三年間「君のためだ」と言い続けた婚約者様へ。お幸せに、私はもう振り返りません
「君との婚約は破棄だ」
夜会の喧騒の中、オルランド様はそう仰った。
シャンデリアの光が彼の金髪を照らしている。整った顔立ち、侯爵家の嫡男という肩書き、社交界の華と呼ばれた容姿。三年前、この婚約が決まったとき、周囲は私を羨んだものだ。
「君のためを思って言っているんだ」
ああ、またその言葉。
私は静かに微笑んだ。
「ええ」
「……ええ?」
オルランド様が眉をひそめる。きっと、泣き崩れるか、縋りつくか、そういう反応を期待していたのだろう。三年間、私がそうしてきたように。
「存じておりました」
私は懐から一通の書類を取り出した。
「こちらが婚約解消の書類です。署名は済んでおりますので、オルランド様のご署名をいただければ」
「……は?」
「三年前から用意しておりましたの」
オルランド様の顔から血の気が引いていく。
周囲がざわめき始めた。夜会の参加者たちが、こちらを見ている。
「待て、フィーネ。何を言っている」
「何も。オルランド様がお望みになった婚約破棄に、私が同意しただけですわ」
「そうじゃない。君は、僕を愛して——」
「いいえ」
私は首を横に振った。
三年間、一度も言えなかった言葉を、今日、ようやく口にする。
「一度も、愛してなどおりません」
◆
三年間、私はオルランド様に尽くした。
彼が夜会で飲みすぎれば介抱し、彼が仕事で失態を犯せば尻拭いをし、彼が他の令嬢と親しくしていても見て見ぬふりをした。
全ては「君のためだ」という言葉とともに。
君のためを思って、僕は君に厳しくする。
君のためを思って、僕は君の欠点を指摘する。
君のためを思って、僕は君を人前で叱責する。
最初は信じていた。
彼は私を愛しているから、厳しいのだと。
私が至らないから、彼は怒るのだと。
でも、気づいてしまった。
彼が「君のため」と言うとき、いつも得をするのは彼自身だった。
私の実家の財産、私の実家の人脈、私の実家の領地経営のノウハウ。彼が欲しかったのは、それだけだった。
だから私は、三年前から準備をしていた。
いつか捨てられる日のために。
静かに、誰にも気づかれないように。
「フィーネ様」
マルタが傍に寄り添う。私の侍女であり、三年間、ずっと味方でいてくれた人。
「お荷物はすべて馬車に積み込んでございます」
「ありがとう、マルタ」
「……本当に、よろしいのですね」
「ええ。もう、疲れたの」
私は笑った。
三年ぶりに、心からの笑顔だった。
◆
「待て、フィーネ!」
オルランド様が私の腕を掴んだ。
力が強い。痛い。でも、もう怯えない。
「離していただけますか」
「駄目だ。君は僕のものだ」
「いいえ。私は誰のものでもありません」
「僕は君を愛して——」
「愛している人間が、三年間、一度も『ありがとう』と言わないものでしょうか」
オルランド様の動きが止まった。
「愛している人間が、三年間、一度も私の誕生日を覚えていないものでしょうか」
「それは——」
「愛している人間が、三年間、一度も私の好きなものを聞かないものでしょうか」
私は淡々と続けた。
怒りはない。悲しみもない。
ただ、事実を述べているだけ。
「オルランド様。貴方は私を愛してなどいない。貴方が愛していたのは、私の実家の財産と、私という『都合の良い存在』だけです」
「違う——」
「違いません。でも、もう構いませんわ」
私は微笑んだ。
「お幸せに。私はもう、振り返りません」
◆
「——その女性は、本日より私の婚約者だ」
低い声が響いた。
オルランド様の手が、私の腕から離れる。いや、離された。
振り返ると、銀髪の男性が立っていた。
隣国ヴァイス公爵領の当主、ヴェルナー・フォン・ヴァイス。
外交官として名高く、「氷の公爵」と呼ばれる人。
その人が、オルランド様の手首を掴んでいた。
「な、何を——」
「聞こえなかったか。彼女は私の婚約者だ。触れることは許さない」
ヴェルナー様の灰色の瞳が、オルランド様を見下ろす。
身長差があるせいで、まるで獲物を見る猛禽のようだった。
「ヴェルナー様」
私は声をかけた。
彼が振り返る。その瞳が、一瞬だけ和らいだ。
「……大丈夫か」
「ええ。ありがとうございます」
「礼には及ばない」
彼は私の手を取った。
オルランド様とは違う。痛くない。温かい。
そして、私が逃げようとしても逃げられないくらい、しっかりと。
「行くぞ」
「……はい」
◆
ヴェルナー様との出会いは、半年前に遡る。
オルランド様の代わりに出席した外交会議で、私は彼と知り合った。
最初の印象は「怖い人」だった。
無表情で、口数が少なく、感情が読めない。
でも、会議の後、彼は私に声をかけた。
「……あの侯爵令息の婚約者か」
「はい。フィーネと申します」
「そうか」
それだけ言って、彼は去っていった。
何だったのだろう、と思った。
でも、その後も、彼は私に声をかけ続けた。
会議で顔を合わせるたびに、ほんの一言、二言。
「今日は顔色が悪い」
「食事は摂っているか」
「無理をするな」
最初は意味がわからなかった。
でも、気づいた。
彼は、私を見ていた。
オルランド様が三年間、一度も見なかった私を。
「……なぜ、私を気にかけてくださるのですか」
ある日、思い切って聞いた。
彼は少し考えてから、答えた。
「お前は、泣かない」
「……はい?」
「あの男に何をされても、お前は泣かない。怒らない。ただ、静かに耐えている」
「……それが、何か」
「俺の前でも、泣かなかった」
彼の灰色の瞳が、私を見つめる。
「だから、気になった」
その言葉が、私の胸に刺さった。
三年間、誰も気づかなかった。
私が泣いていないことに。
私が、泣けなくなっていることに。
「……ヴェルナー様」
「何だ」
「私は、もう限界かもしれません」
気づいたら、涙が頬を伝っていた。
三年ぶりの涙だった。
◆
夜会の会場を出ると、王妃アデライデ様が待っていた。
「あら、ヴェルナー公爵。それに、フィーネ嬢」
「王妃陛下」
ヴェルナー様が頭を下げる。私も続いて礼をした。
「聞いていたわ。ロートリンゲン侯爵家の令息が、随分と騒がしかったようね」
「はい。婚約破棄を申し渡されました」
「あら、それは大変。でも、貴女は随分と落ち着いているのね」
王妃様の瞳が、面白そうに光る。
この方は、社交界の全てを見通している。何も隠せない。
「実は、王妃陛下にお伝えしたいことがございます」
「何かしら」
「私、フィーネ・フォン・ハイデンは、本日をもちまして、ヴァイス公爵家と婚約いたしました」
王妃様の眉が、わずかに上がった。
「あら。それは初耳ね」
「先ほど、ヴェルナー様からお申し込みをいただきました」
「……そうなの? ヴェルナー」
王妃様がヴェルナー様を見る。
彼は、無表情のまま頷いた。
「はい。彼女を、私の妻に迎えたいと考えております」
「まあ。氷の公爵が、ようやく溶けたのね」
王妃様がくすくすと笑う。
「いいわ。認めましょう。ハイデン伯爵家とヴァイス公爵家の婚約、この場で承認します」
「ありがとうございます、王妃陛下」
私は深く頭を下げた。
これで、封鎖は完了した。
オルランド様がどんなに騒いでも、王妃様の承認がある以上、覆すことはできない。
◆
「フィーネ!」
案の定、オルランド様が追いかけてきた。
顔が真っ赤だ。怒りなのか、焦りなのか、それとも両方か。
「待て! 話を聞け!」
「お話しすることは何もございません」
「僕は君を——」
「オルランド様」
私は振り返った。
彼の目を、まっすぐに見つめる。
「三年前、貴方は私に言いましたね。『君のためを思って、僕は君を選んだ』と」
「ああ、言った。僕は本当に——」
「では、今日は私が言いますわ」
私は微笑んだ。
三年間で初めて、心からの笑顔で。
「私のためを思って、私は貴方を捨てます」
オルランド様の顔が、凍りついた。
「さようなら、オルランド様。どうぞ、お幸せに」
「待——」
「待ちません」
ヴェルナー様が、私の肩を抱いた。
温かい。守られている。
三年間、一度も感じたことのない安心感だった。
「彼女は疲れている。これ以上近づくな」
「だ、誰に向かって——」
「隣国の公爵に向かって、だ。外交問題にしたいなら、そう言え」
オルランド様が言葉を失った。
侯爵令息と公爵。格が違う。
それに、王妃様の承認がある。もう、彼にできることは何もない。
「……フィーネ」
オルランド様が、縋るような目で私を見た。
「僕は、本当に君を——」
「もう遅いのです、オルランド様」
私は首を横に振った。
「三年間、私はずっと待っていました。貴方が振り向いてくれるのを。貴方が『ありがとう』と言ってくれるのを。貴方が、私を見てくれるのを」
「……」
「でも、貴方は一度も見てくれなかった。だから、私は決めました」
私はヴェルナー様の腕に、そっと手を添えた。
「私を見てくれる人の傍で、生きていきます」
◆
馬車の中で、私はようやく息をついた。
「……終わった」
「ああ」
ヴェルナー様が、隣に座っている。
相変わらず無表情だけれど、その瞳は優しい。
「お前は、よくやった」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは俺の方だ」
「え?」
彼が、私の手を取った。
「俺を選んでくれた」
「……ヴェルナー様」
「俺は、お前に何もしていない。ただ見ていただけだ」
「それだけで、十分でした」
私は笑った。
涙が出そうになったけれど、堪えた。
今度は、嬉しくて泣きたいから。
「三年間、誰も私を見てくれなかった。でも、ヴェルナー様だけは見ていてくれた」
「……」
「それが、どれだけ嬉しかったか」
彼の手が、私の頬に触れた。
冷たいかと思ったけれど、温かかった。
「泣いてもいいぞ」
「……え?」
「俺の前では、泣いてもいい。怒ってもいい。笑ってもいい」
彼の灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「お前の全てを、俺が受け止める」
その言葉が、私の心の最後の壁を壊した。
涙が溢れた。止まらなかった。
三年間、ずっと堪えていた涙が、全部流れ出した。
「……っ」
「泣け。好きなだけ泣け」
彼の腕が、私を包む。
温かい。安心する。
ああ、これが、愛されるということなのだ。
◆
それから一週間後。
オルランド様の噂を聞いた。
婚約者を失った彼は、社交界で笑い者になっているらしい。
三年間尽くしてくれた婚約者を自ら捨てた愚か者として。
そして、その婚約者がすぐに隣国の公爵と婚約したことで、彼の「見る目のなさ」が際立った。
ロートリンゲン侯爵家は、私の実家との繋がりを失い、経営が傾き始めているという。
私が尻拭いしていた失態も、次々と露呈しているらしい。
「……ざまあ、とは思わないのか」
ヴェルナー様が聞いた。
私は首を横に振った。
「いいえ。もう、どうでもいいのです」
「そうか」
「私は今、幸せですから」
彼の腕の中で、私は微笑んだ。
「過去を振り返る暇がないのです」
彼の唇が、私の額に触れた。
くすぐったくて、幸せで、笑ってしまう。
「……ヴェルナー様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「何に対してだ」
「私を見つけてくれたことに」
彼は少し考えてから、答えた。
「……俺の方こそ」
「え?」
「お前が俺を選んでくれた。それが、俺には奇跡だ」
彼の灰色の瞳が、柔らかく細められた。
氷の公爵と呼ばれた人の、とびきり甘い笑顔。
「フィーネ。俺は、お前を幸せにする」
「はい」
「一生、お前だけを見る」
「……はい」
「だから、もう泣くな。笑っていろ」
私は頷いた。
涙を拭いて、笑った。
三年間、私は間違った場所で咲こうとしていた。
でも、今は違う。
私を見てくれる人の傍で、私はようやく、本当の花を咲かせることができる。
「ヴェルナー様」
「何だ」
「私も、貴方だけを見ます」
彼の腕に力がこもった。
ああ、この人は、言葉にしなくても伝わるのだ。
私たちは、馬車の窓から外を見た。
隣国へと続く道が、朝日に照らされて輝いている。
新しい人生の始まりだ。
さようなら、オルランド様。
貴方のおかげで、私は本当の愛を知ることができました。
だから、感謝しています。
でも、もう振り返りません。
私の未来は、この人の隣にあるのだから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
三年間尽くした婚約者に静かに別れを告げるフィーネと、彼女をずっと見守っていたヴェルナーの物語でした。
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