祝福を必要としない人々
その国には、祈りがなかった。
ヴェゼラン王国。
神殿のない地。
法と契約だけが人を繋ぐ、“現実主義の国”。
イレーヌは今、その土を踏んでいた。
「歓迎するよ、“祝福の巫女”イレーヌ=ミレヴィナ殿」
そう出迎えたのは、若き宰相・セリオ=ハインツ。
理性的で、無駄を嫌うこの国を象徴する男だ。
出迎えの儀礼すら省略し、滞在期間の目的を即座に明示した。
「今回の主目的は、文化交流と“式の比較研究”だと聞いている。だが、あらかじめ言っておく。我が国には“祝福”の概念はない。結婚は制度であり、情緒ではない」
そう言い切る瞳には、信仰への軽蔑すら浮かんでいた。
「あなたの“祈り”には敬意を払うが、こちらでは不要と判断される可能性が高い。どうか了承願いたい」
イレーヌは微笑んだ。
「ええ、承知しています。ただ……私自身が、“祝福のいらない結婚”をこの目で見てみたいのです」
「……?」
セリオは少しだけ眉をひそめた。
「祈りのない結婚に、あなたの出番はあるのか?」
「あるかどうか、ではなく。ある“べき”かどうか、を探しに来ました」
*
イレーヌが滞在するのは、王都郊外の小さな役人宿舎。
その周囲には、まるで神殿のような荘厳な建築は見当たらない。
代わりに目立つのは、「公文書館」や「契約庁」と書かれた建物ばかり。
(この国では……“信じること”ではなく、“確かめること”が重視されている)
それは、祝福という“目に見えないもの”で世界を満たしてきた彼女にとって、未知の感覚だった。
翌日、彼女はセリオに連れられ、とある結婚式に参列することになる。
だがそれは──
「……これが、結婚式?」
参列者は十数名。
契約文書が朗読され、双方が同意の署名をし、立会人が記録し、終了。
音楽も、祝辞も、祈りもない。
あるのは「事実」の積み上げだけ。
「あなたが立ち会うことで、文化的には意味がある。だが、それ以上ではない」
セリオは言った。
「我々にとって、結婚とは“国家が保証する生活共同体の構築”にすぎない。……愛も、信仰も、必要ではない」
イレーヌは静かに答えた。
「では、あなたは誰かの“幸せ”を祈ったことはありますか?」
「……祈る必要があるのか? 努力すればいい」
「努力で届かない場所に届くのが、祈りなのだと、私は思っています」
セリオの目が、わずかに揺れた。
この国では、祈りは“幻想”とされている。
だが、祈られずに生きている人々の心に、“祈りの形”は本当に要らないのか。
その問いを携えて、イレーヌはこの国の中へ、静かに足を踏み入れた。