第19話「本物の一閃」
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息が上がっていた。
肺が焼けるように痛い。
腕も足も、自分のものじゃないみたいに重い。
それでも俺は立っていた。
アリアを先に行かせた以上、ここで倒れるわけにはいかない。
「……まだだ」
震える足で、もう一度前を見る。
目の前には——《影喰いの黒竜 シャドウドレイク》。
黒い巨体がゆっくりと身じろぎし、獲物を弄ぶようにこちらを見下ろしていた。
武器はもうない。
体力も残りわずか。
普通なら、とっくに終わっている状況だった。
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「本当に……化け物だな」
苦笑いしか出てこない。
それでも——
アリアはもう出口の向こうにいる。
俺がここで時間を稼いだ意味は、確かにあった。
「なら……あと少しだけでいい」
生き延びる。
それだけを考えろ。
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その時だった。
頭の奥で、静かな声が響いた。
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「レイ」
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聞き慣れた声。
武蔵の声だ。
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「もう一度だけ問う。
そなたは生きたいか」
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「当たり前だろ……!」
即答だった。
まだ死ねない。
こんなところで終われるはずがない。
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武蔵は小さく笑った気配がした。
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「ならば——ほんの刹那だけ貸せ」
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「できるのか……?」
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次の瞬間、低く、確かな声が返ってくる。
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「本物の一閃というものを、見せてやろう」
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心臓が跳ねた。
体の奥で、何かが切り替わる感覚。
完全な入れ替わりじゃない。
それでも——ほんの一瞬だけ、武蔵の“技”が流れ込んでくる。
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シャドウドレイクが動いた。
巨大な爪が振り下ろされる。
避けられない速度。
避けられない間合い。
普通なら——終わりだ。
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だが。
その瞬間、世界がわずかに静止したように感じた。
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体が、勝手に動く。
最小限の踏み込み。
最短の軌道。
手には武器すらない。
それでも——
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見えないほどの速さで、空気が裂けた。
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音もなく。
ただ一筋の軌跡だけが走る。
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次の瞬間。
シャドウドレイクの振り下ろした爪の先端が、わずかに弾かれた。
黒い影の一部が、かすかに裂ける。
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ほんの小さな傷。
致命傷には程遠い。
それでも——
確かに“通った”一撃だった。
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俺は息を呑む。
「これが……」
武蔵の、本物の剣。
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だが感動している暇はなかった。
武蔵の声が、はっきりと告げる。
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「勝つな。
今は、生きよ」
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その言葉で、我に返った。
そうだ。
目的は勝つことじゃない。
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「……十分だ」
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シャドウドレイクが一瞬ひるんだ、その隙。
俺は迷わず背を向けた。
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「今だ!」
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残っていたわずかな力を、すべて足に込める。
全力で走る。
ただ前だけを見て。
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背後で黒い咆哮が響く。
それでも振り返らない。
武蔵の一閃が作った、たった一度の好機。
それを無駄にするわけにはいかなかった。
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「レイ!」
出口の向こうから、アリアの声が聞こえる。
扉の前で彼女が手を伸ばしていた。
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足がもつれそうになる。
体はもう限界。
それでも——
「まだだ……!」
歯を食いしばり、最後の一歩を踏み出した。
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扉の向こう側へ、転がり込むように飛び込む。
その瞬間——
アリアが俺の腕を強く引き寄せた。
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重い石の扉が閉じる。
向こう側から、シャドウドレイクの咆哮が遠ざかっていく。
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「はぁっ……はぁっ……!」
地面に倒れ込みながら、ようやく息を吐いた。
生きている。
本当に、生きている。
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アリアが涙ぐみながら俺を見下ろした。
「……追いついたわね」
俺は力なく笑った。
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「ああ。
約束、守っただろ」
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勝てはしなかった。
でも——
確かに俺たちは、生き残った。




