選ばれるということ
数日後、イレーヌは教会の事務室で、次の式の打ち合わせをしていた。
予約は相変わらず引きも切らず、今月だけで祝福を請われた式は七件を超えている。上流貴族から新興商家まで、その顔ぶれは幅広い。だが、いずれも彼女に「祈ってほしい」だけで、「話したい」とは誰も言わない。
(……あの人だけ)
打ち合わせの途中、ふと脳裏に浮かんだのは、控室で言葉を交わした青年・ナジルのことだった。
「俺は、“花嫁”を探すことにした」
あれから、彼が何者で、なぜあんな真っ直ぐな目で自分を見たのか、気になってしかたがない。
気づけば、祝福の文言を唱える口が、わずかに遅れるほどに。
「イレーヌ様?」
「あっ……すみません。少し考え事を」
我ながららしくないと思った。
これまで、感情に揺らいで祈りを乱すことなどなかったのに。
その日の夕刻。
教会の前で、またしても彼女を待つ影があった。
「……ナジルさん?」
「やあ。迷惑だったら、追い返してくれていいよ」
そう言って笑うその顔には、下心も思惑もない。
まるで、道端の花を愛でるような素朴な好意だった。
「どうして……そんなに気にかけてくださるんですか? わたしなんて、あなたの人生に何の関わりも──」
「あるさ」
遮るように、ナジルは言った。
「君が祈った夫婦のうち、俺の姉がいる。あのとき、彼女は絶望していた。愛のない政略結婚だったから。でも、式で君が祈った瞬間、何かが変わった。……姉さんが、初めて笑ったんだ」
「……そんなこと……」
「それから姉さんは、少しずつ旦那と向き合って、今じゃ子どももいて──幸せだよ。……君の祈りがなかったら、そうなってなかったかもしれない」
それは初めて聞く“その後”だった。
イレーヌの祈りが、誰かの未来を変えたという実感。
いつもは式が終われば、そこで役目は終わり。
だが、彼の言葉は、祈りが“届いた”ことを教えてくれた。
「だから俺は、君が好きなんだ」
「っ……!」
真正面からの言葉に、イレーヌは思わず足を引いた。
「好きって……私を? それとも“祝福の器”としての私を?」
問いながら、自分が恐れているのだと気づく。
選ばれることを、望みながらも、信じられないでいる。
だが、ナジルは即答した。
「君“自身”を、に決まってるだろ。器としての君も素敵だけど、今日こうして少し迷ってた君も好きだよ。完璧じゃない方が、俺は嬉しい」
選ばれるということ。
それは、自分の価値を他人が決めるのではなく、
誰かが「この人がいい」と、名指しで言ってくれること。
イレーヌの心に、小さな火が灯った。
それはまだ確信にはならない。
だが、遠い夢物語ではないと、思い始めていた。