第19話 魔王、人間に仏教を説く(1)
人間のスパイが見つかったという報は、すぐに魔王アルカインのもとにも届けられた。
「そうか、そうか。まあ、人間側が調査に来ることまでは織り込み済みではあったのだがな」
人間の国家の情勢は詳しくはわからない。もし、その人間が情報源になるなら悪いことではない。近々、直接会ってやろうと魔王は思った。
しかし、その魔王のところにサリエナがあわててやってきた。
「おお、サリエナか。今日はトラブルに巻きこまれて災難だったな。説法をやったあとは、休憩に入るはずだぞ」
「いえ、早めにご連絡するべきことがありまして……」
サリエナいわく、その人間のスパイはやけにブッダ教の教義について聞いてきたというのだ。
「連中はこちらの教義の穴を見つけたいからおかしくはないと思うが。朕も逆の立場なら難癖をつけようとする」
「それが、どうももっと真剣というか……悪意がないというか……。騎士の直感なのですが、正直者かそうでないかは見ているとわかるんです……。こう、もっと救いを求めているようだというか……」
興味深い説明だった。
――それが事実だとしたら、人間の改宗者を出すことができるかもしれぬな。
そこまでいかなくても、相手が自分の宗教に通暁しているなら、宗論を行うことでブッダ教をレベルアップさせられるかもしれない。
宗教というのはたいていの場合、必要に迫られて登場する。誰も求めていないものが突如として現れるだなんてことはない。たとえば、現世で富み栄え、死後もそれが続くと確信している者が、ほかの宗教を信奉する理由などどこにもない。
たとえば仏教の場合、インドの既成の輪廻転生をベースとした宗教に対するアンチテーゼとして生まれたという事情がある。輪廻転生の価値観だけでは、現世の苦しみが死後も続くことになってしまっていたのだ。
だから、仏教は成立時点から、異なる宗教の人間との議論を盛んに行なったし、行なうしかなかった。初期の仏教の重要人物にもほかの宗教からの改宗者がいたりする。彼らは宗教の議論に慣れていた分、仏教を緻密なものにするのに一役買ったはずである。
宗教も人間と同じように強い敵と戦うことによって生長する。
それを期待して、魔王はそのスパイを王の間に連れてくるよう命じた。いきなりスパイが襲ってきた場合に備えて魔法使い(魔法を使わない者であることの確認はしているはずだが油断はできない)、警護も兼ねてスパイと会っているサリエナ、人間の宗教について自分より詳しいダークエルフのナタリアなどにも出席してもらった。
王の間に出てきたのは齢二十にも見えない、かなり若い女だった。
「おぬしの簡単なプロフィールはすでに尋問した者から聞いておる。イスファラ=マクキソス、サマラント王国の氷の女神ティフールの教えの宗教スパイであるな」
「そうだ。どうせサマラント王国が魔族と敵対しているのは明らかだし、それがわかったところで何もできないだろ?」
殺されると思っているのか、その女はアルカインにも鋭く言葉で噛みついてくる。ナタリアが「不敬罪は重罪ですよ」とたしなめたが、聞く耳など持たない。
「なるほどな。てっきり、この大陸に生まれた、唯一無二の正確な救いの教えを聞きにまいったのかと思ったぞ」
わざとケンカを売るようにアルカインは言った。
「何を! お前たち、邪悪な者たちの教えなど信じるものか!」
「だが、おぬしはやけに朕のもたらした教えに興味を持っておったようではないか。どうせ死ぬとタカをくくっておるのなら、なんなりと質問をしてから死ねばいいのではないか? 死についての認識をあらためても遅くはあるまい」
この言葉はイスファラには少し魅力的に響いたらしい。こちらをにらみつけるような表情がゆるむ。どうやら、教義に興味があるのは確かであるようだ。
「で、では尋ねる……。お前たちは死後の世界はないというが、それは本当か?」
「うむ。あらゆる生き物は死ぬと、その魂が次の転生箇所を定められる裁きの場に引き出される。でなければ魂が死後の世界という場所に移ってばかりでは、魂でいっぱいになってしまうではないか」
「つまり、私たち人間の考えている天上界などはないということか?」
「それは認識の問題だ。お前らの先祖は天上界を永久不変の場所だと誤解したのだろう。たしかに六つの世界の内でも最上のものである天上界に生まれ変われば幸せも多い。だが、生き物である以上、いつかは死んでしまう。考えてもみよ。この世界で衰えて死なぬ者はいない。エルフやヘビ、亀といったものは長命だが、それでも老いることはある……あっ、ナタリア、あてつけではないぞ。おまえはまだ美しいからな……」
この場にダークエルフがいることを忘れていて、アルカインは少しむっとした顔をされた。
「こほん……とにかく、老いない動物も植物もない。なのに、天上界だけ老いから無縁などということはない」
「そ、そんなことはない……。天国に行けばあらゆる果物が無数に生っていて、どれだけ食べても食べるものが尽きることがないと言われていて、永遠に若く美しいままであると教典には書いてあるぞ……」
反論はしているが、イスファラの声は弱い。
どうも、これはあまり自分の国家の神を信じていないようだ。
よし、悪いがこの氷の女神ティフールの教えとやらをこてんぱんにやっつけてやろう。アルカインは心に決めた。本当は相手の宗教を攻撃すること自体があまり品のいいことではないのだが、自分は魔王でもあるのだ。戦闘的なのはやむをえない。
「では、その天国では生まれ変わった瞬間、美しい姿なのか? 赤ん坊から成長するのではなく? あるいはこの世界の姿のまま生まれ変わるのか? だが、老人になって死んだ者が天国で老いた姿では今の話に理屈が合わぬのう」
「そ、それは成長した時点で老いることがなくなるのだ……」
「成長ということが起こるのなら、そこでは時間が流れているというわけか。ならば、老いという概念がないのは不自然であるぞ。そもそも果物が実をつけているということは、果物が成長して、やがて老いて、種が土に落ちないと無理なはずだが。やはり、永遠などはないのではないのか」
「違う、それは人間だけが特別なのだ……」
「この世界にはいろんな動物がいるのに人間だけ特別というのはずいぶん人間中心主義であるのう。おぬしが何を信じるかは勝手だが、とても完璧な教えとは言えぬ。朕の教えのほうがより精緻じゃ」
こうやって誘いをかければ、きっと食いついてくるだろう。
この女はバカではない。顔を見ても、天国というものの抱えている問題点は充分に意識できているはずだ。
――そして、もっと疑問をぶつけてくれ。
こういうひたむきな若者の目を見るのが、アルカインは実のところ、うれしかった。日本に生きていた頃は、仏教なんて古臭いと思われて、若い世代には見向きもされていなかったからだ。
だが、本当は仏教は奥が深いのだ。突き詰めても、突き詰めても、またわからなくなる。
「ならば……お前の言う教えを聞かせてみろ……」
よし、かかったな。
アルカインは内心でほくそ笑んだ。
この大陸の人間にもブッダ教のよさを伝えてやる。




