尻尾の生えた女の騎士が、
「魔王様、お体の具合は大丈夫でしょうか?」
と心配そうに声をかけてきた。
近衛軍の女騎士のサリエナだ。いつも魔王のそばで守護する役目を果たしている。
魔族の中でも人間に近い。尻尾があるから獣のようだが、手も足も腹も獣のような毛は生えていない。どうしてそんなことまでわかるかといえば、やけに露出の高い格好をしているせいだ。
この世界の騎士が肌をやけにさらす金属製の鎧を着ていることは知っているはずなのだが、どことなくアルカインは見ていて恥ずかしい思いがした。前世の記憶のせいだ。
――今まで見慣れておったが、これでは女性に対して余計な欲望を抱いてしまうな……。しかし、ずっと近くで働いてくれているサリエナに、しかも戦場で興奮したから露出を控えろとは言えぬ……。それは魔王の威厳にかかわる……。
「やはり、お顔の色が悪いようですが……。魔王様をお守りすることができず、近衛騎士としてお恥ずかしいです……」
「違う、サリエナ、おぬしのせいではない。いや、ある意味おぬしのせいではあるのだが……おぬしが悪かったわけではない……」
「や、やはり、私のせいでお怪我を……。申し訳ありません! このサリエナ、いかなる罰も受ける覚悟です!」
サリエナは涙目になっている。いけない。今度は女性を泣かせてしまっている。これも僧侶として論外なことだ。
「いや、どうということはない! こんなの一時間で治るからな!」
アルカインは手を振って、無事を示す。
「それより、よく朕を守ってくれた。お前たちの忠義は我らの王朝三百年の歴史に必ずや刻まれることになるだろう」
「「ありがたきお言葉!」」
狼や女騎士を含む数人の部下たちがその場で膝をついた。よく見ると、トゲの生えた亀のような者やドラゴンのような者もいる。いや、いるのが当然のはずなのだが、妙にひっかかる。前世の記憶が急に戻ったことによる混乱が多少は尾を引いているらしい。正覚の価値観からすれば、こういう連中はゲーム内で倒すべき敵であって、味方ではなかった。
そして、そんな仲間たちを見て、アルカインは戦争とはまったく関係のないことを思った。
――こんなにも多種多様な種族がおる魔族の中に仏教を広めるのって、無茶苦茶難しくないか……?
そこに、今度は浅黒い肌の男の戦士が走ってきた。オーガの出身の者だ。
「魔王様、敵は事実上壊滅いたしました。敵の魔法使いオーギュストが討たれたことで、生き延びている者も馬を後ろへ返しております。いかがいたしましょうか?」
いかがいたしましょうかというのは、追い打ちをかけるべきか否か、ということだ。
「いや、やめておこう」
自分たちの命を守るために戦うぐらいのことは容認できるが、戦意のない者を後ろから攻撃して殺すのは仏の道に生きる者のすることではない。ここは慈悲の心で見逃してやるべきだ。
だが、いきなり仏の道とか言い出しても、ぽかんとされるだろうから、
「逃げ腰の敵の一部が退却を諦め、決死の覚悟でこちらを迎え撃とうとしたら、我が軍にも大きな被害が出る。死ぬつもりの敵とはできうる限り、戦ってはならぬ」
別のもっともらしい理由をつけた。
オーガの戦士たちは、いつもと違う命令だと思ったのか、一瞬ぽかんとしていた。結局、ぽかんとされるのか。
「さすが、魔王様は未来を見据えていらっしゃいます!」
とアルカインを讃えた。
「うむ。では、兵員を集めて帰還するぞ。なにせ、光禅寺は山梨でもことさら山の中にあるからな。だからこそ、修行がはかどるわけでもあるのだが」
言ってから、しまったと思った。
「あの……」
女騎士サリエナが恐縮しながら尋ねる。
「『こうぜんじ』とか『やまなし』とはどこのことでしょうか……? コズ・ウェンドの森のことでしょうか? だとしたら戻るというより進むことになりますが……?」
この世界には山梨県もなければ、仏教寺院もない。仏教に似た宗教もない。アルカインの前世の記憶は例外中の例外なのだ。サリエナが混乱するのも無理はない。
ただし、わざわざアルカインは取り乱したりはしなかった。人生経験の長さが違う。
「すまん。戦のせいか、妙なことを口走ってしまった。無論、戻るのは我が城、ザクスラン城だ。驚かせてしまって悪かった」
それで兵たちの不安めいた表情も消えた。とくにサリエナは「本当にご無事でよかったです……」と思わず涙をうるませているほどだ。
しかし、彼らの不安はある種、的中していたわけだが。
アルカインは帰還中、馬に乗りつつ、次の戦争でもなく、領国の経済のことでもなく、こんなことを考えていた。
――どうすれば、仏教をこの世界に効率よく推し進めることが可能であろう。
一年や二年で達成できることではない。だが、この身に転生したからにはこの世を仏の理想郷のようなところにしなければならない。それが自分の任務だ。
なんと、だいそれた望みだろうか。
人間の国家を倒して魔族による大陸統一を達成することなどより、はるかに難しいではないか。
だが、不思議と無理ではないような気がした。
――朕ならば、必ずそのような野望も成し遂げられる。まして、野望は大きいぐらいのほうが面白い。
手綱を引く手をアルカインは、ぎゅっと握り締めた。