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三年間「君のためだ」と言い続けた婚約者様へ。お幸せに、私はもう振り返りません

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/10

「君との婚約は破棄だ」


 夜会の喧騒の中、オルランド様はそう仰った。

 シャンデリアの光が彼の金髪を照らしている。整った顔立ち、侯爵家の嫡男という肩書き、社交界の華と呼ばれた容姿。三年前、この婚約が決まったとき、周囲は私を羨んだものだ。


「君のためを思って言っているんだ」


 ああ、またその言葉。

 私は静かに微笑んだ。


「ええ」


「……ええ?」


 オルランド様が眉をひそめる。きっと、泣き崩れるか、縋りつくか、そういう反応を期待していたのだろう。三年間、私がそうしてきたように。


「存じておりました」


 私は懐から一通の書類を取り出した。


「こちらが婚約解消の書類です。署名は済んでおりますので、オルランド様のご署名をいただければ」


「……は?」


「三年前から用意しておりましたの」


 オルランド様の顔から血の気が引いていく。

 周囲がざわめき始めた。夜会の参加者たちが、こちらを見ている。


「待て、フィーネ。何を言っている」


「何も。オルランド様がお望みになった婚約破棄に、私が同意しただけですわ」


「そうじゃない。君は、僕を愛して——」


「いいえ」


 私は首を横に振った。

 三年間、一度も言えなかった言葉を、今日、ようやく口にする。


「一度も、愛してなどおりません」



 三年間、私はオルランド様に尽くした。

 彼が夜会で飲みすぎれば介抱し、彼が仕事で失態を犯せば尻拭いをし、彼が他の令嬢と親しくしていても見て見ぬふりをした。

 全ては「君のためだ」という言葉とともに。


 君のためを思って、僕は君に厳しくする。

 君のためを思って、僕は君の欠点を指摘する。

 君のためを思って、僕は君を人前で叱責する。


 最初は信じていた。

 彼は私を愛しているから、厳しいのだと。

 私が至らないから、彼は怒るのだと。


 でも、気づいてしまった。

 彼が「君のため」と言うとき、いつも得をするのは彼自身だった。

 私の実家の財産、私の実家の人脈、私の実家の領地経営のノウハウ。彼が欲しかったのは、それだけだった。


 だから私は、三年前から準備をしていた。

 いつか捨てられる日のために。

 静かに、誰にも気づかれないように。


「フィーネ様」


 マルタが傍に寄り添う。私の侍女であり、三年間、ずっと味方でいてくれた人。


「お荷物はすべて馬車に積み込んでございます」


「ありがとう、マルタ」


「……本当に、よろしいのですね」


「ええ。もう、疲れたの」


 私は笑った。

 三年ぶりに、心からの笑顔だった。



「待て、フィーネ!」


 オルランド様が私の腕を掴んだ。

 力が強い。痛い。でも、もう怯えない。


「離していただけますか」


「駄目だ。君は僕のものだ」


「いいえ。私は誰のものでもありません」


「僕は君を愛して——」


「愛している人間が、三年間、一度も『ありがとう』と言わないものでしょうか」


 オルランド様の動きが止まった。


「愛している人間が、三年間、一度も私の誕生日を覚えていないものでしょうか」


「それは——」


「愛している人間が、三年間、一度も私の好きなものを聞かないものでしょうか」


 私は淡々と続けた。

 怒りはない。悲しみもない。

 ただ、事実を述べているだけ。


「オルランド様。貴方は私を愛してなどいない。貴方が愛していたのは、私の実家の財産と、私という『都合の良い存在』だけです」


「違う——」


「違いません。でも、もう構いませんわ」


 私は微笑んだ。


「お幸せに。私はもう、振り返りません」



「——その女性は、本日より私の婚約者だ」


 低い声が響いた。

 オルランド様の手が、私の腕から離れる。いや、離された。

 振り返ると、銀髪の男性が立っていた。


 隣国ヴァイス公爵領の当主、ヴェルナー・フォン・ヴァイス。

 外交官として名高く、「氷の公爵」と呼ばれる人。

 その人が、オルランド様の手首を掴んでいた。


「な、何を——」


「聞こえなかったか。彼女は私の婚約者だ。触れることは許さない」


 ヴェルナー様の灰色の瞳が、オルランド様を見下ろす。

 身長差があるせいで、まるで獲物を見る猛禽のようだった。


「ヴェルナー様」


 私は声をかけた。

 彼が振り返る。その瞳が、一瞬だけ和らいだ。


「……大丈夫か」


「ええ。ありがとうございます」


「礼には及ばない」


 彼は私の手を取った。

 オルランド様とは違う。痛くない。温かい。

 そして、私が逃げようとしても逃げられないくらい、しっかりと。


「行くぞ」


「……はい」



 ヴェルナー様との出会いは、半年前に遡る。

 オルランド様の代わりに出席した外交会議で、私は彼と知り合った。


 最初の印象は「怖い人」だった。

 無表情で、口数が少なく、感情が読めない。

 でも、会議の後、彼は私に声をかけた。


「……あの侯爵令息の婚約者か」


「はい。フィーネと申します」


「そうか」


 それだけ言って、彼は去っていった。

 何だったのだろう、と思った。


 でも、その後も、彼は私に声をかけ続けた。

 会議で顔を合わせるたびに、ほんの一言、二言。


「今日は顔色が悪い」

「食事は摂っているか」

「無理をするな」


 最初は意味がわからなかった。

 でも、気づいた。

 彼は、私を見ていた。

 オルランド様が三年間、一度も見なかった私を。


「……なぜ、私を気にかけてくださるのですか」


 ある日、思い切って聞いた。

 彼は少し考えてから、答えた。


「お前は、泣かない」


「……はい?」


「あの男に何をされても、お前は泣かない。怒らない。ただ、静かに耐えている」


「……それが、何か」


「俺の前でも、泣かなかった」


 彼の灰色の瞳が、私を見つめる。


「だから、気になった」


 その言葉が、私の胸に刺さった。

 三年間、誰も気づかなかった。

 私が泣いていないことに。

 私が、泣けなくなっていることに。


「……ヴェルナー様」


「何だ」


「私は、もう限界かもしれません」


 気づいたら、涙が頬を伝っていた。

 三年ぶりの涙だった。



 夜会の会場を出ると、王妃アデライデ様が待っていた。


「あら、ヴェルナー公爵。それに、フィーネ嬢」


「王妃陛下」


 ヴェルナー様が頭を下げる。私も続いて礼をした。


「聞いていたわ。ロートリンゲン侯爵家の令息が、随分と騒がしかったようね」


「はい。婚約破棄を申し渡されました」


「あら、それは大変。でも、貴女は随分と落ち着いているのね」


 王妃様の瞳が、面白そうに光る。

 この方は、社交界の全てを見通している。何も隠せない。


「実は、王妃陛下にお伝えしたいことがございます」


「何かしら」


「私、フィーネ・フォン・ハイデンは、本日をもちまして、ヴァイス公爵家と婚約いたしました」


 王妃様の眉が、わずかに上がった。


「あら。それは初耳ね」


「先ほど、ヴェルナー様からお申し込みをいただきました」


「……そうなの? ヴェルナー」


 王妃様がヴェルナー様を見る。

 彼は、無表情のまま頷いた。


「はい。彼女を、私の妻に迎えたいと考えております」


「まあ。氷の公爵が、ようやく溶けたのね」


 王妃様がくすくすと笑う。


「いいわ。認めましょう。ハイデン伯爵家とヴァイス公爵家の婚約、この場で承認します」


「ありがとうございます、王妃陛下」


 私は深く頭を下げた。

 これで、封鎖は完了した。

 オルランド様がどんなに騒いでも、王妃様の承認がある以上、覆すことはできない。



「フィーネ!」


 案の定、オルランド様が追いかけてきた。

 顔が真っ赤だ。怒りなのか、焦りなのか、それとも両方か。


「待て! 話を聞け!」


「お話しすることは何もございません」


「僕は君を——」


「オルランド様」


 私は振り返った。

 彼の目を、まっすぐに見つめる。


「三年前、貴方は私に言いましたね。『君のためを思って、僕は君を選んだ』と」


「ああ、言った。僕は本当に——」


「では、今日は私が言いますわ」


 私は微笑んだ。

 三年間で初めて、心からの笑顔で。


「私のためを思って、私は貴方を捨てます」


 オルランド様の顔が、凍りついた。


「さようなら、オルランド様。どうぞ、お幸せに」


「待——」


「待ちません」


 ヴェルナー様が、私の肩を抱いた。

 温かい。守られている。

 三年間、一度も感じたことのない安心感だった。


「彼女は疲れている。これ以上近づくな」


「だ、誰に向かって——」


「隣国の公爵に向かって、だ。外交問題にしたいなら、そう言え」


 オルランド様が言葉を失った。

 侯爵令息と公爵。格が違う。

 それに、王妃様の承認がある。もう、彼にできることは何もない。


「……フィーネ」


 オルランド様が、縋るような目で私を見た。


「僕は、本当に君を——」


「もう遅いのです、オルランド様」


 私は首を横に振った。


「三年間、私はずっと待っていました。貴方が振り向いてくれるのを。貴方が『ありがとう』と言ってくれるのを。貴方が、私を見てくれるのを」


「……」


「でも、貴方は一度も見てくれなかった。だから、私は決めました」


 私はヴェルナー様の腕に、そっと手を添えた。


「私を見てくれる人の傍で、生きていきます」



 馬車の中で、私はようやく息をついた。


「……終わった」


「ああ」


 ヴェルナー様が、隣に座っている。

 相変わらず無表情だけれど、その瞳は優しい。


「お前は、よくやった」


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは俺の方だ」


「え?」


 彼が、私の手を取った。


「俺を選んでくれた」


「……ヴェルナー様」


「俺は、お前に何もしていない。ただ見ていただけだ」


「それだけで、十分でした」


 私は笑った。

 涙が出そうになったけれど、堪えた。

 今度は、嬉しくて泣きたいから。


「三年間、誰も私を見てくれなかった。でも、ヴェルナー様だけは見ていてくれた」


「……」


「それが、どれだけ嬉しかったか」


 彼の手が、私の頬に触れた。

 冷たいかと思ったけれど、温かかった。


「泣いてもいいぞ」


「……え?」


「俺の前では、泣いてもいい。怒ってもいい。笑ってもいい」


 彼の灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめる。


「お前の全てを、俺が受け止める」


 その言葉が、私の心の最後の壁を壊した。

 涙が溢れた。止まらなかった。

 三年間、ずっと堪えていた涙が、全部流れ出した。


「……っ」


「泣け。好きなだけ泣け」


 彼の腕が、私を包む。

 温かい。安心する。

 ああ、これが、愛されるということなのだ。



 それから一週間後。

 オルランド様の噂を聞いた。


 婚約者を失った彼は、社交界で笑い者になっているらしい。

 三年間尽くしてくれた婚約者を自ら捨てた愚か者として。

 そして、その婚約者がすぐに隣国の公爵と婚約したことで、彼の「見る目のなさ」が際立った。


 ロートリンゲン侯爵家は、私の実家との繋がりを失い、経営が傾き始めているという。

 私が尻拭いしていた失態も、次々と露呈しているらしい。


「……ざまあ、とは思わないのか」


 ヴェルナー様が聞いた。

 私は首を横に振った。


「いいえ。もう、どうでもいいのです」


「そうか」


「私は今、幸せですから」


 彼の腕の中で、私は微笑んだ。


「過去を振り返る暇がないのです」


 彼の唇が、私の額に触れた。

 くすぐったくて、幸せで、笑ってしまう。


「……ヴェルナー様」


「何だ」


「ありがとうございます」


「何に対してだ」


「私を見つけてくれたことに」


 彼は少し考えてから、答えた。


「……俺の方こそ」


「え?」


「お前が俺を選んでくれた。それが、俺には奇跡だ」


 彼の灰色の瞳が、柔らかく細められた。

 氷の公爵と呼ばれた人の、とびきり甘い笑顔。


「フィーネ。俺は、お前を幸せにする」


「はい」


「一生、お前だけを見る」


「……はい」


「だから、もう泣くな。笑っていろ」


 私は頷いた。

 涙を拭いて、笑った。


 三年間、私は間違った場所で咲こうとしていた。

 でも、今は違う。

 私を見てくれる人の傍で、私はようやく、本当の花を咲かせることができる。


「ヴェルナー様」


「何だ」


「私も、貴方だけを見ます」


 彼の腕に力がこもった。

 ああ、この人は、言葉にしなくても伝わるのだ。


 私たちは、馬車の窓から外を見た。

 隣国へと続く道が、朝日に照らされて輝いている。

 新しい人生の始まりだ。


 さようなら、オルランド様。

 貴方のおかげで、私は本当の愛を知ることができました。

 だから、感謝しています。


 でも、もう振り返りません。


 私の未来は、この人の隣にあるのだから。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


三年間尽くした婚約者に静かに別れを告げるフィーネと、彼女をずっと見守っていたヴェルナーの物語でした。


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