―転―
「猪はよくても人間はでかいんだ、馬鹿野郎……測っとけ」
ひゅう、ひゅう、と鳴る自分の息がうるさい。
「まったく……二、三人しかひっかからないじゃねえか、よし公……」
捕り方は、減ったようにはまるで見えなかった。清月のまわりを取り囲む十人ほどを残し、代官と捕手たちは、何事も無かったかのように、村へと行進していく。もはや、留めようはなかった。
松明に輝く槍の切っ先が、あやかしの目のように、清月を睨む。
刀で斬りあう愚を、彼らは犯さなかった。
「二十……は、やったと、思ったんだがな……」
刀を支えに、ようやく清月は立っている。せめて最期の一足掻きでもしたいのだが、右手だけで構えるには、鋼の棒はもう重過ぎた。
かといって左手を腹から離せば、臓物が傷からあふれだす。
「構ええっ」
この隊の頭らしい役人が叫ぶ。
すうっと、あやかしが十の目を閉じた。
「ちぇっ……兄者たちに、あの世で会わす顔がねえ、な……」
若者たちはどうしただろう。うまく、逃げ延びていればいいが。
「突けえっ!」
槍が、一斉に繰り出された。
振動と鈍い音が体の中から響いたが、痛みはもう感じない。
自分の腹や胸に、けら首の根元まで埋まった穂先が、何かの冗談のようだ。
懐から、ちん、と澄んだ音をたてて、独鈷が落ちた。
「兄者……すまねえ……」
独鈷を追う視線の先、すぐ足元に見知った顔が転がっていた。
百姓相手には刀を使ったのだろう。胴体は見当たらない。
見当たらない。
もう、視界が暗くて、何も見えなくなっていく。
夜がきたのだ。
「……無駄死にすんなって、いったろ……」
ねじるように槍が引き抜かれる。
清月は、砂を詰めた袋のように地面に崩れ落ちた。
夜はくる。
侍の屍の上にも、百姓の屍の上にも。
その匂いに気付いたときにはもう、麗月はそれを浴びていてた。
「兄上、油です! 離れて……!」
言い終わらぬ内に、松明が投げつけられた。
一気に闇が晴れた。
人の形に芯をみせて、赤々と炎が燃え上がる。
「麗月ッ!」
「あ、にう、え、……」
己に火が燃え移るのも構わず、将月は兄を案じて身を離そうとする妹を、抱き留めた。
「酷いと思う心も無いのか、おぬしらは……」
食いしばった歯の根から、絞り出すように将月はうめいた。
捕手の半数以上が、憑き物が落ちたかのように、動きを止めていた。
切り合い、殺し合いは、すでに村境で見聞きした。しかし、相手が狂信の徒であるとはいえ、女が焼け焦げていく様は、さすがに吐き気を催させる。
この在では、まだ打ち首も火炙りも行われておらぬ。役人たちといえど、そうそう死罪にはでくわさない。
それに、罠を仕掛け、不意打ちをかけてきた侍には随分と同僚が殺されはしたが、この男女の邪教徒は、決して彼らを殺そうとはしていなかったのだ。
男の持つ異形の剣に刃はなく、なおかつ足払いや、小手のみを男は狙っていた。
女にしても、目ざましい俊敏さで捕り方の一人から刀を奪いはしたが、彼女もまた、峰うちに専念していたのである。
「邪教の徒は、人に非ず。獣が道理を説くとは笑止!」
言い切ったのは、良く肥えた代官本人であった。
「そのけだもの風情が、ひとがましいことを申すな。ぬしらのせいで、村の者が死ぬぞ? わしとて、村の娘たちは惜しいわい、もったいない事をしてくれたの」
「女衒と通じておったは、代官、うぬ本人であったか……」
夜風が、消えかけていた麗月の炎を将月の衣服に移し、再び光が煌々と闇を照らした。
「我等は、人心を乱す行いのひとつだにしてはおらぬ。欲に目が眩み、詮議もおろそかに無辜の村人を狩りたてて、うぬのほうが鬼畜であろうがッ!」
否、炎ではなく、男の気迫が闇を退ける。
倶利伽藍の剣を携え、迦楼羅炎をまとうその姿を、彼らは知っていた。
「不動明王……」
誰からとも無く、呟きは広がる。
呟きは、さざ波のように名号を唱える声に変わっていった。
「何をしておる貴様ら、外道に手をあわせてなんとするかッ!」
焼けただれた麗月には、まだ息があった。ふらりと将月の腕を離れる。
何か言おうとして、将月は言葉を呑んだ。ただれたその顔が、笑ったように見えたからだ。
「な、何……?」
焼け焦げた女が、代官に向かって、歩いてくる。
「女好きの、代官殿」
炭色の唇は、はっきりと言葉を紡いだ。
「好きなものと滅ぶは、本望でありましょう……?」
麗月が代官に抱きつくのと、その手が呆然としていた捕手の松明を奪うのは、ほとんど同時だった。
「地獄に、私がお供つかまつります──」
「は、はなせ、離せえ! 何を見ておる、この化け物を引っ剥がせ! は、早く、」
燃え盛る松明を代官の懐にねじ込み、それを己の体でふさぐようにして、麗月は代官を抱きしめる。懐紙に燃え移った炎は、薄衣のように代官を包み込み始めた。
「兄上──誓いを破るうららを、お許しくださいまし」
誰も何もすることが出来ぬまま、火達磨の代官を抱え、麗月は濃闇へ身を踊らせた。
その先には、沢へと落ち込む崖がある。
身じろぎもせず、体も焼かれるにまかせ、将月は凝然と、その闇を見つめていたが──
「麗月、清月──お前たちばかり、無間にやるわけにもいくまい」
将月は、捕手達に向き直った。
誰も何も言わぬ。
代官の耳障りな悲鳴が止むと、しんと、静寂のみがあった。
「こ度の罪は、皆、我に帰せられよ。村の者を惑わし、代官殿弑せし罪、この将月が全て引き受ける。ご一同、異存は有るまいか──」
捕手全員が、刀を収めた。村人を追わぬと、その誓いでもあった。
「では、御免」
言うなり、将月は剣の切っ先を己の胸に押し込んだ。
なまくらのはずの刃が、ためらいのないすさまじい膂力で、背にまで突き抜ける。
即死であった。