―起―
麓の村には、有るはずの無い灯火が群れていた。
山頂からは、その灯、松明の炎が、徐々にこの山裾へと、這い登ってくる様までがはっきりと見取れた。
さえざえと空気の澄み渡る夜空に、雲間から覗く星は痛々しいほどけざやかだ。雪こそまだ降ってはこないが、それも程なく、この辺りを真綿のように包んでゆくだろう。
「御坊、追手が迫っております。いま少し、足を早めねばなりますまい」
それまでも必死で木立の間を歩いていた人々は、しかし、男の言葉に反して愕然と歩みを止めた。
「お終えだ……」
「やや子もおじいおばあもいて、これ以上は早く進めねえよ」
「死んでもいいだ、おらたちは極楽さいくだで、怖いこたぁねえ」
二、三十人程の彼らは、一目で百姓と知れた。乳飲み子を抱えた女もいれば、歩くのもやっとの老人もいる。麓の村人全員が、今、里山伝いにおちのびようとしていたのだ。
淫祠邪教の村と、幕府に知れたからである。
邪教の名は真言立川流という。
山狩りを知らせた男は、彼らとははっきりと異なる雰囲気を持っていた。
ずば抜けた長身に逞しい体つきも異質だが、何よりも、男の物腰は武士のそれだ。村人同様、着の身着のままのボロを纏っているが、その腰には、随分とこの一群には不釣り合いな剣が鞘も無く、剥き出しのまま具されている。
刀ではない。両刃の剣だ。
三鈷剣、と密教では呼ばれる法具である。刃こそ潰してあるが実用に耐えうる大きさにつくられたそれが、帯がわりに締めた荒縄に差し込んである。
「まこと、無常……我等が、幕府に何の叛心あるといわんや」
人々の中心にいた、僧形の老人が、絞り出すように呟いた。即身仏かと見紛うほど皮膚は皺ばみ、痩せこけていたが、柔和な眼差しは涙に濡れていた。
「将月、そなた、村の者を率いて逃げよ。このまま尾根伝いに、国境の峰に紛れるのだ。その辺りに住まいする山人に助力をあおぎ、皆を守ってやってほしい」
「御坊はいかがなさるのです」
尋ねたのは、将月のそばにひっそりと控えていた美女だった。やはり見すぼらしい百姓女の服を纏っているが、これも、武家の出と知れる。
「儂は、お上のもとへいこうと思うとる」
干からびた手は、今や刻々と迫ってくる灯火の列を指した。
「いけません、お上人様!」
「お上人様を見捨てて、おらたちだけ逃げるなんてとんでもねえ!」
「たとえ、御坊が行かれても、役人は百姓衆を狩るでしょう。村を捨てたは、年貢を納めぬと同義。一揆よりもきついお仕置きになるは必定」
「わかっておる、麗月。だから、お前たちは早く逃げなさい。この皺首一つ、些少の時間稼ぎにはなってみせようよ」
麗月と呼ばれた女は、将月を見上げた。
「兄上……」
将月は静かに頷いた。座り込んでしまった村人たちに向かって、
「捨吉」
「へい!」
弾かれたように、百姓の一人が立ち上がった。まだ若い。二十は超えていないだろう。彼の足元には彼によく似た小さな女の子がいて、親指をしゃぶりながら、緊張した面持ちの父を不思議そうに眺めている。
「皆と御坊をつれて、急ぎ尾根へ抜けろ。お前はよく鹿を獲っていたから、山には慣れていよう──我等はここで、役人達をくい止める」
「ならん、将月、麗月! 命を粗末にするは、わが教えのもっとも忌むところぞ!」
「よく存じております。ですから、我等がいくのです」
泰然と微笑む将月のとなりに、麗月が寄り添う。
「御坊が生きておいでなら、その教えに従い、子殺し子捨てをするものも減りましょう。我等は、その命の行く末を、守りとうござる」
脱力していた村人たちが、一人、二人と立ち上がる。
「御坊を頼んだぞ、捨吉。皆も、達者でな」
「将月様、麗月様、ご無理をしてはなんねえだよ」
「きっときっと追いついてくださいませ、おらたち、ずっとお待ち申しております」
死の絶望と恐怖に、一縷の希望が打ち勝つ。
村人たちは、子を抱き直し、老いたものを支え、再び歩き始めた。佇んだまま、その場から動こうとしない老僧を、捨吉が促す。
「上人様、将月様たちのお志しを無にしてはなんねえだ。な」
「将月……麗月……お前たちも、清月と同じ修羅道を行くか」
「天も人も修羅も同じ六道のなかと、お教えになったは御坊でござるよ」
木立を縫う夜風にのって、殺気だった人の気配が伝わってくる。
麗月が、腰に下げた袋から、金の鈴を取り出した。五鈷鈴。やはり法具だ。
「兄上、山の反対に廻りましょう。そこで、これを鳴らせば、少しは」
「うむ。……御坊、剣と鈴は済みませぬが、我等がお預かり申す。御免」
兄妹は、もはや振り返りもしない。新月の木立の闇に、下草を踏む音も程なく消える。
「無常よ……」
その闇に、老僧は深く頭を垂れ、合掌した。
「追手の数は、たいして減ってはおらぬようですね」
「……そうだな」
星明りも、生い茂った林の中には届かぬ。真闇に近い山の斜面を、ほとんど手さぐりで、武士の兄妹は互いを気遣いながら、横切っていく。
「清月も、では──」
「もとより、生き長らえるとは、思ってはいなかったろう」
闇に紛れてはいるが、多分麗月は、顔をしかめている。
「御坊や、兄上に逆らって、大口をたたいておきながら、さして役にも立たぬとは。我が半身ながら、うららは情けのうございます」
うらら、と得度前の己の名を口にして、あ、と麗月が声を詰まらせる。
「今は、麗月でございました」
「気にするな。──清月も、村の者や、御坊を案じていればこそ、あの様な言いようをしたのだ。文句は、三途の川を渡ったあとで、好きなだけ本人にいえばよい」
「そうですわね」
さばさばとした口調で、麗月は、五鈷鈴をりん、と鳴らした。
りん。りん。
谺し、朗々とその音が山に響きわたる。
「畜生腹の犬同士、きっとあの世でも咬み付き合うのが定め」
「そういうな。私には、二人とも大切な妹と弟だのに」
将月は苦笑している。双子に生まれ、共に世間から疎まれた分、姉弟の絆が深まっても良さそうなものなのだが、この妹と、恐らくはもう命の無い弟は、物心付く前から仲が悪かった。
「あやつが先に待っているとなると、私は後生でもお前たちの仲裁をせねばならんな」
「兄上に御迷惑は懸けません」
りん。
「それくらいなら、清月をひきずって、紅蓮黒縄に参ります」
気丈な妹。闇の中で、つないだ手は、それでも震えている。
り、りん。りん。りん。
武士だろうが、百姓だろうが、死は怖い。それが当たり前なのだよ。
老僧の声が、耳に蘇る。
なんの違いもない。生まれ方も、死に方も、人は皆同じだ。
御仏の教えの前に、身分も、財産も、ない。命は、どんなものでも、生まれてきたことがすでに尊いのだ。命を成すことも、だから慈しまれなければならないのだよ。
それは、畜生腹とさげすまれた双子の弟妹を救う光だった。武士の格式にとらわれていた将月を救う光だった。
そうした光で、導かれ、救われる者が、もっとおればよい。そのために、我等兄妹が礎になろう。まだ生まれぬ、救われぬ魂よ、生きよ。
ふいに、木立の彼方が、赤く染まった。
御用だ、召し取れ、の声が間近に迫っていた。
「兄上、清月に見せてやりましょう。私は、誓って殺生は致しません」
「己の命にも、それを誓いなさい、麗月。無駄に捨てて良い命はない」
腰の三鈷剣を、将月は抜いた。刃の無い剣は、しかしもとは彼の愛刀を鋳潰した鋼でできていた。
「形は変われど、結局、最期もこれと一緒とは、武士の因果か……」
取り囲む炎、それに照り映える白刃の輝き。
「行くぞ」
「はい」
闇の中から、光の中へ、そうして二人は進み出る。
「邪教の守り手はこれなるぞ──」
堂々と名乗った将月の声を、怒号がかき消した。