第1話「奴隷闘技場」
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その日は、本当にいつも通りだった。
学校が終わって、家までの帰り道。
誰とも話さず、特に面白いこともなく、ただ時間だけが過ぎていく。
クラスでは空気みたいな存在。
友達もほとんどいない。
まあ、別にそれでいい。
俺には歴史の本さえあれば十分だった。
「……はあ。今日もつまんなかったな」
肩に掛けた黒いスクールバッグを揺らしながら歩いていた、そのとき——
足元が、突然光った。
「……え?」
地面に浮かび上がったのは、見たこともない模様の円。
青白く輝くそれは、どう見ても“魔法陣”だった。
「ちょ、待てって——!」
逃げる暇なんてなかった。
眩しい光に包まれて、俺の体は一瞬で——どこかへ消えた。
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次に目を開けたとき、俺は森の中に倒れていた。
「……ここ、どこだよ」
知らない匂い。知らない景色。
スマホは圏外。というか、電波なんて存在していなさそうな雰囲気。
状況を理解する前に、背後から怒鳴り声が飛んできた。
振り向いた瞬間、俺は数人の異種族に取り囲まれていた。
獣のような顔、鱗の肌。どう見ても人間じゃない。
「いや、ちょっと待っ——」
言葉なんて通じるはずもなく、俺はあっさり拘束された。
殴られ、押さえつけられ、首に冷たい枷をはめられる。
抵抗なんてできるわけがない。
連中は俺のスクールバッグだけを無理やり肩に掛けさせ、そのまま乱暴に引きずっていく。
そのとき俺は、必死でバッグに手を突っ込んだ。
何か武器になるものはないか——そう思って、反射的に筆箱からカッターをつかみ取る。
けれど。
取り出した次の瞬間には腕をつかまれ、地面に叩きつけられていた。
使う暇なんて、一瞬もなかった。
気づけばカッターだけが、ポケットに入ったままになっていた。
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連れて行かれた先は——地下の闘技場だった。
鉄格子。怒号。歓声。
理解できない言葉が飛び交う、異様な空間。
観客席には、人間も獣人も、見たことのない種族までごちゃ混ぜになって座っている。
酒を飲み、金を賭け、汚い笑い声を上げる連中。
どう見ても表の世界じゃない。
裏社会の、違法な賭け試合の会場だった。
「……嘘だろ」
わけも分からないまま、俺は闘技場の中央に押し出された。
武器はない。
説明もない。
逃げ場もない。
向かい側から現れたのは——
二メートルはあろうかという巨体のリザードマン。
分厚い鱗に覆われた腕。
そして、見上げるほど大きな刀。
観客の歓声が一気に大きくなる。
「いやいやいや……無理だろこんなの!」
合図と同時に、俺は走り出した。
戦う?
そんなの無理に決まってる。
俺にできるのは、ただ逃げることだけだった。
必死に走り回り、転げ回り、かわし続ける。
でも体力なんてすぐに尽きる。
ついに足がもつれ、壁際へと追い詰められた。
観客の嘲笑が耳に刺さる。
そして——
巨大な刀が、俺の頭上に振り上げられた。
「……あ、死んだ」
そう思った、その瞬間。
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「——身体を借りるぞ」
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低く、落ち着いた声が頭の奥に響いた。
次の瞬間、俺の意識は奥へ引っ込み——
体が、ひとりでに動き出した。
紙一重で刃をかわし、滑るように距離を取る。
さっきまで必死に逃げ回っていたはずの体が、
まるで別人みたいに静かだった。
その“誰か”は、迷いなくポケットに手を伸ばす。
取り出されたのは——
俺が捕まる直前に入れたままだった、一本のカッター。
「……これか」
短い一言。
次の瞬間には、もう終わっていた。
踏み込みは一瞬。
無駄のない動き。
リザードマンの巨体がぐらりと揺れ、そのまま前のめりに崩れ落ちる。
——気絶。
闘技場は、嘘みたいに静まり返った。
しかし騒ぎはすぐに怒号へ変わる。
奴隷商の手下らしい連中が一斉に駆け寄ってきた。
逃げ道をふさぐように、武装した警備が前に立ちはだかる。
けれど俺の体を動かしている“誰か”は、まるで動じなかった。
振り下ろされる棍棒を軽くかわし、相手の腕をひねり上げる。
踏み込み、急所へ一撃。
悲鳴とともに一人が倒れ、別の男が剣を抜く。
だがその剣が振られるより早く、カッターが喉元に触れていた。
次々に迫る警備たちを、最小限の動きだけで制圧していく。
まるで熟練の剣士のような身のこなし。
俺の体とは思えないほどの正確さだった。
混乱の中、出口へ続く通路が開く。
そのまま迷いなく駆け抜け、闘技場の外へ。
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どれくらい走ったのかも分からない。
気づけば、街らしき建物が遠くに見える場所まで来ていた。
そのとき——
「……ここまでだ」
声が、静かに響いた。
次の瞬間、体の主導権が俺に戻る。
途端に全身から力が抜けた。
「……あ、やば……」
視界が暗くなる。
立っていられない。
俺はそのまま——
冷たい地面に倒れ込んだ。
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次に目を覚ましたとき、俺は見知らぬ部屋のベッドの上にいた。




