幸せを測る尺度
「どういう意味、ですか?」
イレーヌは、思わず尋ね返していた。
控室の前に立つ男は、見た目こそ礼装に身を包んでいたが、どこか儀礼の匂いを欠いた印象を与えた。肩の力が抜けすぎている。上流階級の婚礼には似つかわしくない空気をまとっていた。
それでも──否、だからこそ、彼の言葉は奇妙な重みを持っていた。
「俺は、さっきの式を見てた。……君が、祝福を降ろした瞬間、空気が変わった。会場全体が息を呑んで、光が差して……あんなの、奇跡だよ。なのに」
彼は苦笑した。
「君は、誰にも見られてない」
イレーヌは返す言葉を失った。
それが事実だったからだ。
「もちろん、“式場”としての君は大人気だ。君が祈れば、夫婦が幸せになるって噂は貴族社会で常識だ。でもさ、君自身がどう生きてるかとか、何が好きかとか、どんな夢を見てるかとか──誰も気にしてない」
「……私は、それで構いません。役目ですから」
口に出してみて、すぐに気づく。
それは本音ではなかった。
男は、にこりと笑った。
「構わないなら、今も胸が痛んでないはずだ」
その言葉に、イレーヌは視線をそらした。
彼女の中の“何か”が、否定を拒んでいた。
「君、名前は?」
唐突に彼が言った。
「えっ……? イレーヌですけど」
「イレーヌ。俺はナジル。式に呼ばれてた新郎の友人。正確には、見学に来た下見客ってやつだ」
「……下見、ですか?」
「そう。俺もいずれ、誰かと式を挙げなきゃいけない立場でね。だから、良い“式場”を探してた」
ああ、やっぱり。
また「祝福を呼ぶ器」としての私が目当てか──そう思いかけて、ナジルは言葉を重ねた。
「でも、俺はもう“式場”じゃなくて、“花嫁”を探すことにした」
イレーヌの心臓が、一瞬止まりかけた気がした。
「……それ、冗談ですよね?」
「冗談なら、もう少し面白く言うよ。……君は、自分を祝福の道具だと思ってる。でも、君がいなければ、祝福そのものが成り立たない。つまり“幸せの起点”は、君だ。なら、君こそが一番祝福されるべきじゃないか?」
「わたし……?」
「俺はね、誰かの幸せを“呼ぶ”人間が、誰よりも幸せになってほしいんだ。そうじゃないと、皮肉だろ?」
どこか茶化すように、けれど真剣に。
ナジルは、イレーヌの“芯”を見つめていた。
「……ナジル様」
「様はいらないよ。俺と君は、今この瞬間から──見学者と式場じゃない。たった一人と一人として、向き合ってる。違うかい?」
初めてだった。
誰かが、自分の「役目」ではなく「存在」そのものを見て、向き合おうとしてくれたのは。
イレーヌは、小さく首を横に振った。
違わない、と。
控室の窓の外で、午後の陽が教会を照らしていた。
まるで、誰かの新しい始まりを祝うように。