祈りに値しないもの
イレーヌは、ヴェゼラン王国の地方役場で行われる小規模な結婚式に立ち会うことになった。
その依頼は外交文化局の仲介によるもので、地元の行政官が「形として参加を認めた」だけの、極めて事務的なものだった。
「式に祈りは不要ですが、“異文化理解”としては参考になるでしょう」
そう言われた時点で、イレーヌの立場は、装飾に過ぎなかった。
──だが、その日の式で彼女は、強烈な拒絶に出会うことになる。
*
新郎は、穏やかで真面目そうな男性だった。
だが、新婦は入室のときから不機嫌な顔を隠さなかった。
名前は、ラーシャ。
短く刈った髪、鋭い目つき、まっすぐな口調。
彼女は行政官に署名を求められる直前、イレーヌの姿を見て、はっきりと声を上げた。
「その人、何? “祈り”をするって聞いたけど、必要ないわ」
場の空気がぴたりと凍りつく。
イレーヌは動じなかった。
「お望みでなければ、私はただ見届けるだけです。あなたの人生は、あなたが決めていい」
ラーシャは睨みつけるように言った。
「“祝福”なんて、される資格ないって、ずっと思ってた。
私は──信じられて育った子どもじゃない。
愛されてた記憶もない。なのに、“祈り”だけ受け取るなんて、滑稽だと思わない?」
その言葉に、誰もが言葉を失った。
だが、イレーヌは小さく首を横に振った。
「いいえ。……あなたが“自分は祈りに値しない”と思うなら、私は祈りません。でも、それは“本当に”あなたの本心ですか?」
「……!」
「誰かに祈られたことがない人ほど、
本当は、一度でいいから祈ってもらいたいと、そう願っているように、私は思うんです」
ラーシャの唇がわずかに動いた。
だが何も言わず、署名だけして席を立とうとする。
その背中に向けて、イレーヌは静かに言葉を紡いだ。
「これは、形式ではありません。誰にも届けようとしない祈りです。
ただ、今のあなたの人生に──
『信じてくれる人が、一人くらいいたのかもしれない』と、そう思える瞬間が来るように」
ラーシャは立ち止まった。
だが、振り返らずにこう言った。
「……祈りなんかじゃ、何も変わらない」
「はい。祈り“だけ”では、何も変わらない。
でも、“祈りを知っている人”は、世界の見方が少しだけ変わることがある。私は、それを信じています」
ラーシャは、無言で部屋を出て行った。
その背中には、怒りでも誇りでもなく、深く染みついた孤独の影があった。
*
式のあと、セリオ宰相が待ち構えていた。
彼は腕を組み、皮肉な笑みを浮かべる。
「……見事な説得だった。だが結果は変わらなかったようだ」
「ええ。でも、私は彼女の“心の拒絶”が、ただの反発ではないと感じました」
「それが“信仰”の力か? 見えない何かを信じるというやつだ」
「信仰とは、“信じたい”という願いに、少しだけ手を伸ばしてみることだと、私は思っています」
セリオは一瞬、言葉を失い、そしてぽつりと呟いた。
「……君は変わってるな」
イレーヌは微笑んだ。
「祈りは“変えようとすること”じゃないんです。
変わるかもしれないと、“信じること”なんです」
そして彼女は、ひとりそっと手を合わせた。
これは──誰に届くかもわからない。
それでも、“誰かの心がほどける日”を信じる祈り。