祝福の先にあるもの
その日、イレーヌは自分の衣装に初めて悩んでいた。
今日は誰かの結婚式ではない。ただ、ナジルが「もう一度、会いたい」と言ったから──それだけの理由で、服を選ぶ自分がいた。
淡いクリーム色のワンピース。飾り気のないリボン。
教会の白装束と違い、何の神聖さもない。けれどそれが今は、愛おしい。
(これは、わたしが自分のために選んだ服……)
待ち合わせ場所は、郊外の静かな丘だった。
以前彼女が「式で呼ばれるだけじゃなく、どこか遠くへ行ってみたい」とぽつりと言ったのを、ナジルは覚えていたのだろう。
夕暮れ時。草原に差す光の中で、彼は待っていた。
礼装ではない、どこか旅装に近い軽装だった。
「やあ、イレーヌ。今日も綺麗だね」
「……また、そういうことを」
イレーヌは照れ隠しに肩をすくめて笑う。
「俺、君に頼みたいことがある」
「……祝福、ですか?」
「違う。俺はもう祝福なんていらない。君がいてくれるだけで、十分すぎるくらいだから」
言葉の一つひとつが、胸に刺さる。
もう、見ないふりはできなかった。
「……でも、私は誰かの幸せを“支える”ために生きてきました。自分が幸せになれるなんて、考えたこともなくて……」
「じゃあ、今から考えよう」
ナジルは穏やかに言った。
「祝福ってさ、人の手に届かない“神の奇跡”だと思われてる。でも、君の祈りは違う。“誰かを信じる力”だ。……俺は、それを自分に向けてほしいんだ」
「私に、あなたを……祝福させたい?」
「ううん。君自身に、君自身を祝福してほしい」
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
これまで幾度となく、誰かの幸せを願ってきた。
けれど、自分自身の幸せは、願ったことがなかった。
それは、贅沢ではなかった。
わがままでもなかった。
ただ、願ってもいいと知らなかっただけだった。
「イレーヌ。君がよければ……俺と、人生を歩いてくれないか?」
それは、初めて“誰かからの選択”だった。
誰かの役目としてではなく、ただ一人の人間として。
イレーヌは、そっと手を差し出した。
彼がその手を取った瞬間、空に風が生まれた。
いつものように、神の祝福の風かもしれない。
けれど今日だけは、違って見えた。
──これは、わたし自身の祈り。
祝福の先にある、新しい人生のはじまり。