第7話「声の主」
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静まり返った宿の部屋。
机の上には開いたままの歴史の本。
武蔵のページ。
そして——
「……なんだ、この書き方は」
確かに、声がした。
耳元でも、頭の中でもない。
まるで部屋の中に誰かがいて、普通に話しかけてきたみたいな声だった。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
反射的に部屋を見回した。
扉は閉まっている。
窓も閉めてある。
もちろん、誰もいない。
それでも——
「戦を知らぬ者が、我を軽々しく語るでない」
また、はっきりと声が響いた。
俺はゆっくりと視線を本に落とす。
開かれているのは、宮本武蔵の紹介ページ。
喉がひくついた。
「だ、誰だよ……」
自分でも情けないくらい震えた声だった。
少しの沈黙のあと、落ち着いた声が答える。
「名を問うか。ならば名乗ろう」
そこで、声の調子がわずかに改まった。
「我が名は——新免武蔵藤原玄信。
世では宮本武蔵とも呼ばれておる」
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。
「……は?」
頭が真っ白になる。
いや、待て。
落ち着け。
目の前のページをもう一度見る。
そこに書かれている人物名と、今名乗った名前。
完全に一致している。
「ちょ、ちょっと待てって……」
「待つも何も、そなたが我を呼んだのであろう」
「呼んでない!」
思わず声を荒げて否定する。
だが武蔵は静かに続けた。
「ならば何故、我が記された書を開いておる」
「それは……ただ読んでただけで」
「それが縁を結ぶということだ」
意味が分からない。
けれど——闘技場での出来事が頭をよぎる。
あのときも、俺は自分の意思とは関係なく武蔵の力を借りていた。
「……じゃあ、俺のこの力って」
「詳しくは知らぬ。だが、そなたと我は奇妙な縁で結ばれておるらしい」
縁。
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「なんで俺なんだよ……」
「さてな。天の采配か、人の巡り合わせか」
どこか他人事のような言い方だった。
俺は椅子に座り直し、頭をかく。
「で、あんた……今は何ができるんだ?」
「今は声を届けるのみだ」
「それだけ?」
「そなたの器が未熟ゆえな」
さらっと痛いことを言われた。
「未熟って……」
「力を扱う土台がまだ足りぬ。ゆえに、長くも語れぬ」
言われてみれば、武蔵の声はほんの少しずつ弱くなっている気がする。
「時間制限みたいなのがあるのか?」
「そのようなものだ」
どうやら便利な会話相手というわけでもないらしい。
しばらく沈黙が続いた。
俺は本のページを見つめたまま、小さくつぶやく。
「……なあ、武蔵」
「なんだ」
「これからも……また話せるのか?」
少し間があってから返事が来た。
「そなた次第だ」
「俺次第って……どうすればいいんだよ」
「それを探すのが、そなたの務めであろう」
相変わらず不親切だ。
でも、不思議と嫌な気分にはならなかった。
「……分かったよ。なんとかしてみる」
「うむ。その意気や良し」
その声が、さらに薄くなる。
「そろそろ限界だな」
「え?」
「今宵はここまでだ。無理をするな」
「ちょ、待てって——」
言い終える前に。
声はふっと途切れた。
まるで最初から何もなかったかのように、部屋は静けさに戻る。
「……マジかよ」
俺の独り言だけが虚しく響いた。
机の上の本は、さっきと何も変わっていない。
武蔵のページも、そのままだ。
なのに、もう“ただの本”には見えなかった。
「夢……じゃないよな」
頬をつねる。
普通に痛い。
腰に下げたばかりの片手剣が、わずかに揺れた。
「ほんとに、何なんだよ……俺の能力」
答えはどこにもない。
でも一つだけ、はっきりしたことがあった。
俺はもう——
ただの新人冒険者じゃない。
歴史の英雄とつながる、奇妙な力を持った人間になってしまった。
「……とんでもないことになったな」
開いた本を見つめながら、俺は小さくため息をついた。




