第8話「届かない声」
⸻
翌朝。
目を覚ました瞬間、真っ先に頭に浮かんだのは昨夜の出来事だった。
新免武蔵藤原玄信——あの声。
夢なんかじゃない。
それだけははっきりしている。
「……でも、どうやって呼ぶんだよ」
机の上の歴史の本を見つめながら、俺は小さくつぶやいた。
分からないことだらけのまま、今日も一日が始まる。
⸻
朝からギルドへ向かい、いつも通りの雑用仕事をこなした。
荷物運び。
倉庫整理。
宿の手伝い。
危険もなければ派手さもない、地味な一日だ。
作業の合間、俺は何度も頭の中で考えていた。
(武蔵の声……また聞けるのか?)
昨日は本を読んでいただけでつながった。
でも、今日は呼んでも反応がない。
午前の仕事が終わった休憩時間。
誰もいない場所で、小さくつぶやいてみる。
「……新免武蔵藤原玄信」
何も起きない。
「武蔵」
やっぱりダメだ。
「やり方が違うのか……?」
結局そのまま、何の手応えもないまま昼の仕事に戻った。
⸻
午後。
俺はギルドの裏手にある空き地にいた。
腰には昨日買ったばかりの片手剣。
「……よし」
とりあえず体を動かそう。
武蔵に頼りっぱなしじゃダメだ。
自分自身も強くならなきゃ始まらない。
ぶん、と剣を振る。
思ったより重い。
思ったよりぎこちない。
「全然だな……」
誰に教わるでもなく、見よう見まねで素振りを繰り返す。
剣の訓練というより、ほとんど筋トレだ。
腕立て伏せ。
腹筋。
足腰の運動。
地味だけど、今の俺にできるのはこれくらいしかない。
汗だくになりながら、俺はひたすら体を動かした。
⸻
訓練の合間、ふと思いついて声を出す。
「武蔵」
返事はない。
「新免武蔵藤原玄信」
やっぱり何も起きない。
「条件があるのか……?」
時間帯?
場所?
本を開いていないとダメ?
いろいろ試してみるけど、どれも手応えはゼロだった。
「……さっぱり分からん」
思わず空を見上げてため息をつく。
⸻
夕方。
ギルドの掲示板で依頼を眺めていると、一枚の紙が目に入った。
——近郊の小型モンスター駆除。
「……やってみるか?」
腰の剣に手を伸ばす。
武器はある。
多少は訓練もした。
もしかしたら——
そう考えた瞬間、冷静な自分が顔を出した。
(お前、実際に剣で戦ったことあるのか?)
足が止まる。
素振りはした。
筋トレもした。
でも戦闘経験はゼロだ。
「……無理だよな」
俺は静かに依頼票を元に戻した。
武蔵の力があるかもしれない。
でも、それに賭けて命を張るのは違う。
「まずは基礎からだな」
そう自分に言い聞かせた。
⸻
結局その日も、俺は安全な雑用だけをこなして終わった。
宿に戻り、軽く体を動かしたあと、机の前に座る。
歴史の本を開き、何度目かの呼びかけをする。
「武蔵」
返事はない。
「……今日もダメか」
諦めかけた、そのときだった。
⸻
「……やれやれ。よくもまあ何度も呼ぶものだ」
「っ!?」
突然、あの声が響いた。
俺は椅子から飛び上がる。
「む、武蔵!?」
「その通りだ」
間違いない。
新免武蔵藤原玄信の声だ。
「昼間は全然出てこなかったのに……!」
「それは当然だ」
「当然?」
武蔵は落ち着いた調子で続けた。
「我がそなたと話せるのは、常ではない」
その言葉に俺は身を乗り出す。
「やっぱり条件があるのか?」
「うむ。どうやら今のそなたでは——」
武蔵は静かに告げた。
「二十四の刻に一度。
そして、その時はほんの一分ほどしか現れられぬ」
「……二十四時間に一回?」
「そのようだな」
頭の中で必死に整理する。
「じゃあ夜だから出てきたとかじゃなくて……」
「関係ない。前に我が現れてから、再び現れるまでの時が定められておるのだろう」
俺は思わず頭を抱えた。
「つまり、一度話したら丸一日待たないとダメってことか」
「その通り」
「しかも一分だけ……?」
「うむ」
短すぎる。
でも、これでようやく分かった。
「昼間にいくら呼んでも無駄だったわけだ……」
「そういうことだ」
武蔵の声がわずかに遠くなる。
「……そろそろ限界だな」
「え、もう?」
「一分は短いものよ」
「待てって! まだ全然——」
「焦るでない。次の刻まで鍛えておけ」
それだけ言って——
声はふっと途切れた。
⸻
部屋にはまた静けさだけが残る。
「……ほんとに一分きっかりかよ」
俺は大きく息を吐いた。
でも収穫はあった。
二十四時間に一度。
たった一分間。
それが、今の俺と武蔵をつなぐ唯一のルール。
「……だったら、その一分をうまく使うしかないよな」
開いた本を見つめながら、俺は静かに拳を握った。
今日より明日。
一歩でも前へ。
やることは、山ほどある。




