冷血老人【1】
【1】
こんな事態に陥ると事前に蟲の知らせで把握していたならば、自らの死に涙を流してくれる妻なり愛人なりを持っておくべきであっただろうか。つい数時間前まで自身の老いに真っ向から殴り掛かっていたスティーヴ・ハーディングは、幾度となくすれ違ってきた死に、遂に極限まで近づいた瞬間を噛み締めて夢想した。
SAS(英国陸軍特殊空挺部隊)を引退し、数年前から元同僚の経営する民間警備会社でコンサルタントとして生活費を賄っていた彼は、年を負う毎に衰える身体能力を憂い、その自然の理を良しとしなかった。自分は未だ第一線で働ける兵士である。ただ、折角この歳まで長らえたのだから、わざわざ自分の名が刻まれた銃弾を見に行こうとしないだけだ。齢三七、下士官としては最高位の曹長で現場を引退し、四六まで連隊(SASの意。同隊員は単純に『連隊』と呼称する)の訓練教官を勤め上げ、貯金と退職金で特に面白みのない三年間の休養を過ごしてから、元同僚の誘いでロンドンに位置する彼の企業の幹部へと姿を変えたスティーヴは、前線を退いた言い訳を年齢の所為というまっとうなものではなく、前述の通りに要らぬ作り話でみっともなく繕っていた。その実、現職でクライアントである自意識過剰な成り上がり野郎との相談の傍ら、傘下のオペレーター(民間軍事会社・民間警備会社の実働社員)を育成するインストラクターとして自ら銃を握っているのだから、最前線ではなくとも第一線の後方で活動しているのに疑いの余地はない。
その彼が如何にして生命の危機に瀕しているのか。至極単純ながら、いささか理不尽でもある自然の魔手に墜ちたとでも形容するべきだろうか。簡潔に示せば、いい大人が自然の摂理に身ひとつで刃向かったところ、運悪く返り討ちに逢ったのだ。運悪くと述べた様に、彼の戦いには勝算が大いにあった。ある時点までは、その筈だった。
臨時で三日間の休暇を手に入れたスティーヴは自前の装備を携え、休暇の全てをウェールズ南部に位置するブレコン・ビーコンズ国立公園、その最高峰たるペン・イ・ファン――連隊ではペネヴァンと称される――を踏破し、かつそこで電子機器に頼らぬ時間を過ごそうと計画した。これには酷く情けない理由がある。
五十を半ばまで経たスティーヴ中年であるが、連隊勤務であった当時と変わらず、早朝のランニングと定期的なトレーニングを欠かす事はなかった。年を経る毎に時間・距離のノルマを減らしはしたが、決して習慣を断つ行動には至らなかった。その彼が、同じく早朝のランニングに執心する青年と、公園ですれ違った時だ。何食わぬ顔で、大学生らしき彼は声を掛けた。「おじいちゃん、元気だな!」ランナー体型のスティーヴの鋼の肉体から、チタンの骨格が抜けた。――おじいちゃん。
彼はその事実に目を背けていた。だからこそ、毎朝ふんふんと鼻息を漏らしながらに肌寒いロンドンを脛毛丸出しで疾走していた。その結果が『頑張るおじいちゃん』である。肉体の弱化を包み隠して引き離す筈のランニング、迫りくる老化を殴り飛ばして彼方へと追いやるベンチプレスが本末転倒――自らそれに向かって猛進し、力強い抱擁を以て迎えたのだ。五十半ばの男性を、第三者が老人と労るか中年と呼ぶかは、彼らの判断に委ねられる。つまり、スティーヴ・ハーディング元曹長は、傍から見ると介護対象のおじいちゃんに見えなくもないのだ。それこそ、六十台か七十台かでさえも怪しい程にだ。彼の容姿はと言えば、長年に渡る軍隊生活と行軍でシベリア在住民の如き深い皺が無数に刻まれ、実年齢より十は老けて見える。くすんだブロンドの髪には白髪が混じり、それが数少ないお洒落である口髭にも伝播している。瞳は未だ煌々と輝いているが、目の覚める碧眼ではなく、虹彩が冷たいグレーであるので、他者に無駄に冷酷な印象を抱かせる。一九〇センチ近い身の丈は見る者を威圧し、畏敬を錯覚させる。それらが一つの鍋で煮込まれ、他者が下した彼へのイメージが『元気なおじいちゃん』なのだ。元気はどうでもいい、それはプラスに働く。問題はおじいちゃんだ。俺はおじいちゃんではない、おじさんだ。つまらぬ狂言が彼の思考を支配し、やがてやけっぱちの脳味噌が一つの打開策を導き出した。「他人の評価が気にならなくなるくらいの実績を作ればいい。そう、今から」
そして得られた休暇をフルに使っての強行軍の予定を、自宅で牛乳のグラスを片手に練り始めた。目的地はSASの選抜訓練で実際に用いられる、ブレコン最高峰――ペネヴァンだ。そこで野営を展開し、ついでに弱った脳に焼き付けられない分の大自然を、ニコンの一眼レフカメラにたらふく収めてから帰る。下山すれば写真屋に着の身着のままで突っ込み、急速に現像させる。それらをB5サイズの媒体でロンドン郊外の自宅に持ち帰り、一枚ずつ額に収めては、若かりし入隊志願者であった自身を想起して悦に入る。そういう計画であった。
ただ、彼も連隊で大自然の恐怖を身を以て知っている上に、やはり自己満足の為とはいえど死にたくはなかったから、冬季のブレコン・ビーコンズを訪れるのだけは避けたかった。SASの選抜訓練は夏季と冬季で一回ずつ催されるが、冬季のブレコン・ビーコンズは低体温症による死者が出た事――その中でも、マイク・キーリー少佐の非業な死は、頻繁に語り草となる――もある。しかもそれが既に入隊していたベテランの教官であったから、ぞっとしないものである。ただ、夏は夏で熱中症による死者が出た。また、夏季でも低体温症に陥る可能性はある。スティーヴ・ハーディングは八月の中旬、正にそれに襲われていた。
「明日から数日間、ウェールズは比較的に温暖な気候となるでしょう」三二インチのプラズマテレビの中からそう告げたブロンドの気象予報士のねーちゃんに、スティーヴは唾を吐き掛けてやりたかった。お前の所為だぞ、あばずれめ。てめえがそんなデマを数日前に吐くから、俺はこの日に休暇を取った。それがこのざまか!給料泥棒!同じベッドで寝たとしても赦さない!どれだけ心の中で喚き散らしたところで、それが高学歴のブロンド女に無線で伝わる由もありはせず、スティーヴは轟然と吹き荒れる吹雪の猛襲を一身に受けていた。
休暇の初日、彼は愛車を駐車場に預け、物々しい装備を身に着けてブレコン・ビーコンズに臨んだ。〈ダナー〉のブーツが草とその下の固い地面を噛み、着々と歩みを進めていた。この際、彼は外被にデッドストック(放出品。軍の官給品の余剰品などが、一般市場に出回ったもの)のDDPM迷彩(イギリスの代表的な砂漠迷彩)の防水スモックを着込み、荷物が満載された同迷彩のベルゲン(フレーム入りの背嚢)を背負っていた。ベルゲンの中身の総重量は裕に二十キロを超えていたが、それを苦ともせずに植物の生い茂る数々の尾根を越え、肌寒い気候に対し肩で風を切って、深く抉れた谷を確固たる信念と共に蹂躙していった。「俺は兵士だ。おじいちゃんじゃない」公園のスタート地点からペネヴァンの足元まで、ぶっ続けで歩いて陽が傾きかけた時分に、背の低い草に覆われた平坦な地面を見付け、そこに小さなテントを張って、すぐ傍でホワイトガソリンを用いるストーブに点火し、持参した食材でポトフを作った。連隊仕込みの、調味料頼みの料理に舌鼓を打ち、誰に聞かせるでもなく、自分は兵士だと呟き続けた。陽が落ちればすぐにテントに這って入り、ランプのぼうとした眠たげな光の下で新兵を対象とした教本を読み、自身の記憶の鮮明さに満足がいくと、もそりと寝袋に潜った。
二日目、目覚めて一杯の紅茶を沸かしてからテントをつつがなく畳み、全快した体力に物を言わせてスティーヴはペネヴァンの急斜面にブーツのソールを食い込ませた。前日よりも僅かに気温が下がっていたが、スカッドミサイル破壊任務に赴いた湾岸戦争のイラクの夜と比べれば、十分に許容範囲内であった。高精細の地図と〈シルバ〉のコンパスを十分おきに眺め、事前に指定した目的地へのナビゲーションが的確であるのを確認する度に、スティーヴは高揚した。「俺はまだ腐っちゃいないんだ」童心に帰り、薄い霧の中で水滴が皮膚に付着するのを愉しみながら、意味もなく両手に発光させたサイリュウムを持ち、ぶんぶん振って頂を目指した。「老兵と呼ばれるには早いんだ!最高峰が何だって言うんだ!」この時、彼が犯した最大の失敗は、個人的な妄想を雑音で掻き乱さぬ為に、ラジオの電源を入れずに孤独な行軍を続けていた点にある。
陽が地平線に隠れ始めた頃、わざと遠回りを何度も行ってペネヴァンの頂を踏んだスティーヴは、四ギガバイトのメモリーカードいっぱいまで高画質の写真を撮り、来たる写真屋襲撃に期待を膨らませつつ、次の行程へと頭の中の予定表の矢印をずらした。――夜間行軍。視界の殆どが垂れ込めた闇に呑まれた山地を、ライト一本と己の知識のみで踏破する。それも元来た道ではなく、逆方向に抜ける形でだ。まずは陽が落ちるのを待つのと、急傾斜で疲労した脚部を労う目的で、ベルゲンからストーブを取り出してカレーの準備を整えた。第一の目標の達成に余興を欲してラジオの電源を入れ、高地と霧で満足な電波も得られない中、ノイズ混じりの音楽鑑賞に浸ろうとチャンネルを合わせている最中であった。その途中で拾った音声に、スティーヴはジャガイモの皮を剥く手を止めた。
ウェールズの気温が、ウェールズを中心に急激に下がっている。まさか。スティーヴは我が耳を疑ったが、過たずラジオはそう告げた。しかも、判別が困難であったが、確かに自分をこの日にこの場所へ差し向けた、あのブロンドの気象予報士の声であった。「あんた、温暖な気候がどうのって言ってたじゃないか」ナイフをシース(鞘)に収めてラジオを握り締め、音量を上げた。気象予報士は他人事の様に――事実、そうなのだが――テンプレートから外れた状況をしどろもどろに口外し、ブレコンを中心とした気温低下の事実、それの原因が不明である点、突飛な暴風雨の可能性を考慮して屋内に閉じ籠もって窓を閉める様にといった注意を発した。冗談じゃない!こっちはそのウェールズの、幾多の人間を屠ってきた峰の頂上にいるんだ!ふと手許に視線を落とすと、ジャガイモの皮の剥けた部分が強かに凍り付き、皮に霜が降りていた。ふざけるな!スティーヴはあらん限りの怒りと焦りを最大限に利用して、可及的速やかにストーブをベルゲンに押し込み、まだ発光しているサイリュウムを胸に吊るし、外気に晒されていた両手と顔にグローブとシュマーグ(アラブスカーフ)を装備し、峰を真っ直ぐに転がり落ちる様に駆け下りた。
瞬く間に青みの掛かった灰色の分厚い雲が頭上に垂れ込め、足元の草が白く輝き、身を切り裂く冷風が吹き荒み始めた。吐息がシュマーグの中で凍結し、布がぱりぱりと音を立てる。唸りを上げる風が眼球を痛め付け、全身の感覚が次第に麻痺していった。暗くなった周囲に対抗し、スティーヴは〈シュアファイア〉のライトを点灯させた。まだ四百メーターと下りていない。ペネヴァンの標高は海抜八八六メーターだ。気候が本格的にまずくなる前に何としてでも下山し、最短距離で峰を横切って街に出なければならない。山地の気候の変化には激しいものがあるが、これはそんなものに止まらない。天変地異を凌駕する何かがイギリスに降り立ったと、呼気を荒げながらもスティーヴは冷静に判断した。神経細胞の刺激の伝達における速度と同じくらいに走りたいが、凍て付いた背の低い草に足を取られる。これが老いか!そう直感した時、灰色の雲にうねりが生じ、地面に降りていた霜が突風に巻き上げられた。あり得ない。幾らSASの志願者を潰してきた難関ペネヴァンと言えど、こんな事態があってなるものか。荒縄で縛り付けられた様な身の痛みに流した一筋の涙が、流れの途中で凍結した。ここはアラスカでもなければ、シベリアでもない。南極でも、北極でもない。では何故、イギリスという島国で吹雪が巻き起こっているのか。ペネヴァンをあと二百メーターで下りられるという地点で、強烈な風に脇腹を殴り付けられて、スティーヴは肩から地面に倒れ込んだ。九十キロの図体が受け身も取らずに転がったにもかかわらず、痛みがなかった。それどころか、倒れた場所に成長した霜――と呼ぶよりは上向きの氷柱――が肩に突き刺さっていたのに。鮮血が一瞬でぐちゃぐちゃした氷になって、傷口を抉った。だが、腕に傷を負ったのは彼にとっての重大な問題ではなかった。それよりも先に、通常では考えられない速度で彼の身は低体温症に侵されていた。論理的な思考が奪われ、既にどの方角へ向かえば下山出来るのかも分からない。地面には分厚い氷の絨毯が敷かれ、顔の半分が埋もれてしまった。ライトから発せられる光線は吹雪に反射し、妨げられる。神経が末端から麻痺し、すぐに身の芯を蝕み始めた。機能しなくなった脳味噌はひたすらにブロンドの気象予報士に毒づいていた。あの、くそったれ。呪い殺してやる。
もう、立ち上がれない。歴戦の元特殊部隊員も、一歩さえも歩けなかった。最後の気力を振り絞ってライトを上向きに雪へ突き刺し、胸の二本の赤のサイリュウムでVの字を作った。国際民間航空機構対空信号における、救難信号だ。それを済ませると、認め難くはあったが、自らの衰退を蔑ろにしてしまった愚行を我が身に謝罪し、もしも生まれ変われるなら、もしもまたそれが人間であったら、向こうの連中に手間を掛けさせる事のない様に、母親の腹中で丸まった胎児の姿となってその場にうずくまり、静かに瞼を下ろした。『連隊』の一員として生を受けた場所で、その大自然に抱かれて死ぬ。結構で滑稽な話じゃないか。
皮膚の感覚が失われ、何分、いや何秒が過ぎただろうか。暴力的なまでの吹雪の轟音を割って、別の何かが移動する音が、虫の息のスティーヴの耳に届いた。彼と荒れ狂う吹雪以外の要素がその場に介入してきた事実ではあるが、目を開ける事もままならぬ今や、確認のしようがなかった。第一、死の際に立てば大抵の物事は煩わしくなるものである。現段階におけるスティーヴは、そそくさと死ぬ事を願っていた。国の為に二十年以上を捧げて、安らかな死さえもくれないのか。劣悪な環境の荒波に揉まれて鍛え上げられた屈強な精神が仇となり、彼はそう易々とくたばれなかった。
雪を踏み締める音は徐々に近付き、やがて彼のすぐ傍までやってきた。死肉を漁りに来た熊だろうかと考えたが、ブレコン・ビーコンズにそんな大きな動物は生息していないと、すぐに思い返した。これだけの判断力が残っているのに、運動神経は着いてきてくれない。凍傷まみれの身で悔やんでいると、微かな衝撃が肩――感覚はないが、多分その辺りだろう――に走り、そこから尻を引きずられた。まさか、本当に熊なのではないか。そいつが自分の身体の何処かを咥え、やつの穴倉に向かってへ引っ張っているのではなかろうか。死ぬのみに止まらず、畜生の餌になるとは。余りの不甲斐なさに、スティーヴは内心で滝の如き涙と嗚咽を漏らした。「俺が何をしたって言うんだ。そんなに老化を憂うのが罪なのか」
五感で唯一生き残っていた聴覚が、スティーヴの心の悲鳴を止ませた。吹雪と自身が引きずられる音で大部分が掻き消されているが、自分を掴んでいるそいつが発するそれが聞こえる。肉食動物の口から発せられる臭い呼気や、未開の地の原住民が歌う奇怪な賛歌ではない。呻き、それも恐らくは女声だ。自分はか弱い淑女の手によって助けを得ている。いけない。複雑な思考がほぼ不可能となっているスティーヴだが、即座に危機感を覚えた。そしてライトとサイリュウムを地面に設置したのを後悔し、自らを米海兵隊教官がそうする様に叱責した。俺を助ける以前に、この女が凍死しちまう。自分が死ぬだけならいいが、正当な理由もなしに面識のない人間を殺したとあれば、死後もどんな待遇を受けるか分からない。そんな世界が別にあろうがなかろうが、行ってみなければわからないが、彼もそんな気分で最期の時を迎えたくはなかった。だが同時に、もしこの女が無事であって、自分も安全な場所に辿り着けたなら、やはり生き続けたいとの願いが萌芽した。朦朧とした意識で救難信号を作っている辺り、やはり死は受け入れたくなかったのだ。
女は時折、大きくため息をつきながらにスティーヴを引きずり、その内に何度か方向転換をした。不思議な事に、女の歩調は全く以て安定していた。数度の方向転換の後、尻から走る衝撃の種類が変わった。均質な雪を滑るそれではなく、固い土の上を引きずられているらしい。もし自分がいる場所が土の上だとすると、そこは雪に蹂躙されていない事になる。もしかすると、自分は助かるかもしれない。そういった希望はスプーン一杯ほど持っていたが、あとは頭を地面へ垂れて絶望を向いていた。ここが安全な場所で、尚且つ暖を取る手段があったとしても、手遅れだ。全身に渡る凍傷が、俺を殺す。凶悪な肺炎が、血液の健康を阻害している。性質の悪い死に方だ。癌の如く、一気には殺さないが、確実に死ぬ。生の終着駅を実感し、スティーヴは最期に女の努力へ対して礼を言えずに散華するのが心残りとなっていた。この歳まで汚い冗談を飛ばしていたのに、肝心な時にまっとうな言葉が出て来ない。そもそも、あんたは誰なんだ。
不意に、女が呻き以外の音を発した。ちゃんとした言語だと判別出来たが、妙な塩梅であった。発音も語調もたどたどしく、何やら稚拙な語彙を並べただけの、日本人の英作文を髣髴とさせた。ここで彼が英語圏外の人間ではなく、日本人と特定した対象を示した理由は後述するが、ともかく酷い文法であった。まるでガイド頼りの観光客みたいだ。これでは礼を言えたとしても、こちらの英語で通じるかも危うい。そんなやつに看取られるとはと苦笑したが、くたばり損いの新皮質が解析した情報によると、どうやら彼女の呪文はこういった内容であるらしかった。「あんた、生が欲しいか」ああ、欲しいさ!出来ればだが、完璧な形でな!それが不可能と承知していた彼は、冗談半分に肯定の返事を寄越した。首は振れなかったので、息を一つ吐いた。一つでイエス、二つでノー。果たして通じるだろうか。
しどろもどろに女は続けた。「後悔はしないか」声は綺麗だが、regretのアクセントは一つ目のeにはないぞ。神経が死んでも生き長らえた老婆心が顔を覗かせたのには閉口した。一体何へ対する後悔か分からないし、それの説明を受ける時間も自分には残されていないだろうと踏んで、また一つ息を吐いた。
女は更に続ける。「あんたは別物になる。それを受け入れるのか」別物!何だいそりゃあ!この内容の把握し難い言葉で、スティーヴの妄想における最高傑作が形を成した。この女はきっと天使だ!自分が死の淵に立った事で、お上から命じられて魂の回収に来た天使ちゃんだ!今まで知らなかったが、直接回収とは何とアナクロな方式だろう。まるで『フランダースの犬』だ。あれは回収に何人――まあ、匹と数えるのは可愛そうだろう――か天使がいたが、それはネロのみならずパトラッシュも同時点で死んだからだろう。でなければ、神様が彼らの賞賛に値する行為と悲劇的な生涯に対してのサービスだ。
また、俺に生き続けたいか、加えて別物たる人外になる条件を呑むかというのは、俺に天使へと転職する機会を与えているのではないか。先進国で連日に自殺者が計数カウンターを進め、アメリカが民間警備会社を通じてイラクやアフリカにオペレーター――傭兵と称するのは語弊がある――を派遣しまくっている世の中だ。今いる天使だけでは、従業員の定時の退社がままならないくらいに仕事が山積みなのだろう。勧誘に成功した者には特別報酬が支払われるに違いない。
天使がどんな仕事を押し付けられるのか知る術はないが、このまま死んだら、今度は死神が否応なしに地獄へ後ろ襟を掴んで引きずって行くやもしれない。そっちでは強制的に堕天使やら悪魔やらに任じられて、鎖で吊るされて溶岩が煮立っている鍋にぶち込まれては引き揚げられる、お偉方の見世物になったり、醜悪なイボや棘が密に生えたちんぽこをケツにぶち込まれたり、もっと酷いとアザゼルのサンドバッグとして直々にぼこぼこにされるかもしれないと恐怖し、決断の一息を吐いた。どの道、二回分を吐くだけの余力は肺に残っていなかった。おっさんが天使になったら、さぞや不格好な姿だろう。だが、如何なる形であれ、この年齢で劣化しない容姿を保っていれば文句はない。何より、自身の存在が消える訳ではないのだから、これ程に喜ばしい事はないと捉えるのがスティーヴの思考体系と行動理念であった。早い話が、美味い話には後ろを見ずに飛び付く種類の人間であった。
数十秒後、スティーヴの紫を経て黒色に変じた唇に、湾曲した硬いものが当てられた。それが杯だと何とか理解した時には、その中に注がれていた、どろりとした液体が口内に進入し、それを飲み込むのに女がゆっくりと彼の顎を引き上げて、気道を確保してくれた。天使というやつは、指先から発せられる光線で手軽になれるものではないらしい。馬鹿な事を考えつつ、彼は液体を嚥下した。とうの昔に味覚はお亡くなりになっていた。食道を通じて液体が胃に落ちると、酷い寒気と悪寒が同時に襲ってきた。心臓を始めとした臓器が凍る様に冷たくなり、首筋に猛烈な不快感が走る。天使になるのも楽じゃあない。二種類の寒波が爪跡を残して過ぎ去ると、抗い難い眠気がやってきた。ああ、これできっと、目覚めた時には天使になっているのだろう。もしかしたら手遅れで死んでいるかもしれない。まあ、それに耐えられるくらいに自分が丈夫であるのを願うのみだ。意識が山間の清流にゆっくりとさらわれる様に薄れゆくのに身を任せ、スティーヴ・ハーディングは人間として最後になる眠りに就いた。
スティーヴが快い深い眠りに落ちてから九時間と少しの時を、彼の左腕にはめられた時計が刻んだ。〈トレーサー〉のこの時計は、猛吹雪を生き残った数少ない存在であるが、それの装備者もまた、冷たく凍り付いた指先の感覚を取り戻し、分厚いタオルケットの上でダンゴムシの如く丸めた身を緩慢な動作で伸展させようとし、洞窟の壁に足をぶつけた。思った以上に狭い。乾燥した目をしばたたき、スティーヴは目覚めて最初の悪態を心で発した。
ペネヴァンには自然の作った洞窟が多数見られるが、これはその中でも結構な規模を誇るものらしい。今やすっかり落ち着いた気候となったペネヴァンに臨む洞窟は、穴からの奥行きが約五メーター、幅が三メーターの空間が広がり、高さは一メーターと五十センチくらいある。内部はほの暗く、地面は殆どが土で覆われており、石で尻を痛める事もない。入念な調査と事前知識があれば、数日は暮らせるだろう。そんな風に悠長に考えつつ、スティーヴはいつの間にやら身に掛けられていた毛布から這い出し、欠伸を一つかいた。
天使に生まれ変わったといっても、外見の変化は乏しいらしい。まあ、凍傷と肺炎が全快したのに文句はあるまい。上半身は裸体で、肩口にはご丁寧に赤黒く染まった包帯が分厚く巻き付けられている。氷柱の突き刺さっていた部位に痛みはない。未だ天使の存在を諦めぬおじさんは、頬を両手でむにと引き伸ばし、皮膚の感覚を確かめた。成る程、俺は生きている。しっかりとした温度と感覚を取り戻したとして、満足げに微笑み、呼吸のし辛い姿勢で凝り固まった身体を伸ばした。節々がぼきぼき鳴り、血流が正常な経路を通って全身に渡る事で大分楽になった。
――さて。そんな風にして現実を蔑ろにしていたが、ここでようやく彼もそれと向き合った。自分が天使になろうがどうしようが、確認せねばなるまいよ。綺麗に畳まれた状態で地面に置かれていた、血まみれの上着を羽織りつつ、洞窟の奥で平凡な土鍋とガスコンロを前にして、壁に寄り掛かって安らかな寝息を立たせる和装の女性に、冷めた灰色の目を向けた。その傍らには革の旅行鞄が二つ置かれ、大量の缶詰や水のペットボトルが満載された紙袋が転がっている。スティーヴは洞窟の天井に頭をぶつけない様に、腰を屈めてそちらへ這った。女の腰まで裕に達しているその髪は、透き通った銀色の一色で彩られ、くっきりした二重瞼、すっと通った眉と長い睫毛が印象的である。化粧っ気も見られず、彼女は所謂、美人の典型であった。毛の色と白い肌からしてスラヴ系かとも判断しかけたが、顔付きを見る限りは日系で、それも朝鮮系のきつさが見られない事から日本人と判断した。馬鹿な、脱色なんぞしおってからに。スティーヴは生まれ付きの毛色を大事にしていた。しかも眉と睫毛もか!しかし死の際から助けて貰った手前そんな風には罵倒せず、揺り起こそうと手を伸ばした時だった。ただの美人だと思っていた女の美貌に、年甲斐もなく彼は惹かれた。厚みの薄い唇は桜色で、外気に対して無防備に晒されており、僅かに白い歯が垣間見える。柔かな線を描く目尻からは、双方から薄い涙の筋が引かれ、首元にまで伸びていた。容貌の各所に何処かあどけなさが残り、身の丈――一七〇センチはないと見られる――と照らし合わせての年齢の判断には、困難を極めた。膝の上に重ねられた両の手も白く、白魚の手を体現した様だ。何てこった。本物の美人じゃないか。
身に着けた色無地(黒以外の一色無地染めの着物)はひたすらに白く、見える範囲では何処にも紋が縫われていない。首元に覗く長襦袢は深い紺色で染められており、その内側の女の肌の白さと照らし合わせると、強いコントラストを生じさせていた。腰できつく結ばれた濃い紫の帯にも模様はなく、その姿で眠っているのに、少しの乱れも見られない。人間離れしていると思い、スティーヴはすぐに考えを改めた。「人間じゃあなかったな」それならば、日系人の顔で銀色の頭髪を有していてもおかしくはない。ところで、スティーヴはおつむの色々な所がおかしくなっていた。
まあ、これ程に綺麗な天使ちゃんなら、声もきっとそうだろう。薄れゆく意識の中でさえも素晴らしかったのだから、今の状況で聞けば卒倒出来るに違いない。そうしてようやく彼は女の肩に触れて揺り起こし、彼女はその眠たげな瞳を緩やかに開き、何度かしばたたいた後に、眼前のおじんに気付いて見当識を取り戻し、唐突に慌てた様子で何かを口走ろうとし、結果として透き通った心地の優しい声で、奇怪な呪文を発するに至った。ああ、やっぱりだ。天使も派遣地の言語くらいは習得させる様に、こいつの上司と掛け合う必要がある。スティーヴは長らく眠らせておいた分野の知識を脳の奥底から呼び覚まし、舌の実行ファイルのプラグインとして適用した。――英語の日本語化ファイルだ。
「とりあえず『地球の歩き方』に載ってる程度の語彙は蓄えておけ。それじゃあ豚とも会話が成立しないだろうよ」
身元不明の野郎の口から飛び出た完璧な日本語に目を皿にしつつ、女は両手を胸の前で交差させて口を開いた。
「……日本語がお出来で?」
「前に親の仕事の都合で住んでいてな。まあ随分と昔の事だったが、憶えていて助かった。じゃなきゃ、あんたと身振りで意思の疎通を図る羽目になっていただろうからな」
意地の悪い笑みを浮かべるスティーヴに対し、女は綺麗な眉をひそめて警戒の念を露呈した。
「そう睨むなよ。救って貰った事には、これでも感謝しているつもりなんだ。で、どういった理由で俺は助かったのかな?」
流石にこの状況で天使の話題を出すのは自分が火傷をするだけであろうと判断し、そこで口を閉じた。この女にも自分にも、羽根が生えていない。判断材料はそれだけで十分だ。いよいよ天使ちゃん以外の可能性が湧いてきたぞ。どの道、ろくでもないものに相違ない。女は俯いて口籠もり、一体何から話せば良いかを考えあぐねている様子であった。
「分かった、こうしよう。俺はスティーヴ、あんたは?」
女は助かったといった具合に面を上げ、か弱い印象を抱かせつつも芯の通った声で答えた。
「ミユキと……申します」
「ミユキ……。どう書くんだ?」
スティーヴは地面に転がっていた小石を拾い上げ、洞窟の土壁に軽く当てた。
「その……深い雪と書きます」
記憶の抽斗を一つずつ引いては戻し、スティーヴはかつて脳味噌に叩き込んだ数千個の漢字の中から、その二つを探り当て、壁に刻む形で出力した。全く、どうしたって幾つかの記号と二六個の字で出来る事を、わざわざ出力に時間の掛かる媒体で残そうとするんだ。彼の静かな怒りは、中国に向けられていた。「AKは違法生産するくせに、SA80はちっともラインに乗らねえ!」誰だって、使える物は分かる。分からないのはイギリスと日本とアメリカとヨーロッパだけだ。
「こうか?」
「はい、正にその通りです」
正確に刻まれた名を確認した途端に表情を和らげて微笑む深雪に、スティーヴは忘れかけた本能を揺さ振られた。「やばい、押し倒したい」とあるボクシング大会の優勝賞品がこの女なら、若かりしマイク・タイソンだってぶっ飛ばすだろうと、復活から間もないというのに、スティーヴ中年はお盛んになっていた。「まるで若返ったみたいだ!」こいつがヘリフォードのでぶの娼婦であれば、何の躊躇いもなく両手が双丘に緊急着陸するのだが、どうやらこの深雪はそれと対極に位置する奥手というやつらしいから、最初にその肩に触れてからは直接に触れ合わずにいた。
互いの名前も知れたところで、スティーヴは核心である質問を一つずつ投げ掛けた。自分はどうして助かったのか、唐突な吹雪の原因は何だったのか、何故にあの猛吹雪の中で深雪がここにいたのか。その全てに深雪はうな垂れて、答えられないとの意思表示を行った。
「まあ、答えられずとも、俺がこうして生きている上でさしたる問題はないんだが、やはり気になってな。凍傷に肺炎、それからこの肩に氷柱がぶっ刺さっていただろう?あれが起きれば治っているんだから、不思議としか言い様がない。一体全体、何が起きたのか知りたいっていうのが人間ってもんだ。無理強いはしないが、出来る事なら訊いておきたい」
ベルゲンから取り出したチョコレートバーを齧って腹を満たすスティーヴに、深雪は至極きまりの悪そうな顔を向けており、かなり気後れした様子であった。しばらく両者の間に沈黙が流れ、深雪がそれをそっと割いた。
「場合によっては、三つ目の質問にはお答え出来ます」
「その場合ってのは?」
スティーヴはチョコレートバーの最後の一口を放り込み、一気に咀嚼した。事を楽観視する彼とは裏腹に、深雪は酷く思い詰めた具合で口を開いた。だが、スティーヴ・ハーディングは傍目には真面目に取り合っていない様に見えるが、実際には一つの見当を付けており、それが実現するかどうかの確認を取る為に、深雪に疑問を投げ掛けていた。
「一つ、これだけは約束して戴きたいのですが」
「何を」
彼女の言葉は、彼の予想の裏付けに一役を買った。
「絶対に、私とここで会った事を他言しないと、承知して戴けますか」
ああ、これは来たな。スティーヴの背筋に鳥肌が立った。この洞窟で目にした様々な情報に頷きつつ、現実でも強く首肯した。休暇中に訪れたペネヴァンで猛吹雪に殺されかけた事が幸か不幸、どちらに転ぶか知った事ではないが、何やらとんでもないやつに会ってしまった。そして彼はその事をえらい幸運と捉えていた。
深雪は深く考え込み、下唇を噛み締めた。大丈夫だよ、お嬢さん。俺は北アイルランドで捕虜に取られた時だって、情報を漏らしたりはしなかった。重い口を開いた彼女の瞳は、僅かに潤んでいた。
「では、お話しします」
「是非ともそうして貰いたい」
本当は腹が減って仕方がないのだが、これから耳に出来る情報と天秤に掛ければ、そんなものは三日先に延ばしても構わないと判断し、口をつぐんだ。
「スティーヴさんは……雪女という妖怪をご存知でしょうか」
スティーヴ・ハーディングはSAS選抜訓練の合格を含め、この時ほど狂喜乱舞に値する経験はなかったと確信した。――素晴らしい、大当たりだ。天使にあらぬそれとの邂逅を果たし、スティーヴの口角が自然と持ち上がった。




