第16話「結界の中で」
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俺は全力で駆け込み、そのまま淡く光る結界の中へ飛び込んだ。
途端に、空気が変わる。
さっきまで全身を締め付けていた圧迫感が、嘘みたいに消えていった。
「はぁっ……はぁっ……」
膝に手をつき、荒い息を整える。
あと一瞬遅れていたら、あの巨大な爪の餌食になっていたかもしれない。
「よかった……間に合った」
背後では、結界の外側を黒い影がゆっくりとうろついている。
巨大な体。
禍々しい鱗。
暗闇に溶け込むような存在感。
間違いなく——さっき天井に張り付いていた化け物だ。
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「大丈夫?」
声に振り向くと、そこに彼女はいた。
金色の長い髪。
疲れた表情。
けれど芯の強さを感じさせる瞳。
俺より少し年上に見える、落ち着いた雰囲気の女性。
「えっと……助けてくれてありがとう」
「お礼はあと。まずは落ち着いて」
静かな声だった。
彼女は俺を座らせると、周囲の結界を確認するように視線を巡らせる。
「ここは私の張った簡易結界の内側。
あのモンスターは、この中には入ってこられないわ」
「この結界……あなたが?」
「ええ」
うなずいた彼女は、小さく息を吐いた。
「後方支援専門の魔法使いだから。
攻撃は苦手だけど、こういう守りは得意なの」
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そこでようやく、お互いに自己紹介になった。
「俺はレイ。Eランクの冒険者だ」
「私はアリア。C級パーティの支援魔法担当……だった者よ」
“だった”。
その言い方に、胸がざわつく。
「……だった、って」
アリアは静かに目を伏せた。
「私のパーティは、もういない。
みんな……ここで死んだわ」
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言葉が出なかった。
「この迷宮の捜索依頼で来たんだ。
でも、三層目の奥であれに遭遇した」
彼女の視線が、結界の外の影へ向けられる。
「あのモンスターに奇襲されて……
私は仲間に守られて、なんとか結界を張る時間をもらえた。
でも、それだけ」
淡々と語る声の奥に、深い後悔がにじんでいた。
「それからずっと、ここでひとりで耐えてたの。
救援を待ちながら」
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「……あれは、何なんだ?」
俺の問いに、アリアはゆっくりとうなずいた。
「名前だけは知ってる。
《影喰いの黒竜 シャドウドレイク》」
その言葉だけで、空気がさらに重くなった気がした。
「本来なら、こんな初級迷宮にいるはずのない存在よ。
どうしてここにいるのかは……私にも分からない」
やっぱり、普通の相手じゃない。
武蔵が危険だと言った理由が、嫌でも理解できた。
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「俺、正直ここまで静かだから油断してた」
「この迷宮が静かだったのは、たぶん……」
アリアは小さくうなずく。
「他の魔物は、みんなあれに食べられたか、逃げ出したからよ」
「……なるほどな」
だから何もいなかったのか。
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結界の外では、シャドウドレイクが低くうなり声を上げている。
まるで獲物が逃げ出すのを待つ獣のように。
「この結界はどれくらいもつんだ?」
「正直、あまり長くはないわ」
アリアは申し訳なさそうに答えた。
「魔力の消耗も激しいし、ずっと張り続けられるものじゃない。
いずれは……限界が来る」
つまり——
「ここにいれば安全ってわけじゃない、ってことか」
「ええ」
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俺たちはしばらく沈黙した。
勝てる相手じゃない。
救援が来る保証もない。
このままじゃ、じり貧だ。
「……戦うのは無理だよな」
「無理ね。断言できる」
アリアは迷いなく言い切った。
「あなたがどれだけ強くても、今の状況じゃ勝ち目はない」
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なら、答えはひとつだ。
「逃げるしかない、か」
「ええ。
生き残るためには、それしかない」
俺は深く息を吸い込んだ。
ここまで来たけど、目的は捜索。
そして何より——生きて帰ること。
「よし。じゃあ考えよう」
「え?」
「どうやってここから脱出するか。
あの化け物に見つからない方法を」
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アリアは一瞬だけ驚いた顔をして——
そして小さく、力強くうなずいた。
「……そうね。
諦めるには、まだ早いわ」
結界の中で、俺たちは向かい合う。
敵は圧倒的。
それでも——
「勝つ必要なんてない。
生きて帰れれば、それでいい」
俺の言葉に、アリアは静かに微笑んだ。
「なら……作戦会議、始めましょうか」
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こうして俺たちは、絶望的な状況の中で——
生き延びるための道を探し始めた。




