―結―
「しょうにんさま、星がふってくる」
恐怖で縛られていた村人たちの耳に、無邪気な子供の声が響いた。
「星……?」
ちらちらと、冷たく、はらりと頬をかすめておちるもの。
急ごしらえのがんどうの灯りの中に、白く、白く。
「お空に星がのうなって、ほら、降ってくるよ」
晴れ渡っていた夜空は、いつしか重みのある闇にとって変わっていた。その空から。
「雪じゃ……」
「もう、降り始めおった」
一段と、寒さが増したように皆には思えた。楽しげに、木々の枝の隙間からこぼれるそれを追うのは、子供たちだけだ。
「将月様たち、どうなったかの……」
「でも、追手もこないようだよ。うまくまきなさったんじゃないかねえ」
「迷わず、追いついて来られるといいがの……」
大人たちのひそひそ声などどこ吹く風と、寒さも、恐怖も、子供たちにはまだ遠い。
雪、雪、と笑い声が響く。
ふいに、その子供たちがおし黙った。何かに、一心に耳を傾けるかのように。
そして、か黒い森の彼方を、一斉に見つめた。
「りんの音だ」
「うん」
「りんの音がする」
大人たちは顔を見合わせた。何の音も、彼らには聞こえない。
「ほら、また」
「うん、おいでおいでって」
一瞬顔を見合せ、きららかな笑い声をあげて、子供たちは我先に駆けだした。
「あっちだね!」
「うん、あっちだよ!」
「これ、行くな! この闇、この山で迷うたら、死ぬぞ!」
あわてて捨吉が子供たちを追った。子供たちは、何かを目指している。何かの声を聞いている。だが、それが何であるかは、捨吉にも、他の者にも、聞こえず、見えない。
「すだまこだまの悪さじゃ!」
「山の化け物に、おふみたちがたぶらかされたよう!」
おろおろと、大人たちも必死で子供たちを追いかけ始めた。老僧にも、一体何が起こっているかはわからない。ただ、ほんのかすかではあるが、彼もまた、その音を聞いた。
りん。
闇の中を、子供たちは軽やかに木の根を飛び越え、枝をすり抜け、駆けていく。
足をとられ、下枝に顔を打たれながら、そのあとを大人たちがようよう追う。
「おふみィ」
「松坊、留吉ィ、どこにいくだあ」
りん。
「上人さま、大丈夫だか。おらがおぶうていきますだ、さあ」
「あ、ああ、大丈夫。大丈夫だ、お前も、子供たちを追いなさい」
気づかう若者の申し出を断り、妙に軽く感じる杖で、彼も必死で足を早める。僧には、ききなれた音であった。勤行のたびに、その手に振っていたものの音だった。
もはや捨吉も、山での指図どころではない。なのに、誰一人、崖や沢に落ちる事も無く、夜の山を走っているのだった。そんな体力も注意力も、誰にも有るはずが無い。床についていた年寄りも混じっているのだ。なのに、無尽蔵の活力が、彼らを満たしていた。
彼ら自身も、それに気付かない内に。
──無駄死にすんなよ。
ぎょっとして、老僧は足を止めた。
まるで、誰かが自分を支えていたかのような近さで、声が聞こえたのだ。
錯覚──
だが、ちん、と澄んだ音を、僧は己の胸にはっきりと聞いた。
懐を探った震える掌は、黒い独鈷を掴んでいた。
「ま、まさか、」
子供たちが、ようやく足を止めていた。何かを拾い上げ、輪になってそれを囲みながら、きょろきょろと辺りを見回している。
「あれえ、れいげつさま、いなくなっちゃったよ」
「りんはあるのに」
「お母、お父、れいげつさま、どこにいきなさっただ?」
やっと追いついた大人たちに、子供達は不思議そうに尋ねる。もとより、親たちは答えられはしない。
「そんな、まさか」
「いくらなんでも、おらたちに追いついて来れる訳がねえ……」
子供たちは、思案顔の大人たちを放って、大好きな老人の回りに集う。
「しょうにんさま、はい」
「しょうにんさまのりんでしょう?」
金銅の五鈷鈴。紛れもなく。
「う、嘘だ、いつのまに……」
呆然と、捨吉が来し方を振り返った。
「どうしただ、捨」
「お、尾根を、越しとる……こ、ここはもう、国境の峰ン中だ……」
「はあ、いつのまに」
「夢中で、子供ら、追っていたからのう」
灯が、ふいに彼らを照らした。
捕手? あるいは鬼火か。
「坊様? そこにおいでなのは、何時ぞやお会いした坊様ではないですか?」
「おお、そなた、木地師の──」
一見して百姓でないとわかるみなりの男が、松明をかざして、こちらへやって来るところだった。皮の上着に裁っ着け袴、大鉈を腰にぶら下げている。
「上人様、こんな山のなかに、知り合いがいなさるかね」
おそるおそる、赤子を抱いた女が、老僧に耳打ちする。
「案ずるでない。お前たちの村にたどり着く以前に、世話になった方なのだよ」
「とんでもねえ、世話んなったは、儂らのほうで。漆を採り損なって沢に落ちてた儂を、将月様たちが助けてくだすったんじゃあないですか」
そういって、木地師はさっきの子供たちのように、辺りを見回した。
「その将月様、どこにいきなさったかね?」
「はあ、将月様だ? 何をいいなさるね、おまえさん」
「将月様が訪ねて来て、儂に教えてくだすったんだよ。おまえさんがたが、難儀してるとね。ついそこまで、先を歩いておられたのが、ふいとお姿が消えてしまって、」
いいも果てず、ざくりと音がして、かれらの足元に三鈷剣が突き立った。ひゃっ、と叫んで、木地師が腰を抜かす。
虚空から降ってきたとしか思えなかった。降りこぼれる、雪と共に。
「将月……麗月……清月よ……」
涸れることのない泉のように、老人の双眸は涙をこぼす。こんこんと、こんこんと。
「戻ってきたのか……よう、戻ってきたの……」
「上人様?」
「上人様、どうなされた?」
剣にすがるように、老僧はうずくまる。その懐に、独鈷と、鈴を抱え。
「もはや離れまい。末永く、共に行こうぞ……」
それがいつの時代かは知らぬ。だが、伊豆より北の山中に、漂泊の民でもなしに、幕府の支配を受け付けぬ奇妙な集落があったらしい。上人と呼ばれた遊行者のもたらした真密(真言宗)を信仰した彼らには、さらに奇妙な伝承があった。
鬼が、彼らを守護していたというのだ。
曰く、上人が法具を供養し、ひとたび口訣を唱えれば、忽ち鬼の如き護法がたちあらわれ、危難より村人を救った、と。だが上人が入定した時、その鬼たちが上人の体をいずこかへ運び去り、以来、法具も消えてしまった、と。
その村も、今は無い。
村の裔も土地から離れ、真偽は、そうしてより大きな歴史の流れにのなかに消える。
上人の名前も、村の名前も、とうに失われた。
ただ、護法の宿る法具は、剣、鈴、独鈷であったと、風土史には記されている。
― 追記 ―
「それで?」
けだるく、男の吸うたばこの煙が部屋を漂っている。場末のホテルは防音設備ももろくに無く、横須賀港の汽笛が耳にうるさい。
「その鬼の一人が、俺様ってわけだ」
「ふうん」
「信じてないだろ、おめえ」
「信じるわよォ。ほんと、鬼みたいに絶倫だもん、清ちゃんは」
女の手が、シーツの下でどこぞかに動く。
「ほらあ、でっかい角」
「どこ握ってんだ、馬鹿!」
あとはお決まりのじゃれあいだ。
「でもさ、清ちゃんはいつも自分のこと、お坊さんだって言うくせに、鬼の生まれ変わりってヘンじゃない? お坊さんと鬼って、仲悪そうよ」
「うるせえな」
煙草を吐き捨て、女にのしかかる一瞬、男の目がサイドテーブルを見る。
黒い独鈷杵が、そこにあった。
了
自サイトに掲載してある、某TRPGで作成したキャクター背景として書いたたわいのない掌篇です。時代背景、宗教・習俗についての考証はされておりませんので、ツッコミ無用でひとつご了承下さい。