花嫁の条件
イレーヌは、教会の片隅で机に向かっていた。
手元のノートには、これまで祝福を請け負ってきた式の記録が、びっしりと書き込まれている。名前、年齢、階級、式場の場所、天候、花嫁の表情──そして、自分の祈りの後に感じた、風の気配や光の差し方。
(わたしは、ただの媒介なのか。それとも……)
ふと、ナジルの言葉が胸に蘇る。
「君こそが、一番祝福されるべきだ」
彼のまなざしは、自分の役目ではなく、“わたし”を見ていた。
それがどれほど稀なことだったか、今ならわかる。
その日の夕刻、ナジルが再び訪ねてきた。
「今夜、時間ある?」
「え?」
「式じゃなくてさ。教会でもなく、祈りも抜きで。君自身が行きたい場所ってある?」
そう聞かれて、イレーヌは答えに詰まった。
自分の望みを問われたのは、初めてだったから。
少し考えて、彼女は言った。
「……市のはずれに、小さな花屋があります。そこに、春になると野の花が届くんです。……式場に飾られることのない、名前も知られてない花」
ナジルは、にんまり笑った。
「じゃあ、そこにしよう。名前も知られてない花を、今夜の主役にしよう」
人混みのない裏通りを抜け、ふたりは灯りの消えた花屋の前に立った。
鍵を借りると、店主は快く開けてくれた。事情を話すと、「あんたがあのイレーヌさんかい」と笑い、言った。
「誰かの花嫁になれるよう、いいのを見繕っておいたよ」
その言葉が、なぜか胸にしみた。
店内の奥、ひっそりと活けられていたのは、
小さくて、華やかではないが、香りのやさしい白い花だった。
名もなき花──だが確かに、そこに咲いていた。
「綺麗だろ?」
「……はい」
「でも、君の方が綺麗だよ」
「……!」
不意に言われて、イレーヌは息を呑んだ。
何人もの花嫁を見送ってきた中で、一度も言われなかった言葉。
「俺はね、式がどうとか、神の加護がどうとか、正直どうでもいい。もちろん君が祈ってくれたら嬉しいけど……そうじゃなくても、君がそばにいてくれたら、それで十分なんだ」
イレーヌは、何も言えなかった。
言葉にしようとすれば、きっと涙がこぼれてしまうと思った。
それでも、絞り出すように言った。
「……花嫁って、どうあるべきだと思いますか?」
「さあ。完璧である必要はないと思う。ただ……一緒にいて、心がやわらぐ人。嬉しい時も、辛い時も、見てほしいと思える相手。俺にとっては──それが君なんだけどね」
それは、彼にとっての“花嫁の条件”だった。
神の祝福も、格式も、名家の血筋もない。
ただ、彼は“自分がそう感じたから”選ぶと言った。
その夜、イレーヌは生まれて初めて、
自分が誰かにとって「花嫁候補」として見られている実感を得た。
誰かのための器ではない。
誰かの、たったひとりになるということ。